そこから見える風景は、荒野と言って差し支えなかった。
空の色が赤黒い事と、太陽が見えないせいでより殺風景に見えるのだが、不思議と暗さは感じない。ただ、見渡す限りゴツゴツとした岩ばかりの光景は寂しさばかりが強く感じられる。とはいえ、地獄というものをもっと殺伐としている場所だと想像していた狛にとっては、この景色もまだマシかもしれないと思っているようだ。
「ここから、どっちへ行けばいいのかな?」
狛が独り言ちてみると、出発前に渡された神楽鈴が小さく鳴り始め、やがて人の声のような音に変わっていった。
「…狛、聞こえているか?」
「お兄ちゃん?うん、大丈夫だよ。鈴からお兄ちゃんの声が聞こえるのって、ちょっと不思議だけど」
原理は解らないが、いくつも付いている鈴が調音して人の声を再現するというのは凄い技術だ。元が鈴の音なので、本来の拍の声よりも何音か高い気がするが、そこは気にしても仕方がないだろう。
「そうか、良かった。俺も口寄せはあまり経験がないからな、しかも、自分の声を遠隔に飛ばすのは過去に例がない…不安定かもしれないが、我慢してくれ」
「うん、解った。お兄ちゃん、ありがとね」
拍の言う通り、口寄せとは本来、自身に降霊して他者の言葉を伝える技術だ。今拍がやっているのはその真逆で、物体への憑依術に近い。それが人間界を超え、冥界である地獄までとなると、拍は相当骨を折ったに違いない。それを想像すると、狛は拍に感謝の気持ちしかないのである。
「俺の方こそすまない、まさかお前をこんな危険な目に遭わせるなんて…!」
「お兄ちゃん、だ、大丈夫だってばっ!自分の友達を助けに行くんだから、私が身体を張るのは当然でしょ!」
そんな会話をしている最中、狛が腰に佩いていた桃の木剣が僅かに震え始めた。
「わっ!な、なに?!剣が震えてる…!」
「近くに強い妖怪がいるのかもしれん。場所的には鬼だろう…身を隠せる場所はないか?」
「隠れる場所…あ、そこがいいかな」
狛はちょうど自分の身体よりも少し大きいくらいの岩を見つけ、その陰に身を潜めた。やや時間が経った後、ずしんずしんと足音を響かせて、赤い肌をした大きな体躯の鬼が歩いてくる。
その手には漫画や絵本で見たような鋭い棘がついた巨大な鉄のこん棒が握られていて、反対側の手には狛の腕ほどもある太さの鎖がいくつも束になっていた。その鎖の先には、やせ細って傷だらけの男女が何人も繋がれているようだ。呻き声と一緒に岩場の上を引きずられる痛みを訴える声まで聞こえてきて、それは本当に耳を覆いたくなる有様であった。
「な、なにあれ…?」
「…こちらでも確認した。恐らくあの鬼は刑場から刑場へ、罪人を移動させているのだろう。気を付けろ、そこは地獄だ。そこにいるのは全員罪人…善人ではないからな。助けようなどと思うなよ」
つまり、今通り過ぎたあの鬼はまさに獄卒なのだ。地獄と言えば罪人を裁くいくつもの刑場が有名ではあるが、それを管理するのは鬼達である。彼らの所業は酷く惨いものに見えるが、彼らはそれが仕事なので、決して悪事を行っているわけではない。
拍に助けようと思うなと言われて、狛はそれに気付かされた。ぱっと見の印象で、人間を鎖に繋いで引きずって歩く行為は酷いと思ってしまったが、そこに同情しても意味がない行為である。
とはいえ、狛は性根が優しすぎるほど優しい人間だ。頭では解っていても、咄嗟に動いてしまうかもしれない。拍はそれを心配しているのだった。
しばらく様子を見た後、木剣の震えが止まった事を確認し、狛は立ち上がって移動を再開する事にした。
「この剣、便利だなぁ。鬼にしか反応しないのかな?メイリーちゃんのいる場所が解ればいいのに…」
「さすがにそれは無理だろうな。まぁ、妖怪の敵意には敏感なはずだ」
狛は腰の木剣を抜いて眺めてみたが、特に変わった所はない。桃の木から作っただけあって、ほんのりと甘い桃の香りがする所が気に入った。もっとも、これは桔梗からの借り物なので、自分のものになったわけではないのだが。
桃の木というものは、古くから神性を持つ樹木として知られている。太古の昔には、桃は不死や長寿をもたらす霊薬として扱われていたし、古事記においても
そう言った逸話や神話によってか、桃はそれ自体が不思議な力を持っているのだ。元来、栄養も豊富なので、栄養状態の悪い古代の人々が食べて元気になれたのがそう言った逸話の始まりだろう。
狛が持っている桃の木剣は、通常30年前後と言われる桃の寿命の中で、樹齢100年を超えた非常に貴重な桃の木から、最も太い枝を切り出し、剣の形に加工したものである。
元は神事である絵巻神楽を舞う際の神具として作られた、文字通り霊験あらたかな剣で、危険な妖怪や悪霊などの存在を持ち主に報せてくれる力がある。古くから神子家で受け継がれてきたものだが、活用するなら今だと桔梗に持たされたのだった。
そうして、しばらく拍に言われた通りに歩いていると、少し開けた場所に出た。あまり身を隠せるようなものはなく、その先には古い琉球様式に似た建物が建っている。かなり大きく、まるで城か宮殿と呼ぶべきものだろう。これが閻魔大王の居城だろうか。
「何か凄く大きな建物が見える。ここにメイリーちゃんがいるのかな」
「そこが閻魔庁で間違いないが…おかしい、さっき俺が感じたあの視線の元はどこだ?狛が地獄に降りていることなど、向こうはとっくに気付いているはず…気を付けろ、罠があるかもしれない」
拍の言葉に息を飲みつつ、狛は静かに歩き出した。今着ている巫女装束は、
順調に閻魔庁に近づけたものの、相変わらず人の気配が全くない。狛が想像していたものは、大勢の死者が列をなして裁きを待っている。そんな光景だ。しかし、ここには人どころか鬼の姿も気配もない。桃の木剣が反応しないことから見ても、隠れ潜んでいるわけでもなさそうだ。
庁内のいくつかの部屋を慎重に見回ってみたが、やはりどこにもメイリーはいなかった。もちろん、鬼や他の死者も同様だ。誘き寄せられたか?と思いつつ開いた扉の先には、一人の男が椅子に座って待ち構えていた。
全身の肌の色は青く、赤と金色で装飾された服はやや華美に見えるが、その若く細面な顔にはよく似合っている。額には瞳があって、三つの目が狛を捉えると、狛は急に身動きが取れなくなってしまった。
「し、しまっ…?!」
「来たか…すまない、巫女の娘よ。今の私は、
その男は、伝わっている閻魔大王の姿よりもずっと若く、華奢に見えた。しかし、その迫力と三つの目から放たれた狛の身体を縛る力は、並大抵のものではない。ヤマ…すなわち閻魔大王は、死者の王と呼ばれているが、今ではれっきとした神の末席にいる人物である。
何の対策もなしに力を使われれば、人間である狛に対処は難しい。
そして、完全に体の自由を奪われた狛の足元にぽっかりと大きな穴が開いた。まさか、と思った時にはもう遅く、狛はその穴の中に叩き落とされていく。
「きゃあああああああっ!?」
「行く先は…無間地獄か…何とかしなくては…」
閻魔大王は一粒の涙をこぼし、目を伏せた。そこへ一人の人間の男が現れたが、狛にはもう見る事ができなかった。