第91話 目覚める前世

 時は平安時代後期、この地にとある貴族の姫がいた。姫は大層美しく、唄や舞の才に優れており、その噂を聞きつけた有能な武人や貴人たちがこぞって求婚に訪れたり、時には帝さえも姫の話を聞きに来たという。

 そんな姫が、後の伴侶となる男性から一枚の鏡を賜った。それは当時の技術の粋を集めた逸品で、姫はそれを何よりも気に入り、生涯大切に扱ったという…


 そうして何代も大切に受け継がれたその鏡は、やがて年を経て付喪神である雲外鏡として力と自我を得る。家族は代々受け継がれた鏡が怪異となった後も変わらず大事に使い続け、平和な日々が続いていった。


 しかし、更なる時代が訪れる内に姫の一族はその隆盛を失う時が来る。


 それは皮肉にも、彼らが雲外鏡を使って、邪な企みをもっているという、心無い讒言によるものであった。


 彼の一族は必死に抗弁したが、雲外鏡という現物がある以上、どんな言い訳も、他人には信用されない。既に姫の時代から二百年以上の時が過ぎ、一族の中にも姫のことを知る者が居なくなっていたことから、雲外鏡を庇う者は少なく、哀れな雲外鏡は紫の塗料に浸され塗りつぶされた後に力ある術者によって地中深くに封印されたのである。


 以来、数百年の間、鏡は孤独に耐えながら、復活の時を待った。

 いつか人が、再び自分を必要としてくれる日が来る事を信じて…


 付喪神というものは、ただ年を経ただけの妖怪や怪異ではない。どこまで行っても彼らの本分は道具である。人に使われ、共生する事が彼らの望みであり、存在意義なのだ。そんな中、現代になって、人々の口の端にとある噂が流れ始める。


 ――怪異、紫鏡。


 どんな経緯で生まれたのか定かでないその噂は、数十年もの間、人々の心と噂に残り続け、やがて怪異を生み出すほどに定着していく。繰り返し囁かれるその名は、真に紫へ染められた鏡に、新たな怪異としての力を与えてしまった。


 人の念は時代と封印を超え、更なる強力な怪異を生み出してしまったのである。



「寂しい寂しい寂しい…もう一人は嫌。誰か私を見て、私を使って…!私と一緒に居て欲しい…!あなたの願いを叶えるから、ずっと一緒に居て、もう二度と私を棄てないで!私を、私を…私を見ろォォォォッ!」


 宙に浮かぶ雲外鏡が、身の毛もよだつ金切り声を上げている。


 その叫びは悲哀に満ちていて、耳に届いた狛たち三人の胸を杭で打ちつけるような、強烈な感情を想起させた。自分のものとは違う激しい寂しさが、三人を飲み込み、ぼろぼろと涙が溢れ、こみ上げてくる。


 八百年にも及ぶ孤独が音叉のように共鳴し、狛たちを襲ったのだ。このままでは押し潰されて行動不能になってしまう、三人は溢れる涙を振り払い、強引に戦う気持ちを鼓舞しようとしている。


「玖歌!どうすればいい?!このままじゃ、戦いにもならずに終わってしまうぞ!」


「今のアタシ達は剥き出しの魂、精神も何もかもを守る防御が何もない状態よ。そんな状態であれだけの精神波を受けたら、干渉されて当然だわ。思い返してみれば、あんなに狛が脆くなっているのも、それが…!」


 そう分析する間にも、暴力的なまでの感情の波が胸の中から押し寄せて心が折れそうになる。膝をついてしまったら、もう立ち上がれないだろう。そんな気がした。良くも悪くも人間より精神構造が単純な、妖怪の玖歌でさえそうなのだ。人間である神奈や狛は玖歌以上にあの精神波は効果が強いはずだ。


 玖歌は唇の端を思いっきり噛んで、痛みで悲しみを誤魔化し、そして叫んだ。


「心を強く保ちなさい!!感情に引っ張られて心が折れたらそこで終わりよ!どんなことをしてもいい!悲しみを吹き飛ばして!」


 玖歌は叫び、神奈と狛に目をやった。今にして思えば、周囲で干からびて死んでいたように見えていた人達は、囚われた魂が感情に負け、取り込まれた姿だったのだ。飢えて死ぬ心配はなくなったが、それ以上に危険な状態に追い込まれてしまったとも言える。


(アタシ達が身に着けていたものはここに持ち込めているけど、それは見た目だけのハリボテ。『悲しい』だから、狛の霊符も起動しなかった…『悲しい、悲しい』じゃあ、どうすれば?『悲しい』ああもう!思考まで汚染され始めて考えがまとまらないじゃない!『もうダメ』鬱陶しい!)


 苛立つ玖歌の心は、自分でも気づかないほどに消耗していた。精神というものは体力とは違って、そう簡単には回復しない。絶えず揺れ動いていればいるだけ、すり減って消費されてしまうものだ。感情のコントロールが出来ず、思考まで阻まれだしている状況は、危険な兆候である。


 ゆるゆると膝をつきそうになっている玖歌の身体を、隣に立っていた神奈が支えていた。


「玖歌!しっかりしろ…!目を開けるんだ!くっ、このままでは!狛…」


 神奈は無意識に狛に助けを求めようとしたが、狛とて余裕があるわけではない。むしろ、目前に母の姿があり、それに追い詰められているのだから狛の方がより危険だ。神奈は唇を結んで、言葉を止めた。


(これ以上、狛に頼ってどうする?!私が強くなりたいと思っていたのは、狛の力になりたいからじゃなかったのか!私は…私は!)


 この期に及んで、狛に助けを求めようとした自身の情けなさに、神奈は強く憤った。魂しかない身体の底が熱くなる気がするのは、何故だろう。そんな疑問に答えるように、背後からどこかで聞いたことのあるような、とても懐かしい声がした。


――おやおや…生まれ変わった私は、ずいぶんと温い人間になってしまったのだね。天下に名高き古参の鬼姫の血を継ぐ者としては如何ともしがたいが、これも人の儚さというものかな。


「だ、誰だ!?」


 神奈が振り向いて見ても、そこには誰もいない。だが、確かに自分の背後に誰かがいる。その何者かは、神奈の後ろで優しく囁いていた。


――私が誰か?という問いには何の意味もない。前世は前世、魂は同一でも、今の君からは別人と等しいものだ。抜き身の魂だからこそ、私と君は意思の疎通が出来る。今はそれだけで十分だろう。


 その口振りから、話している相手は自分の前世…つまり、自身の血に流れる鬼の源であることが窺えた。しかし、今はそんなものに構っている余裕はない。


「私に何の用だ!?今は前世の自分と話をしている暇などない、消えてくれ!」


――気が短いのは、鬼譲りかな?ふふ、さきほど別人と言ったが、やはり君は私と根っこは同じなのだろうな。では、有り体に問おう。力が欲しいかい?


「な、に…?」


 唐突な問いに言葉を失う。確かに今の局面では、喉から手が出るほど力は欲しいが、それが鬼の問いかけとなれば迂闊に答えて良いとは思えない。第一に、これがあの雲外鏡の罠である可能性は低くないのだ。


 迷う神奈の心をその目で見ているかのように、前世を名乗る女は笑っている。だが、尚も言葉は続く。


――ふふふ、慎重なのは好感が持てるな。しかし、今はそのような時ではないだろう。安心するといい、私は誓ってあのような怪異の手の者ではないよ。あの怪異は、取り込んだ人間の記憶を元に願いを具現化させている。君は自分の前世など知らないのだから、私を生み出せるわけがないのは道理さ。解るかな?


 「言いたい事は解る…正直、一も二も無く飛びつきたい提案だ。だが、私は怖いんだ、信じていいものとそうでないものの区別がつかないから…」


――そうか。確かに、迂闊に鬼の誘惑に乗らないのが正解なのは間違いない。とはいえ、私には君にこんな所で死なれては困るんだ。だから、勝手であるが、一時的に力を貸してあげよう。


 そう言って、それまでずっと背後にあった女の気配が神奈を背中から覆い被さるようにして重なり、右手に何かを手渡した。


――さぁ、呼ぶんだ。我らが母たる鬼姫、鈴鹿午前より賜り受け継ぎし三明の剣さんみょうのつるぎの一振り…その剣の名を。


「出でよ、顕明連けんみょうれん…!」


 神奈の頭の中に、知るはずのない名前が浮かぶ。すると、導かれるようにしてその名が口からこぼれ出た。女の声と神奈の声が重なり、神奈の右手には見た事もないほどに美しい刃文を浮かべた、怪しく輝く一振りの刀が現れていた。