第90話 怪異 紫鏡の雲外鏡

「そやけどまぁなんやな。まさか君達が人間の味方やなんて、想像もしてへんかったわ。しかも、全員犬神ちゃん絡みとは…あの子ぉなんなん?正直怖いんやけど…関わったらあかんタイプなんとちがうかな」


「アイツは特別なんだよ。あんなに人にも妖怪にも好かれる奴なんて見た事ねぇからな…」


 大寅が体育倉庫に敷かれた結界を破る間、二人はそんな世間話で時間を潰している。背中に感じるトワ達三人の視線は狂気を孕んでいて、先程の戦いに於ける恨みと、狛を悪く言ったように聞こえた事への抗議が含まれているようだ。

 猫田は彼女達の考えをよく理解しているので、その視線の圧から感じられる意味もまた重々承知している。触らぬ神に…ではなく、触らぬ妖怪に祟りなしとばかりに話を続けることにした。


「そんなことより、まだなのか?早くしねーと、狛達が…」


「もうちょいやさかい、待ちなはれ。そやけど、こら結界ちゅうよりも封印やな」


「封印?」


「そうや。恐らくこら、外から中へ入り込まれるのを防いでるんちゃうくて、中のものが外へ出えへんようになってるんや。それが時間のせいで綻びが出来たのか、或いはかは知らへんが、封じられとったものが外へ影響を及ぼそうと術を造り替えてもうたんやな」


 腕を組んでそう答える大寅の表情は、少し硬い。どうやら狛達を連れ去ったのは相当厄介なものであるらしい。それを聞いていた猫田だけでなく、トワ達もその顔に焦りが見えている。


「封印か、一体何が封じられてたんだ?こんな場所に」


「正確に言うたら、こことちがう。全く別の空間や。わしの疑似神域のように、ちゃう場所と繋がってるんや。例えば…ここの地下、やらな」


「地下…か」


 そう呟いて、猫田は足元に視線を向けた。当然だが、特に何か見えるわけではない。しかし、それはあながち間違いでもないような気がする。何が封印されていたのかはさておき、大寅の主…稲荷神が最後に残した言葉通り、狛達に危険が迫っているのは間違いないのだろう。一刻も早く助けに向かいたいところだ。

 神妙な面持ちで待つ猫田に、大寅はこっそりと耳打ちをした。


「ところで、後ろの子達、なんとかならへんか?ええ加減、怖いんやけども…」


「…諦めろ。襲ってきてないだけマシだ」


 トワ達は、かなり大寅を嫌ってしまったようだ。こうなってしまっては、もう猫田にはどうする事も出ないだろう。ここまでのやり取りで、大寅が決して悪人ではないことは理解できたが、彼女らにそんな事は関係ない。狛や自分達の敵になるかどうかだけが問題なのだ。

 やはり面倒な事になったと、猫田は心の中で土敷を呪っている。



 その頃、洞窟の中では、狛が母であるあめと睨み合い、対峙していた。母の事は写真やイツの記憶でしか知らないはずだが、見れば見るほど懐かしく、心が揺れそうになる。もしもここに、神奈達がおらず一人きりであったなら、狛は誘惑に負けて囚われてしまっただろう。

 今でも、気を抜けば駆け寄って抱き着きたくなる。母を知らず育ってしまったが故に、それは間違いなく狛自身の強い願いなのだ。


「イツ…ううん、そこにいるのもイツじゃない。解ってるのに…」


 天が従えているイツもまた、大きさこそ違えど、本物のイツにそっくりだ。狛とイツは、狛が生まれた時から共に在って、言わば姉妹か分身であるかのように育ってきた。そのせいか、こうして母に寄り添う姿を見せつけられると、狛は自らの半身を奪われたかのような強い喪失感を覚えていた。


 そんな二人の間に満ちていく緊張感を、神奈は固唾を飲んで見守っていた。神奈自身は、狛に加勢をするべきだと思っているが、狛はそれを許さず、玖歌を護るように指示を出した。一体何から護れと言いたいのかは解らないが、それを抜きにしてもあの母と娘の間に割って入れないものがあるのも確かだ。

 神奈はただただ、狛が無事でいられることを祈る事しかできずにいる。


 一方、玖歌は紫鏡の前で懸命に何かを思い出そうと頭を悩ませていた。


(これがアタシの知っている都市伝説の紫鏡なら、呪いを解除する為のキーワードがあったはず…でも、本当にそれだけでこれをどうにか出来るの?何か見落としがあるような気がする…)


 紫色に染め上げられた鏡の部分は、何も像を映し出す事はない。だが、それは確実に光を反射しているのだ。一体それが何なのか、玖歌は必死に答えを探している。


 そしてついに、睨み合う二人の圧力は頂点に達し、狛と天は動き出す。いつの間にか、天の右手には大型の鞭が握られていて、風を切る高い音と共に、鋭い一撃が狛を襲う。


 パァンッ!!という衝撃音が狛の足元で弾けた。熟練した鞭使いが放つ鞭の一撃は、時として先端が音速を超えるほどのスピードであるというが、その為には軽量さが必須だ。その分、攻撃としての威力は軽いのだが、天が所持している鞭はその重量のバランスが完璧に見極められて作られており、容易く地面に亀裂を作るほどの破壊力をみせた。


 だが、狛はその一撃を見事に躱し、天に向かって走り出していた。隠し持っていた霊符の数は多くはないが、人間が直接喰らえば、確実に大ダメージを受ける事は避けられないものばかりだ。

 目の前にいる偽物の母、天は人間ではないのだろうが、人の形をしていて、肉体を持っているように見える。であれば、戦闘不能に追い込む事は可能だろう。


「速い!」


 神奈の目から見ても、その狛の動きは信じられないほどの速さであった。瞬き程の一瞬に、狛は天の傍まで移動し、その手に持った霊符を起動させ天に放とうとしている。


「ええいっ!!」


 狛が掴んでいたのは、縛霊符と呼ばれる霊符の一種で、主に敵を縛り付け無力化する霊符である。霊符が起動すると、込められた霊力を元に符が強固な鎖へと変質し、敵を縛るのだ。天に向けて霊力を込めた縛霊符を投げつけた狛だったが、それは飛び上がったイツにいとも容易く阻まれた。


「霊符が、起動しない!?」


 驚愕する狛に向け、再び天の振るう鞭が襲い掛かる。幸いなことに立っていた位置が近すぎた事から、鞭は十分な加速が得られず、先程のような超高速の一撃にはならなかった。そのおかげで、狛はその動きを察知して、素早く横っ飛びをして攻撃を回避することができた。


「くっ!」


 だが、状況が好転したわけではない。霊符が使えないと言う事は、狛は素手で戦うと言う事だ。何より問題なのは、この洞窟に来てからというもの、イツを呼び出す事が出来なくなっているのである。

 天が偽物とはいえイツを従える姿を見た時、狛があれだけ激しく動揺した理由がそれであった。


 自身の中に、イツと繋がるものがある。それは霊力の線であり、狛の肉体とイツの霊体を繋ぐ魂の絆である。それは確かに存在しているはずなのに、いくら探しても、

 狛に残された戦う手段は、肉弾戦しかない。


 だが、さすがに偽物とはいえ、母の姿をしたそれに直接拳を振り上げることは躊躇われた。縛霊符のように相手を傷つけることなく無力化する手立てがあったからこそ、己の心を奮い立たせることが出来たというのに、それが封じられてしまってせっかくの決意が揺らいでいく。


(な、殴る、の?お母さんを…?そんな、そんなこと…)


 狛は再び天と相対しながら、無意識に一歩ずつ後退っていた。頼れるイツもおらず、戦う手段も封じられ、後はもう逃げる事しか出来ない。


「く、玖歌!マズいぞ、狛が!」


「解ってる!でも、狛の霊符が使えなかった、どうして?…まさか!?」


 玖歌は一つの仮説に思い至った。もしここが、現実の世界でないのなら、自分達が引きずり込まれたのは肉体ごとではないとするなら、答えは明白だ。


「そうか、紫の鏡…ここは現世じゃない、ここは黄泉路で、アタシ達は身体から離れて霊魂だけを鏡の中に引きずり込まれたんだわ!」


 そう呟いた瞬間、紫鏡のかけていた術は看破され、完全に解けた。周囲の風景は洞窟から殺風景な荒野に様変わりして、空はどんよりとした雲に覆われている。紫に染まった鏡の表面には不気味な女の顔が浮かび、ぎょろりとした目が玖歌をねめつけている。そして、鏡はおどろおどろしい声を上げて雲を呼び、上空に浮かび上がっていった。


「な、なんだ、これは!?洞窟が、消えた…?!」


「アタシは勘違いをしてた。あれはただの都市伝説にある紫鏡じゃなかったんだわ…アイツの正体は鏡の付喪神、雲外鏡よ!それが紫色に染められていた為に、紫鏡の都市伝説が生まれてから、あれに新しい力を吹き込んでしまったのよ!」


「そ、そんな事が…」


 神奈は絶句し、呆然と空を見上げている。そう、玖歌の推理は完璧に当たっていた。まず先に封じられていた雲外鏡という妖怪となった鏡があり、そこへ更に、都市伝説の影響が重なって、鏡は妖怪としての力を得ていたのである。


 まやかしの術というものは、見破られてしまえば、その効力を失うものだ。雲外鏡は己の術を玖歌に破られた事に対して怒り狂っている。

 雷鳴が轟く荒野に、雲外鏡の雄叫びが木霊していた。