「メイリーちゃんが、襲われた…!?」
営業を始めた屋台の食べ物を片っ端から食べ進めていた狛の元にその一報が届けられたのは、絵巻神楽午後の部が終わって、しばらく経ってからのことだった。時間的には夕方だが、既に陽は落ちて客も増えてきた。賑わいはこれからもっと増えていくことだろう。
それも皆、ここ数年で一番の出来だと噂される絵巻神楽を見たいが為だ。だが、肝心のメイリーが襲われたとあってはそんな事は言っていられない。
「ああ、その事で桔梗さんが狛を呼んでいる。すぐに来てほしいと」
メッセンジャーになっているのは、様子を見に来ていた狛の兄、拍であった。拍も狛と同じかそれ以上に、桔梗に可愛がられているので挨拶に来た所だったらしい。狛達は、大慌てで桔梗の元へ向かった。
「メイリーちゃん!」
襖を開けて、中に飛び込む。ここは本殿脇に併設されている住宅だ。本来は神社の管理者が住む事を許されている場所で、神子家の分家がここを引き継いでいるようだ。案内された和室の中央には布団が敷かれ、そこにメイリーが寝かされている状態だった。メイリーの周りには、桔梗と神子家の親族達が神妙な面持ちで座っている。
「来てくれたか、狛。メイリー君の事なら心配はいらない、怪我はどこにもないし、ただ、妖怪に襲われてしまっただけのようだ」
「妖怪に…?一体どういうことなんですか!?」
思わず食って掛かりそうになる狛を、拍が制止した。桔梗や他の者達も困惑を隠せないと言った表情だ。狛の問いかけに桔梗は少し躊躇った後、口を開いた。
「私も実際に現場を見たわけではないが、メイリー君が次の舞までの間、本殿で休んでいる時に妖怪が現れたらしい。本殿の中は強い結界が張られていて、そこらの妖怪や低級霊など寄せ付けないはずだったのだが…」
桔梗の言葉を補足するように拍が言葉を繋げた、だが、その表情は険しく、桔梗を真っ直ぐに見据えている。
「俺も現場を見て確認してきたが、桔梗さんの言う通り、本殿には非常に強い結界が張られていた、それは間違いない。外からあの結界の中に侵入するのは、相当強力な妖怪か、結界が反応しない神性を持った存在でなければ不可能だろう。人間は別だがな」
拍の様子に桔梗が気付き、今度は桔梗が拍を見据えて厳しい顔をみせていた。
「拍、何か言いたい事がありそうだね?」
「…ええ、さきほども言いましたが、あの結界を越えるのは難しい。外から、ならばね。単刀直入に聞きます、桔梗さん。あの本殿の奥には何があるんです?」
拍の言葉に、神子家の全員に緊張が走った。知られたくない事を聞かれたと言わんばかりに、身体を強張らせ、中には酷く汗を掻き始めた者もいるようだ。一体、何を隠しているというのだろう。
「今まで、
「桔梗さん…」
「…そんなに責める様な目で見ないでくれ、二人共。わざと隠していたわけじゃあないんだ、話す必要が無かったから話さなかった。それだけなんだよ。確かに、本殿の結界は、あの奥にあるものを外に出さない為の封印の役割を持っている、それは事実だ。ただ…この話は他言無用に願いたい、いいかな?」
桔梗の瞳は、いつもの自信に満ちた傑物としてのそれではなく、許しを請い願うかのような弱気さを訴えかけるものであった。拍も狛も、子どもの頃から接してきた桔梗が、そんな顔をする所は見た事がない。二人はただ何も言えず頷く事しかできずにいた。
「本殿の最奥には、地獄の門が通じているという噂は知っているね?…あれは、事実なんだ。かつて、この地にヤマ様が降り立った事も含めてね。絵巻神楽で表現されている事は現実にあったことなのだよ。少なくとも、神子家ではそう言い伝えられている」
「そんな…!?」
「古くから中津洲家と神子家が争いながらも、互いに滅ぼし合うまでに至らなかったのは、それが理由だ。神子家は代々、この地の地獄の門を封じ監視する役割を持っていた。私達は一般的な武力よりも霊的な力に長けていた。それを中津洲家も知っていて、逆に中津洲家はそういった方面が弱かった為に、うちに手を出して後の管理が出来なくなることを恐れたのさ」
お伽話のように思っていた逸話が真実だったというのは衝撃的だが、退魔士としては少なくない事例ではある。問題はその内容だ、まさか現世と地獄が直接繋がっているというのは、かなり危険であるし、何より恐ろしい。
絶句する狛を余所に、桔梗はさらに話を続けた。
「本殿の奥に鎮座しているのは、かつて地獄から流れてきた大岩だ。次元の隙間に人や物が落ちてしまうように、あの岩は偶然この地に行き着いてしまったと、ヤマ様から伝えられている。本来、神子祭は、あの岩にかけられた封印を維持する為の信仰心を集める事を目的として執り行われていたのだよ。人の信じる心さえあれば、永遠にアレを封じ続ける事ができる。そういう代物なんだ」
「なるほど」
拍はその説明に得心がいったようで、顎を触りながら何かを考えている。一方の狛は納得がいかないのか、自分からも桔梗に質問を投げ掛けていた。
「でも、その岩…は地獄から来たと言っても、ただの岩なんでしょう?どうしてそこまで厳重な封印を?」
「あの岩は元々地獄、つまり冥界にあるべきものだ。それが現世に存在すると、それが楔や導となって色々なものを呼び寄せてしまうと言われている。それと、理由はもう一つ。あの岩は、それ自体が妖怪なのだよ。名は鬼岩、
桔梗の告白は恐るべきものであった。今の話で神子祭の成り立ちに近いものが解ったこともそうだが、そんな妖怪がすぐ傍にいた事にも驚きを隠せない。つまり、神子家の人々は、代々その岩をこの地で封じ、それを守る為に生きてきた守り人だったのだ。それを知れば、何故、一般の人々に忌み嫌われていた犬神家がこの地に住む事を許されたのか、その理由も見えてくる。
恐らく、犬神家は霊的な存在に対する予備戦力でもあったのだろう。互いにこの地の領有を主張しながら、中津洲家は対妖対霊の力が弱く、逆に神子家は人間相手の戦いに弱い。そんな歪な関係が、奇妙なバランスで保たれていた。実際、中津洲家と神子家では、家としての力関係でいえば中津洲家の方が上である。
もし万が一、両者の諍いによって、或いは戦国時代のように対外勢力によって神子家の力が衰え過ぎてしまった時…バックアップ的な存在が必要だったのだ。
思わぬ所で自分達の先祖にまつわる謎が一つ解けた、狛たちがそんな話をしている最中、レディはじっと眠っているメイリーを見つめていた。その様子に気付いた神奈は、そっとレディに声をかけてみる。
「レディ…さん。どうかしたのか?」
すると、レディはあまり感情の見えない表情をしてカンナに問い返した。
「ねぇ、この子が死んだら狛やアンタ達は悲しいの?」
「は…?いや、当たり前じゃないか、友達だぞ?」
レディが何を言っているのか解らないと、カンナは困惑しながら彼女の顔を覗き込んでいる。目の前のクラスメイトが得体の知れない怪物のような気がして、カンナは動揺の色を隠せなかった。当のレディは、カンナの視線など気にもとめず、大したことでもなさそうにまたメイリーの様子を窺っている。
「ふぅん、そうなんだ。なら、教えてあげるけど、この子このまま放っておいたら死ぬわよ」
「えっ?!」
突然の死の宣告に、神奈は驚愕した。いや、神奈だけではなく、漏れ聞いていた狛や拍、桔梗さえも驚いている。
「失礼、君は…狛の友達か?どうしてそう思うんだ?」
拍がその会話に割って入ると、レディはちらりと拍の顔を見たが、あまり興味がなさそうに呟く。
「だって、魂が抜けかけてるじゃない。今はまだ精々半分にも満たない程度だけど、放っておけば全部抜けきって、そのまま死ぬわ。私は
あっけらかんと語るレディだが、恐らくその言葉の意味がズレている。彼女には神奈の言葉が、
レディの物言いと、死の宣告に、その場の誰もが声を失っている。外から聞こえる祭の賑やかな声が、やけに遠く聞こえる気がした。