少しだけ時間は遡り、狛が緑鬼の腹の上で白い箱のようなものの前に立った後、狛は
人一人分よりわずかに余裕がある大きさのその箱は、縦長の長方形の形をしており、正面だけはぽっかりと開いていて、後は全方位に壁と窓がある。どう見ても一人用のエレベータか、ゴンドラと表現するのが適切なのだが、どちらにしても気になるのは、何故地獄にそのようなものがあるのか?という点だろう。
初めて見た時から、これに乗ればこの地獄から出られるという確信めいた予感があった。これはいつもの狛の直感というだけではなく、心に直接そう語り掛けられているような感覚である。故に、狛自身それを疑ってはいないのだが、問題はその行き先だ。これに乗ったら、確実に大変なことが起こる…狛の直感が働いているのは、どちらかと言えば、そちらのほうであった。
とはいえ、今の狛に何となく怪しいからという理由でそれを避ける余裕はない。一体どのくらい時間を無駄にしたのか見当もつかないのだ。大事な親友であるメイリーを救う為には、例えそれが火の中であっても飛び込むしか道はないと、狛は考えていた。
「イマ君、巻き込んじゃってごめんね…どこに繋がってるとしても、私が必ず守ってあげるから」
腕の中でスヤスヤと眠る少年の頭を撫でて、狛は覚悟を決めた。自分一人ならもっと迷わずに行動していたのだが、さすがに年端も行かない子どもを巻き込む事は躊躇していたようだ。
それでも、無間地獄にイマを置いていく気にもならない。ここが無間地獄であるのなら、尚更、イマはこんな所に居るべき存在ではない。こんな子どもが無間地獄に落とされるような罪をしでかせるわけがないのだから。
狛がゆっくり箱の中に入ると、音も無く開いていた部分が閉じた。やはり開いていたのは扉部分で正解だったらしい。こうして、四方向に同じ壁と窓のある箱は、そのまま天空へと引き上げられていった。
「すご…どうなってるの?これ…」
そのエレベータモドキは途轍もない速さで地獄を次々に昇っていく。ちなみに、仏教の教えによると無間地獄は八大地獄と呼ばれる地獄の最下層にある為、他の
狛は閻魔庁から無間地獄に落とされた感覚でいたが、実際は空間移動のような形で飛ばされたのだろう。でなければ、地獄の地面に落ちた瞬間に命はない。
狛は窓の外の景色が、もはや肉眼で見る事も出来ないほどの速さになっている事に驚いた。しかも、その速さは更に増している気がする。そんな速度で移動していれば、箱の中にいる狛はとっくに潰されて死んでしまっているはずだが、どういうわけだか重力の存在を感じないのだから余計に凄まじい。
これほどの常軌を逸した超常の力を発揮できる存在など、そうはいない。狛はこの先に待つ存在が恐るべきものでない事を祈りつつ、それが辿り着くのを待った。
時間にして、数分程度だろう。体感ではもっと短い時間が過ぎ、エレベータモドキは遂に停止した。はっきり言って、猛烈に嫌な予感がする。
窓の外は見渡す限りただひたすらに、真っ白な空間である。やがて、扉部分が閉じた時と同様に音も無く開いた。降りて来い、と言いたいのだろう。狛は心の底から震え、自分が立っているのか座っているのかすらあやふやになるほどの衝撃を受けていた。
(ここって…いや、まさかそんな…嘘だよね?)
この場所が、色とりどりの花が咲き乱れ、清らかな川が流る美しい場所であったなら、まだ良かった。天国ならば、話の通じそうな存在に思い当たる者がいる。だが、ここは無だ。一切の邪気も、妖気や霊気すらもない、純粋で穢れ無き無の空間である。狛が知る限り、それに相応しい存在はたった一つしかいない。
逡巡の後、狛が意を決して一歩箱から外へ出ると、地平線すら解らないほどの白い空間の真上には、無限に広がる宇宙空間が見えた。こうなると、もはや確定である。
「ああ、ヤバいよぉ…ここ、絶対来ちゃいけないトコだよぉ…」
思わず口をついて出た言葉は、まさに畏れ多いと言わざるを得ない心境によるものだった。狛、というよりも犬神家は陰陽師としての出自であるが故か、特定の神仏を信仰するという事があまりない。基本的には仏教が主体ではあるが、陰陽道の源流は中国が発祥の
かつて、カメリア国王が日本を、独自の宗教を持ちつつ様々な宗教を取り入れて融合させる国と評していたが、犬神家はその最たるものと言えるだろう。その教えを広める大元からすれば、不届き者と言われても文句は言えない。
狛が想像しているこの空間の主は、まさに、その教えそのものなのだ。せっかく地獄を抜けてきたというのに、不敬と断じられることだけはご免被りたかった。
超難関大学の受験直前でも、ここまで緊張することはないかもしれない。狛はお腹が痛いと言って帰らせてくれないだろうかと思う程に追い詰められていた。メイリーの笑顔が浮かばなければ、あの箱から降りたくなかったし、今でも逃げ出したい気持ちで一杯だ。
「そんなに緊張せずとも大丈夫ですよ。犬神狛…よくぞここまで辿り着きましたね」
「ひっ…!も、もったいないお言葉で、こ、ここここんな格好で来てしまってすみません!こ、こここ、この子は付喪神ですが、決して悪い存在じゃないので、その…!」
その声が聞こえた瞬間、狛は片膝をついて頭を下げていた。その言葉の一音一音に、魂が奮える。イマを抱えていなければ、土下座をしていただろう。現在、狛が身に纏っているのは
「心配せずとも、全て承知の上です。私の方から貴女を呼んだのですから、怯える必要はありません」
「は、はい…ありがとう、ございます…?」
狛は寛大な措置を受け、どうしていいか解らずに、とりあえず礼を言った。狛がここまで卑屈になるのも無理はない。今この空間にいる以上、全ては相手の思うままだ。現世であっても、それは変わらないかもしれないが、ここではなおの事、一切の抵抗など出来ないだろう。
「まず、その子はこちらで引き取ります。よもや無間地獄に落とされていたとは…貴女と言う存在がいなければ、助けられなかったかもしれません」
「は、はひ…」
その声に従い、手を離す前にイマの顔をそっと覗き込む。安らかに眠る顔は幼児らしい愛くるしさに溢れている。そして、狛がまばたきをした瞬間に、イマはその腕から消えていた。
共に過ごした時間は短いものだったが、命懸けで助け、守り抜いた相手とあって、その別れには少し寂しいものがある。だが、恐らくイマもまた、この空間の主に準ずるほどの存在なのだろう。それが狛には理解出来ていたので、ちゃんとお別れがしたかったなどと、ワガママを言う気にはならなかった。
「さて、では改めて。犬神狛よ、あの子を救けてくれたことに礼を言います、ありがとう。貴女の献身ぶりも、私は見ていましたよ」
「そ、そんな…私はただ、見ていられなかっただけで…」
狛はただただ平伏し、謙遜していた。実際のところ、狛は何か見返りを求めてイマを助けたわけではない。本当に、小さな子どもが鬼に追われているのを見ていられなかった、それだけなのである。話を聞く限り、地獄を抜けられたのはそのお陰なのだろうが、代わりにとんでもない相手と会う事になってしまった。
相変わらず姿は見えないが、それは当然だ。それは大宇宙の真理そのものであり、仏法そのものが体現した存在。本来、姿・形の無い永遠不滅の真理の仏尊。
大日如来が、狛の前にいるのである。