第92話 鬼神の剣

 刀を手にした神奈は、その迫力にただただ圧倒されていた。鋼で出来ているはずなのに、稽古で使う竹刀や木刀よりも軽い。神奈の家には、居合術の師範であった祖父が持つ真剣が置いてあるので、刀そのものは幼い頃から何度も目にしてきたものだが、この刀からはそれとは全く違う異質な何かが感じられる。


「こ、これは…!?」


――これこそ、鬼姫鈴鹿午前が第六天の魔王より授かりし、神の剣だ。三千大千世界をも見通す神通力を持ち、剣の主に超常の力をもたらしてくれる。さぁ、意識を集中して。


 言われた通り、手の中に収まる刀へ意識を集中させてみれば、恐ろしいまでの力が流れ込んでくるのが解った。まるで、刀が自分の身体の一部のようであり、刀全体が手足か目であるかのような感覚に陥る。

 なにしろ目を瞑っても、刀を通して周囲の風景が見えるのだ。語り掛けてくる前世の鬼の言葉が的外れでないのは明らかだった。


「これが、顕明連けんみょうれん…」


 もう一度その名を呼んでみると、刃がキラリと光った気がした。もし刀そのものに意思があると言われても素直に信じてしまいそうな、それほどの妖しい魔力が、この刀からは感じられた。


――さて、見入っているいとまはないよ。友人を助けたいのだろう?しっかりと相手をよく見て、斬るべきものを見極めるんだ。


 その言葉にハッとして、神奈はかぶりを振った。今のは見入っていたというよりも、刀に魅入られていたと言うべきだろう。ほんの一瞬だが、この刀の威力…その切れ味を試してみたい、そんな衝動が神奈の頭をぎったからだ。さすがは鬼の剣である。


 斬るべきものと諭されて、神奈はまず狛の方を見た。相変わらず、狛は母であるあめを相手に苦戦を強いられている。というよりも、防戦一方で、ただただ攻撃を避けているばかりのようだ。一刻も早く狛を助けたい気持ちはあるが、それよりも、元を断つ方が先であるとも感じていた。


 宙に浮かび、悲哀の叫びを繰り返す雲外鏡…あれを斬ってしまえば、全てが終わる。


 だが、神奈にはどうしてもあの雲外鏡が悪だとは思えなかった。少女の霊として神子祭で助けを求めた姿と、孤独を嫌い棄てられることを恐れる声が重なると、ただあの鏡を破壊するだけで終わりにしてはならないような、そんな気がするのだ。


 戸惑い悩む神奈の耳元で、前世の鬼はさらに驚くべき言葉を告げた。


――今の魂だけの君では、そう何度もその剣を振るえまい。はっきり言って、それを振るっていいのはただの一度きり…一撃だけだ。でないと、君の魂は反動でぼろぼろに崩れてしまうだろう。それだけ顕明連の力は凄まじいからね。その代わり、君が斬りたいと望んだものを顕明連は間違いなく斬り捨ててくれるはずさ。その上で、何を狙うんだい?


 試すような口振りで、前世の鬼は神奈に問う。ここで神奈に死なれては困ると言っていたが、逆に言えば、大事なのは神奈だけで、他がどうなろうと構わないのだろう。もちろん、友人である玖歌やメイリーだけでなく、狛も含めて。

 何を選び、何を捨てるか?その選択に神奈は戸惑ったが、そう長く悩む時間があるはずもない。僅かな逡巡の末に、神奈は一つ決意してみせた。


「…玖歌、すまない。少しだけ、待っていてくれ」


 抱えていた玖歌をそっと地面に降ろし、神奈は両手で顕明連を構える。その顔に迷いはなく、歴戦の侍のように、迷いを一切振り払って目標だけを見据えるものとなっていた。


「私が今、斬るべきものは…」


 かつて、顕明連を手にした鈴鹿午前は自由自在に空を飛んだという。それは三明六通さんみょうろくつう、或いは六神通ろくじんつうと呼ばれる仏教における神通力の一つ、神足通じんそくつうという力によるものである。

 神奈が手にしている顕明連は、持ち主にその神足通じんそくつうを与える事ができるのだ。


 流れ込む力を感じ取り、神奈はその場から高く、高く飛んだ。

 自らの目前に迫る神奈の姿に雲外鏡は恐怖し、悲痛な叫び声を繰り出すが、それらは全く効果がない。そして神奈は空中で顕明連を大上段に構え、雲外鏡に目がけてそれを振り下ろした。


 ピシッ!という微かな音を立てて、雲外鏡を包んでいた紫の塗料だけが斬り剥がされていく。神奈の狙いはただ一つ、雲外鏡を凶悪の妖魔へと落とし込んだ紫鏡、その概念を斬ったのだ。


「私が斬るべきは、お前が得るはずではなかった悪しき力とその源…お前はもう紫鏡じゃない。人に愛され、正しく人の姿を映していた雲外鏡に、返れ…!」


――お見事。うむ、私の生まれ変わりはよい眼を持っているね。出来るなら、また交流したいものだ。


 神奈が着地すると、その手から顕明連は失われ、背後から感じられていた前世の鬼の気配が消えた。同時に、身体がバラバラになるほどの衝撃が襲ってきて、痛みの余り、その場から動けなくなってしまった。あの鬼が言っていた通り、顕明連を振るえたのはただ一度きりだったのは間違いないようだ。


「うう…!うああっ!!」


 のた打ち回る神奈の横に、ドスンと音を立てて雲外鏡が落ちてきた。これで悪夢は終わる、痛みの中で神奈はそう思った。しかし…


「グググ…グガアアアアッッ!!」


 突如として、狛の母、天がその場で苦しみだしていた。玖歌がそちらを見ると、切り離された紫の塗料が天にかかり、ズブズブと天の中に入り込んでいる。切り離された紫鏡の怪異としての力と、それによって命を喪った者達の怨念が暴走しているらしい。

 単体では何も出来ないその怨みと力は、天の身体を器として、新たな変異を遂げようとしているのだ。


「お、お母さん…っ!?」


 狛は、例え偽物とはいえ母が苦しむ姿を見ていられず、矢も楯もたまらずといった様子で駆け寄ってしまった。だが、元は雲外鏡によって造られた存在である偽の天は、ほとんど抵抗も出来ずあっという間に取り込まれてしまっていたのだ。その隣にいた、イツも巻き込んで。


「狛!危ないっ!!」


 玖歌が叫んだ時には、既に遅かった。イツの偽物をも取り込んだ天は、全身が斑に紫色へと染まり、醜悪な怪物へとその形を変えてしまっていた。左腕の先はイツの頭を模した大きな狼の首となり、狛の身体を噛みついたまま持ち上げている。


「あ、あああっ!!」


 何本もの牙が、狛の身体に突き刺さっていた。大量の血が滴り落ちているが、そうなる前に狛は身体を噛み砕かれてしまいそうだ。魂だけの身体とはいえ、そうなればもう狛は助からない。それを食い止めるべく、玖歌が立ち上がって助けに入ろうとした時、地に落ちた雲外鏡が光を放った。


 眩い程の光が玖歌や神奈、そして狛を包む。その光が止んだ時、狛の影から本物のイツが飛び出して、狛に食らいつく狼の頭を食いちぎった。地面に投げ出された狛だったが、嚙み付かれた傷は消え去っている。狛達三人に、本来の身体が戻ったのだ。


「イツ…!良かった、本物のイツだ。私達、身体が戻ったんだね…!」


 無邪気に甘えるイツの姿に喜びつつ、狛の心は欠けていたものが埋まったような、不思議な充足感に溢れていた。さっきまで押し潰されそうだった悲しみの感情も、完全に消え失せている。


「ウウウ…!グガァァッ!!」


 左腕を破壊された天は、低い唸り声をあげて、狛を威嚇している。もはや、優しかった母の面影はごくわずかだ。今、目の前にいるのは狂った獣を宿した、怪異の成れの果てであった。


「お母さん…ううん、やっぱりあなたは偽物だね。でも、少しだけ、ほんのちょっとだけだけど、会えて嬉しかったよ。…ごめんね」


 狛は囁くように呟くと、イツを身体に受け入れ、人狼へと姿を変えた。母の姿を汚させたのは己の弱さが招いた事だと、狛は謝罪を口にする。今度こそ、もう迷いはない。狛は右手に渾身の霊力を込めて、鋭い爪を伸ばし、偽物の母の懐に駆け込む。


 そして気合と共にその心臓を貫いた時、身体に深く根を張っていた紫鏡の執念は完全に消滅した。倒れ込んだ天の身体もまた、泡のようになって消え始めている。


「さようなら…」


 そんな狛の呟きが聞こえたのか、天は完全に消滅するその最後の瞬間、狛に向けて微笑みをみせた。狛はイツの記憶の中で見た母の笑顔を思い出し、その瞳からは大粒の涙がこぼれていった。