「だ、旦那、様…お茶を、お持ちしま、した…」
笑うぬらりひょんの元に、先程用を言いつけられた女子生徒が戻ってきた。どこから用意したのかは解らないが、日本茶と洋菓子をその手に持っている。言葉が震えているのはぬらりひょんによって強制的に命令をされている為に、精神が不安定になっているからだろう。
「おお、来たか!…んんー?なんとも珍妙な組み合わせだのう。お前、これで儂が満足すると思うたのか?ええ?どうなんだ!?」
「っ!も、申し訳、ございません…」
ぬらりひょんは女子生徒の用意した物にケチをつけ、手にした杖で生徒の足を強く叩く。女子生徒は痛みに耐えながら、俯いて謝罪するしか出来ずにいる。
(可哀想に…これだからぬらりひょんは好きになれないんだ)
土敷は、そんな女子生徒に同情して顔を歪めていた。彼が嫌っているぬらりひょんという妖怪の悪辣な所は、その支配によって、入り込んだ家の家人達をボロボロに使い潰してしまう所にある。
ぬらりひょんは忙しなく働く家人をまやかしで騙し、その家の主人となって乗っ取ってしまう性質を持っているが、家を奪われて魅入られた者達は死ぬまで彼の命令に逆らう事が出来なくなってしまう。厄介な事に当人達はわずかに残された意識で状況の異常さを感じているのだが、強い力や意識を持ち合わせていない限り、それを振り払うことはできない。結果、内心を苦痛に染め上げながらも、黙って従う事しかできないのだ。
この女子生徒もまさにそうだろう。胸の内では状況のおかしさと、抗う事の出来ないもどかしさに心を痛めているはずだ。ぬらりひょんはその苦痛を糧にする、まさに悪性の妖怪であった。
「ぬらりひょん、もう止めろ…!その子は悪くないだろう、お前が正しく指示をしなかったせいじゃないか」
土敷が堪らず注意すると、ぬらりひょんは口の端を大きく歪めて笑い杖を収めた。土敷の感じる憤りや、同情からなる心痛もぬらりひょんにとってはこの上ない楽しみであるようだ。
「おお、おお、良い顔になったなぁ。良かろう、確かに無能な人間にはしっかりと指示を出してやるべきであった。これ、娘よ。この件は手打ちにしてやる、感謝せよ。その代わり、なんぞ落ち着いて茶を楽しめる部屋を用意せい。ここでは茶を楽しむどころではないからな」
ぬらりひょんは再び女子生徒に指示を出しながら、周囲をぐるりと見回した。今、彼らがいる場所は、本校舎と呼ばれる場所から別棟に繋がる二階の渡り廊下である。飾りつけこそ施されているものの、椅子も無ければ机もない、ただの廊下だ。今はたまたま人の流れが途絶えているが、時間が経てばここもたくさんの人が行き交うことだろう。そんな場所ではお茶を飲む所か話し合いすら邪魔になるものだ。
「わかり、ました。こ、こちらへ…」
女子生徒は悲痛な面持ちで、二人を先導するように歩き出す。ぬらりひょんは揚々とその後に着いて行くが、土敷はしまった…と内心で舌打ちをしていた。
(ここはまだ人通りのある場所だったのに、どこかの部屋に移動するとなると、余計に人との接触が減ってしまう…ぬらりひょんめ、これが狙いだったのか?!)
そう、ぬらりひょんと土敷の交わした取引は、ぬらりひょんのまやかしを看破できる人間が現れることである。人通りのある場所なら、そのような人間が訪れる可能性もあるが、部屋に籠られてはいよいよ人と接触する可能性は無くなる。しかも、土敷が人を連れて来るには、相手に事情を話さねばならないが、それを話した時点で、その人物は取引の対象としては無効となってしまう。これではもはや土敷に勝ち目はない。
「ま、待て!それは卑怯だぞ。人と接触しなくなってはどうしようもないじゃないか!?」
「…ふむ、まぁ確かにな。じゃが、安心せい。儂とて遊びの心くらいはもっておるわ、ちゃんとお前にも勝ち目のあるようにしてやる。まずは移動してからじゃ。フヒヒ」
土敷の抗議など予想済みということだろう。ぬらりひょんが振り向くと、その顔には企みがありますと書いてあるかのようだった。
「どうした?来ぬのか?となれば、儂はこのまま居座らせてもらうが、それでいいのかのう」
「…解った。着いて行くさ」
完全にぬらりひょんの手のひらの上で遊ばれているようだが、それでも土敷には他に手がない。渋々二人の後を歩く土敷の足取りはとても重かった。
「うむ、良い場所だ。ここなら落ち着いて茶も飲めようぞ」
案内されて行き着いた先は、誰もいない教室であった。どうやらこのクラスの生徒達は、他の場所で出し物をしているらしい。問題なのはその位置だ。別棟一階なのはいいが一番奥の教室で、明らかに用がなければ人が近寄ってきそうにない場所である。
土敷は絶句しつつ、教室内に足を踏み入れた。どうやら窓の外は中庭のようだが、特に
ぬらりひょんは女子生徒に命じて適当に机を動かさせると、少し開けたスペースに椅子を置き、そこに座った。女子生徒は召使のようにその隣に立って佇んでいる。土敷はその向かいに置かれた椅子に座るとぬらりひょんを睨みつけた。
「それで、どうするつもりなんだい?これじゃ勝負にもならないじゃないか。まさか、ただ人が来るのをじっと待つとでも?」
「フハハ!そんなつまらぬことなどせぬわ。のう、娘っ子や。お前はこれから何人か友達を連れてきておくれ…誰でもよいぞ」
ぬらりひょんはそう言うと、隣に立つ女子生徒の尻を撫でた。予想外の行動をされて、生徒は身体を強張らせて震えているが、やはり抵抗はできずにいる。
「お前っ!なんてことを!!」
土敷は立ち上がって止めさせようとしたが、そこで身体は止まってしまった。ぬらりひょんは、暴力などで彼を追い出す事ができないという特性を持っている。土敷が害意を持って立ち上がっても、それを成すことは出来ないのだ。
「無駄じゃ無駄じゃ、儂を力で排することは出来ぬ。これが妖怪を統べるとまで言わしめた儂の力。何人たりとも、儂が主人と認識されておる内はどうすることもできぬわ!」
「くっ…!」
勝ち誇るぬらりひょんの姿に、土敷は歯噛みするしかなかった。その様子に満足したのか、嗜虐的な表情を浮かべて、ぬらりひょんはふんぞり返って笑っている。
「ワハハ、愉快愉快!我らを裏切り、人の側に立つなどとぬかした貴様の屈辱に塗れた顔は、なんと愉快なものか!じゃが、それだけではまだ足りぬなぁ。クク、ほれ娘、さっさと誰ぞ連れて来るのだ。…なぁ、座敷童よ、もしかすると、万が一にも儂のまやかしを破れる人間が来るかもしれぬぞ?希望を持て、ククク!」
そんな人間など滅多にいない事は、土敷にはよく解っている。だが、こんな辺鄙な場所の教室に入ってしまった以上、その賭けに乗るしか手はないのだ。僅かな望みを土敷に与え、それが潰える瞬間の絶望を味わおう。それがぬらりひょんの真の狙いであった。
そして、女子生徒は目に涙を浮かべて、足早に教室を出て行った。土敷はその背中に、ただひたすらに詫びていた。
それから一時間ほどの時が経ち、空き教室には新たに7名ほどの女子生徒が集められていた。しかし、その誰もがぬらりひょんのまやかしに打ち勝つ事は出来ず、最初の女子生徒と同様に意のままに操られてしまっている。
「どうやら、何度やっても無駄のようじゃが…さて、座敷童よ。如何するか?まだこの無駄な勝負を続けるか?クックック…」
「ど、どうすれば…」
土敷は追い詰められていた。そろそろ夕暮れに差し掛かり、学園祭初日も終わりを迎える時間だ。鬼部やハマ、ジャコ婆は他に入り込んだ雑霊や小型の妖怪を追い払いつつ、事の次第を見守っている。最悪の場合は狛を連れてきて、ぬらりひょんを封印してもらうしかない。
ぬらりひょんはまやかしが効いている間、無敵と言って差し支えない存在だが、さすがに封印されてしまえば話は別だ。ただしその場合、ぬらりひょんは全力で抵抗するだろうから、大変な大立ち回りに発展するだろう。しかもぬらりひょんは人間を操る事も出来るのだから、その場合、どれほどの被害や犠牲か出るか解ったものではない。
それではせっかく狛が楽しんでいる神子祭も台無しだし、狛自身も危険な目に遭うのは間違いない。そうならない為に交渉しようと取引を持ち掛けたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか、土敷は悔やんでも悔やみきれず、絶望する一歩手前であった。
「しかし、このままダラダラと続けるのも詰まらぬなぁ…ふむ、少しは娘共に楽しませてもらうとするか。お前達、そこへ並べ。並んで踊るのだ…ただし、裸体でな」
「な、なんてことを…!?止せ、止めろっ!頼む、止めさせてくれ…!」
命じられた女子生徒達は、恐怖の余りか身体をビクつかせ、ガタガタと震えている。だが、ぬらりひょんの命令に逆らう事が出来ない為におずおずと一列に並び、すすり泣きながらゆっくりと制服を脱ぎ始めていった。
(これ以上はもうダメだ…!狛君、すまない。誰か彼女を…)
土敷が鬼部達にそう伝えようとした時だった。ガラッと教室の扉が開き、美しい銀髪の女生徒が現れて教室の中へ進入してきたのだ。
「…What?あなた達、ここで何をしてるの?」
「む?おお、偉人の娘か。何故ここに…まぁよい、お主もこっちに来て娘達と共に踊るがよい」
「ハァ?It's disgusting.…何なの?」
「ん?」
銀髪の女子生徒…レディは、不快感を露わにしてぬらりひょんを睨みつけている。そこで土敷は様子がおかしい事に気付いた。彼女は、ぬらりひょんに操られていないように見えたのだ。
「き、君…操られていないのか?」
「操られる?誰に?…っていうか、アンタも、そっちのキモい爺さんも、
「な、なにぃっ!?」
そこで驚いて叫んだのはぬらりひょんだ。土敷も驚いているが、逆に驚き過ぎて言葉も出ない。まさか本当に、狛達以外にぬらりひょんのまやかしを看破できる人間がいるとは思わなかった。これはまさに、天の助けである。
実の所、レディがここに来たのは、担任である大寅に頼まれたからであった。というのも、狛達のクラスは日毎に役割が変わる当番制で生徒達が店を運営している。初日の今日、レディは朝からボスに仕事を任されていた為、自由行動の日になっていたのだ。
レディは任された仕事が早く終わった為に、その足で学校へ来た所、大寅に呼び止められてこの空き教室へ向かうよう頼まれたのである。
彼女が若干イラついているのはその為だ。せっかく人生初の学園祭というものを味わってみようと思った矢先、大寅にいいように扱われた事がムカついて仕方がない、そんな様子であった。
「あ、ああ…バカな、そんなバカな…!?」
「お前のまやかしは看破されたぞ、ぬらりひょん!約束通り、大人しくここから出ていってもらう!」
「ぐぬううう、こ、こんなはずでは!」
ぬらりひょんは悔しそうに駄々を踏み、逃げるように中庭へ通じる窓の方へ走り出した。外に出て身を隠すつもりだ。ぬらりひょんの見た目は老人でも、そこは妖怪だけあって、動きは俊敏だ。あっという間に窓を開けて外を走っていく。
「ま、待て!」
土敷が後を追って外に飛び出した時、前を走っていたぬらりひょんの足元を、何かがすり抜けた。勢いよく走っていたぬらりひょんはその速度のままスッ転び、顔面から倒れ込んでいく。その先には、猫田が待ち構えていた。
「ぬぅっ!?どわぁっ!!」
「…よーし、よくやった。お前らのすばしっこさは大したもんだな」
「猫田!」
それは、猫田が放った
「ぐおおお…!お、おのれは、猫又の…!?」
「よぉ、
「な、縄張り…?!ええい、黙れ!この猫又如きがっ!」
追い詰められたぬらりひょんは、激昂して杖を振り上げ猫田に飛び掛かった。だが、哀れにも力を失っていた彼は、その一撃を難なく躱され、反対に蹴り飛ばされて遠い空に消えていく。
「へっ!一昨日来やがれってんだ」
その呟きに応えるように、夕暮れに浮かぶ一番星がきらりと輝き、波乱含みの神子祭、その初日を終えるアナウンスが学園内に響き渡るのであった。