「失礼」
真っ先に動いたのは拍であった。すぐさまメイリーの元に行き、何かを確認している。そして数瞬の後、目を見開いて静かに呟いた。
「バカな、本当に魂が抜けかけている。さっきまでは本当に、ただ眠っていただけだったというのに…」
「そんな!?」
レディの言葉を疑っていたわけではないが、信じ切れていなかったのは事実だ。しかし、改めて拍が確認して、その異状が間違いない事が解ると、狛も神奈も玖歌も桔梗も、レディを除くその場にいたすべての人間が言葉を失った。
こうなってくると、一刻も早い対処が必要である。初めは命に別状はないと言っていたからこそ、話をしている余裕があったのだ。だが、もはや猶予は無くなった。狛は拍に詰め寄り、掴み掛るようにして解決策を聴き出そうとしている。
「お兄ちゃん!どうしたらいいの?!メイリーちゃんが死んじゃうなんて、私…!」
「落ち着け、狛。これには絶対に何か原因があるはずだ。それを取り除けば彼女は助かる。…桔梗さん、何か知っている事があれば全て話してください、今すぐに」
拍の問いかけは、もはや詰問と言っていい勢いだ。桔梗は考えを纏めるように押し黙ってから、ゆっくりと答える。
「その、絵巻神楽では、巫女はヤマ様に惚れ込み、共に地獄へ逝ってしまう事になっている。まさかとは思うが、彼女は巫女とシンクロしてしまったのかもしれない…」
「そんな事が有り得るのですか?前例でも?」
「いや、今までにそんな事は無かった。…無かったはずだ。だが、それしか思いつかない。すまない」
桔梗は頭を下げたまま、その場で立ち尽くしていた。その手を強く握りしめて震えているのは、彼女自身も悔しくて仕方ないのだろう。普段の桔梗は、生徒の事を誰よりも大切にして、優先して考えている教師の鑑と言うべき女性だ。
そんな彼女が、生徒を命の危険に晒して、しかも自身に打つ手がないというのは、苦痛以外の何者でもない。
やりきれない思いと重い空気が室内を包んでいる。狛は自分の無力を痛感しながら、状況を打開する術がないかと脳をフル回転させていた。
「こんな時、猫田さんがいれば…」
そう呟いたが、肝心の猫田はここにはいない。彼はそもそもこの神社には入れないからだ。それはさきほど桔梗が口にしていた鬼岩、
ちなみに、神子祭で街に人が溢れている事も相まってくりぃちゃあは盛況で、今日の猫田は朝からずっとそちらの手伝いにかかりっきりなのであった。
「ともかく、まだ完全に魂が抜けたわけではない。行方を追ってみよう」
「拍、そんな事が出来るのかい?」
「やってみないと解りませんが…少し深い霊視に入ります。お静かに」
そう言って拍は布団に寝かされているメイリーの隣に座ると、座禅のように胡坐をかいて目を瞑った。両手を胸の高さに固定し、親指と他の指を合わせて輪を作る
それらを組み合わせ、霊力をより強くしなやかに高めるのが拍の得意技であった。
そうして体内で練り上げた霊力を右手に集中させれば、その手はほんのりと光を放ち始めている。そして、それをそっとメイリーの額に当てた。
ぼんやりとした光は、染み込むようにメイリーの額から頭へ入り込んでいき、やがて、同じ輝きの光が彼女の頭から尾を引いて伸び始めていった。それは家の壁を抜けて本殿のある社へ向かっているようだ。
拍はそのまま霊視で、メイリーの魂がどこにあるのかを探り始めていた。魂の緒を辿っていくとやはり本殿の奥に設けられた大きな扉にぶつかる。それをすり抜け中に入ると、少し狭い部屋一杯に、人の背丈より大きな赤茶けた岩が置かれている。
その岩の真ん中に向かって、まるで吸い込まれるように魂の緒は伸びているようだ。
(これが妖怪…?確かに力は感じるが、岩にしか見えんな)
拍は視点を緒に合わせ、ゆるゆるとその岩の中に入ってみた。すると岩の中に入ったはずの視界が、突然開ける。今は霊体を飛ばしているわけではないので感覚はほとんどないが、どうも岩の中は別の空間か、別の世界に繋がっているらしい。
(もしや、これは…む!?)
拍が気付いたのは、強烈なプレッシャーであった。こちらは霊視で視ているだけだというのに、奇妙な圧迫感を覚える。どうやらそれが何かからの視線であると気付いた時には、霊視を解除させられ、一気に肉体へ感覚が引き戻される瞬間であった。
「…はっ!?」
「お兄ちゃん、大丈夫?!」
「あ、ああ…強制的に霊視をストップさせられた。とても強い力を持つ存在だ…あれがヤマ様、いや閻魔大王の力か」
生唾を飲み込みながら、拍はさきほどの視線を思い返していた。悪意こそ感じられなかったものの、非常に強力な力は嫌という程感じられた。ただ、魂の緒がその視線の方へ繋がっていたのは間違いない。いよいよ本当に、ヤマ様がメイリーの魂を引き寄せた可能性が高まってきたと言えるだろう。
しかし、そうなると問題は、どうやって彼女の魂を取り戻すかである。
メイリーが自ら地獄へ逝ったというのは考えられない。彼女は一般人で、なんの修行もしていないので、独力で幽体や霊体を身体から分離させる事すら不可能だ。魂とはその幽体などよりも、もっと根源となる『霊の核』である。自分の意思で身体から抜け出すことなど、相当な術師であっても難しい行為だ。
なんらかの力を持つ存在が引き寄せたと考える方が、よほど納得がいく。例えば、地獄を統べる閻魔大王のような…
そうは言っても、閻魔大王とは死者の罪を裁く王ではあるが、生きた人間を地獄に引き込むような事はしないはずだ。仮にそれをしたのだとしても、必ず理由がある。そうでなければ、あの世から人間を引っ張り放題になって、命が成り立たなくなってしまうからだ。
例え冥界の神とて、生きている人を殺す権限など持ち得ていないのである。
となれば、メイリーの魂と接触さえ出来れば、現世に取り戻せる可能性はあると言っていいだろう。囚われているのならば、捕らえている相手と説得か交渉が必要だが、本人の意思でない以上、説得できないはずがない。
では、どうやって地獄にいるメイリーの魂と接触するか?だ。拍が悩む最大の問題は、桔梗から解決策が伝えられる事となった。
「もし、本当にメイリー君の魂が地獄にあるのならば…取り戻しに行く策はある。とても危険な賭けだが…」
「桔梗さん。本当に?どうすれば、メイリーちゃんの魂を取り戻せるの!?」
狛が希望に目を輝かせて桔梗に問うと、彼女は実に言いにくそうに奥歯を噛み締め、逡巡しながら口を開いた。
「直接地獄に行くしかない…言い伝えによれば、
それは信じ難い提案であった。生きたまま冥界に降る逸話は、古今東西問わずたくさんあるが、まさか現代のこの世において、まさかそれを実践することになるとは誰一人予想もしてなかっただろう。もし失敗すれば、間違いなく死ぬことになる。誰もが恐怖するその策に、狛だけが怯む事無く手を挙げるのだった。
「いいか、狛。タイムリミットは精々12時間後、翌朝だ。それを過ぎれば、メイリー君の魂は完全に身体から抜けてしまう。もしも万が一、時間内に助けられないと思ったら、素直に撤退しろ。お前まで死なせるわけにはいかない。解ったな?」
数十分後、身支度を整えて準備万端な狛に向かって、拍がかつてない表情で指示を出した。本音では行かせたくないのだろう、唇の端を嚙み過ぎて切れてしまい、血が滲んでいる。そんな兄に、狛はにっこりと笑って応えた。
「大丈夫だよ、必ずメイリーちゃんの魂を連れて帰るから!」
「狛…!」
それを間近で見ていた神奈は、まるでメイリーのように狛に抱き着いては、その名を呼んでいる。
今回、地獄へ向かうのは狛たった一人だ。
神奈は一昨日の雲外鏡事件で魂の力そのものが消耗している事から危険と判断され。また妖怪である玖歌は、迂闊に地獄などの冥界へ足を踏み入れると、それに馴染んで戻って来られなくなってしまう可能性があった。
ネクロマンサーであるレディも、その力の特性上、冥界とはすこぶる相性が悪い。死者を操る力など、閻魔大王や獄卒の鬼には全く通用しない。彼らは元より死者に対して強い力を発揮できる存在だからである。
そして、拍は霊視などで狛をサポートする為、現世に残らねばならなかった。現状、力を持って動けるのは狛だけというわけだ。
「それじゃ、行ってくるね!」
努めて明るく、狛は散歩にでも出かけるかのように手を振り、
狛は眼前に広がるその風景に見覚えがあった。いや、厳密に言えば、過去に直接その目で見た事があるというわけではない。よく似たものを知っているというだけだ。
どこまでも続く赤黒く染まった空、肌を刺すような敵意と殺気に満ちた空気、遠くから聞こえる苦痛と悔恨、悲哀と怨嗟という負の想念が形を持ったかのような叫び声…これはまさに、妖怪達が生み出す異界に瓜二つである。
しかし、ここが異界でない事はこの地に降り立った狛には痛い程よく解る。これは全く似て非なるものだ。
「ここが、地獄…」
そんな狛の呟きは、血の臭いが混じる生温い風に乗って、静かに消えていった。