「ママ―!…あっ!」
幼い少年が少し離れた母親の所へ走ろうとした時、その足元をするりと何かが横切った。それによって転びそうになった少年の身体は、上から伸びてきた派手な男の手に支えられ、転ばずに済んだようだ。
「無事か?坊主。急に走ると危ねーぞ」
「ああっ…あ、ありがとうございます。リク君、行くわよ!」
「うん、お兄ちゃんありがとー!」
少年は母親の手を握りながら、男に向かって手を振っている。だが、子どもの母親の方は、男の恰好をよく思っていないようで、振り返らず足早に去って行ってしまった。
「ホストってのは、親に印象よくねーんだなぁ…しょうがねーなぁ、タクトの奴は」
派手な風貌の男…猫田は、ポリポリと頭を掻きながら、その恰好を借りている亡き飼い主の名を呟いて軽く笑った。そして、親子の姿が見えなくなると、柱の陰に隠れていた、少年の足元を横切ったものに手を伸ばし、それを捕まえた。
「まーた
細長い猫の形をしたすねこすりは、猫田に捕まれると暴れることなく俯いてしまった。猫田はこの街の猫達を従えるボスであるが、猫型妖怪も、猫田に逆らう事はほとんどない。悪戯好きなのがすねこすりの性質なので、あまり怒るつもりはないが、今日はずいぶんとたくさん姿を見かけるのが気になる所だ。
実際、捕まえたのはこれで5匹目である。特別群れで行動するような事はしない
「…まぁ、
猫田が言うあんなのというは、ハマが見つけた妖怪ぬらりひょんの事だ。昨今では日本妖怪の総大将などと言われる妖怪ではあるが、本来のぬらりひょんは、そこまで力のある妖怪ではない。そもそもは夕暮れ時、家人が忙しくしている家の中に入り込み、家人達を騙してその家の主人であるかのように傍若無人に振る舞う、そんな妖怪である。
なにより厄介なのは、一度入り込まれてしまうと、ぬらりひょんはそう簡単には出て行かないということだ。
家人達の主人として認識されている内はどんな攻撃なども効果はなく、力で排除する事は不可能である。しかも、家人達はまやかしにかけられてしまっている為、中々それが異常だとは思えない。ぬらりひょんを追い出すには、ぬらりひょんが自ら出て行くか家人自らがそのまやかしを振り切り、追い出さねばならないのである。
その無敵さが、彼を妖怪の総大将として評する原因の一つなのかもしれない。
ハマが見つけたぬらりひょんは、狛達の店から少し離れた場所にいた。とはいえ、この辺りもそれなりに人気の出し物が多く、生徒や客達が慌ただしく出入りしている。ぬらりひょんの性質から言って、こうしたせわしなく動く人達がいる場所の方がいいのだろう。
「やぁ、久し振りだね、ぬらりひょん。君は、個人の家屋敷にしか現れないと思ってたけど、どうしてこんな所にいるんだい?」
土敷は、古い友人と話すかのようにぬらりひょんに声をかけた。こう見えて、土敷もかなり年経た妖怪の一人だ。彼が生まれたのは江戸時代の前期辺りなので、400年以上生きている計算になる。猫田ほどではないが、かなり長寿なのである。
その為、ぬらりひょんとも面識はあるし、何度か話をした事もある。面と向かって敵対した事はないのだが。
「おや?座敷童の小僧ではないか。お主こそ、ここは屋敷ではないぞ。そもそも、気に入って憑いているという人間はどうした?そろそろくたばった頃合いか」
ぬらりひょんは、ぬめったような笑みをその顔に張り付けて土敷を挑発してみせた。既に、土敷が何をもって接近してきたかを理解しているのだ。
土敷にはそんな挑発に乗るつもりはない。だが、あまり気分がよいわけでもないので、大きな溜息を吐いている。
「ふふん、貴様は本当に人間に肩入れが過ぎるあやかしよな。人なんぞ、所詮我らの食糧か暇潰しの道具であろうに。…これ、そこの娘、茶と茶菓子を持ってきなさい。なるたけ旨いモノを、早くな。金はお前が払うのだぞ」
「えっ?…はい…解りました…」
ちょうど近くを通りかかった女子生徒は、ぬらりひょんに命じられた途端、生気を失ったような顔つきになってどこかへ歩いていった。これこそがぬらりひょんの恐ろしさである。条件が整っている時、ぬらりひょんの命令からは逃れられないのだ。
「相変わらず横暴だね、君は。まぁいいけど、ここには僕らが大事にしている人間もいるんだ。あまり迷惑をかけないで出て行って欲しいな」
「はははは!これはまた傑作よな!愚かにも人に肩入れをした挙句、儂に命令するとは。お前が目をかけている人間がいようと、儂には関係ないのだぞ?それをまさか出ていけとなどと…くく、他の妖怪共が聞けば何と言うかな?
ぬらりひょんが口に出した名前は、どちらも日本の妖怪達の元締めとして存在する大妖怪である。その二人は、ぬらりひょんとは違って本物の統率者だ。そもそも妖怪というものは、滅多に群れで活動する事はないのだが、無秩序に生きているわけでなく、彼らなりの秩序に則って生きているものだ。
猫田がこの街の猫や猫型妖怪のボスであるのと同様に、日本の妖怪達全体を纏める者…それが俗に魔王と称される
人を襲う妖怪は数あれど、彼らが集団となって大規模に人間を襲うことなどはまず無い。それは彼らのような元締めが、人と妖怪の不要な諍いを抑えているからである。それだけの権力と、何より実力を持っているからこそ妖怪達の頭領でいられるのだ。
もしも仮に、山本や神野が土敷達を断罪するような事になれば、日本の妖怪達のほとんどを敵に回す事になる。それは死刑宣告に等しい。それでも、土敷は一歩も引くつもりはなかった。
「そんな大物の名前を出されたからと言って、僕が引き下がるとでも?どうせ僕らは妖怪の爪弾き者だ、何があろうとも、僕らは気に入った人間の側に着くさ」
「貴様、そこまで言うか…!ふん、良かろう。我の術にかからず違和感を抱く人間がおれば、大人しく引き下がってやろうではないか。その代わり、誰も儂の存在に違和感を抱けないようであれば…そうだな、この学び舎にいる人間共を一人ずつ殺してやる。ちょうど最近子飼いにした人食いの鬼がいるのでな、ククク」
「なんだって!?ぬらりひょん、お前…!」
「ふん、解っておるだろうが、儂を力で退かそうとしても無駄だぞ。それと、お前やお前の手下が人間に教えてもダメだ。あくまで人間が自発的に見破らねば…面白くなってきおったなぁ」
「くっ…!」
しまった、と土敷は胸の内で唸った。思わぬ大物を引き合いに出されて、少し言い過ぎてしまったようだ。だが、あれは間違いなく彼の本心である。それは他の妖怪従業員達も同じだろう、彼らは皆、大なり小なり人間に恩や情があって人を好いている者達ばかりなのだから。
(まさか、無関係の人間の命を人質にされるほど大事になるとは…弱ったな、狛君を連れてきたい所だが、事情を話せば取引が無効になる。かといって、ぬらりひょんの術に抗える人間なんて、他にいるとは思えない…どうする?)
妖怪というものは、約束をとても重要視する存在だ。西洋の悪魔などもそうだが、契約や取引によって、相手の魂や意思を縛ることを好む傾向にある。それに関して言えば、ぬらりひょんも例外ではないので、ぬらりひょんの正体を見破る人間さえいれば、彼は大人しくここを去るだろう。
だが、自発的にという条件を付けられてしまうと、それを達成するのは非常に難しくなる。狛のような霊的に鍛えられた人間か、勘の鋭い人間でなければ、見破ることなど不可能だろう。さきほどの女子生徒のように操られてしまうのがオチだ。
苦々しい顔で悩む土敷とは対照的に、ぬらりひょんは勝利を確信しているかのように高らかに笑ってみせるのだった。