「終わった…あ、狛!」
元の教室に戻って安堵した表情のレディは、すぐに狛の名を呼んで彼女の元に駆け寄った。その顔は青褪めきって、まるで百面相のようにコロコロと変わっている。
狛は身体の痛みこそなくなったが、まだ少し息が荒く、呼吸が整っていない。それでも、傍に来たレディに向かって笑みを浮かべてみせた。
「狛、大丈夫?!あの男、怪我は無くなるって言ってたけど…!」
「は…あ、レディちゃん、ありがと!最後の凄かったね。レディちゃんて、あんなに強かったんだ!…そうだ。ね、手、こうやって?」
「?」
狛は右手で軽く拳を握り、胸の前に突き出す。レディもそれに倣って同じポーズを取ると、狛はその拳同士をコツンとぶつけてまた笑った。
「へへ、漫画で読んで憧れてたんだ、こういうの。…やったね!私達!」
「…あ、Ah!そうね!」
和やかに笑い合う二人の姿は、長年の親友のように見える。夕焼けの濃いオレンジの光が教室に差し込んで、美しい映画の一幕のようであった。そんな教室の端で、大寅は意識を取り戻した。焦げた服はそのままに周囲を見回し、二人に気付いて大寅も微笑む。
「ハッ!?ま、負けたのか、わしは。…ははっ、なんや二人ともええ顔して笑えるやん。わしも世話を焼いた甲斐があったってもんかね。さて、ほなわしはこの辺で…」
「先生?」
「Where are you going?」
「ヒッ!?い、いやその、う、美しい友情の邪魔したら悪いかなーと、思て…ハハ」
こっそりと教室から去ろうとしていた大寅の背後に、冷たい笑みを浮かべた二人が立っていた。笑顔ではあるが、その胸の内にはかなりの怒りが渦巻いていて、凄まじい圧力を放つ二人は、大寅に更なる恐怖を植え付けている。
「あ、あわわわわっ…!」
「まさか、このまま逃げるつもりじゃないですよね?」
「コイツなら、ボスも殺していいって言うかしら…」
「いやいやいやいや!この通りや、すまん!か、勘弁しなはれ!ほ、ほら、仲良うなれたやん、二人共。それわしのお陰やろ?頼むで」
いい歳をした男が半泣きで土下座する様はかなり滑稽で見苦しい。あまりの情けなさに怒りが萎えた狛は、深く溜め息を吐いて言った。
「はぁ~…いいですよ、解りました。今日の事は今度何か奢ってくれたらおしまいにします。でも、次は許しませんからね?…いい?レディちゃん」
「フゥ…仕方ないわね。面倒にならなければ、それでいいわ」
教師に向ける視線と台詞ではないが、一歩間違えば死ぬような目に遭った二人には、それくらい言う権利があるだろう。大寅は気が抜けたのか、ガックリと肩を落として土下座を止め、その場に崩れ落ちた。
大寅は知らないのだ、狛の異常な食欲を。彼は後日、差し入れと称して狛を含めたクラス全員分の飲食代を払う羽目になるのだが、それによって給料一か月分の大半が吹き飛び、泣き叫ぶことになるのは別の話である。
そんな騒動から三日後、狛達の通う中津洲神子学園では、全校を上げての学園祭、通称『神子祭』が開始された。中高一貫校である学園は、学園祭の規模が通常の学校よりもかなり大きい。一部では、有名大学の学祭に匹敵するとまで言われるほどの盛況ぶりをみせると専らの噂だ。
何故、中津洲神子学園の学園祭の名称が神子祭なのかと言えば、この街の歴史にその理由がある。
学園の敷地の大半は、本来、神子家の所有していた土地である。神子家は神子神社という由緒ある神社を管理していた。古くは中津洲家と同じく豪族で武将だったのだが、江戸時代の頃に社を構え、神社を建立して地元の人達の心の拠り所となっていたと言う。
そして神子祭は、元々その神社の神に奉納する為の祭りであったのだ。
今は学園の敷地に神社の持っていた土地を割譲してしまったので、神子神社はかつてほどの威光を保てなくなっている。それでも、この街に古くから暮す人々には大切な神社であり、訪れて祈る者も多いのだが、祭りだけはそうはいかない。高齢化が進んでいる事もあって、神子神社が主体となって執り行う祭りは年々規模が小さくなってしまう。そこで考えられたのが、学園祭と合わせてしまうプランだった。
神子祭の期間は四日間、その内の一日にある神子神社の祭りを学生達が全面的に手伝うことで、本来の神子祭の規模を縮小させることなく、それを維持できるようにしたわけだ。
少々、いやかなり強引なプランではあるが、それを決定したのは以前、落書き事件で狛達に依頼した女傑・神子桔梗その人である。彼女は女性にしては珍しく神子神社の宮司も務めている為にそのプランを形に出来た。さすがである。
また神子祭は全日通して、学外からの客が入ってもよい事になっている。狛達が仮装喫茶を行うと聞いて、くりぃちゃあの妖怪達は応援に行くと息巻いていた。それもあって、初日から狛達のクラスは大盛況であった。
「このケーキ、凄く美味しいわね。これをあなた達高校生が作ったの…?」
「はい!スペシャルアドバイザーから指導を受けまして!」
客の中年女性が、近くを歩いていた狛を捕まえて感想を言ってくれた。狛はそれが嬉しくて、ずっと笑顔になりっぱなしだ。
狛の言っているスペシャルアドバイザーというのは、もちろん蛤女房のハマのことである。彼女はただの料理だけでなく、菓子作りも超一流だ。しかも今回、わざわざ狛達の為に、くりぃちゃあでは提供していないケーキなどのレシピを教えてくれたのだから頭が上がらない、味も本人からお墨付きを得ているので、そこらの学生レベルの味ではなくなっていた。
「ふぅ…スゴイお客さんの数だね~。家庭科室フル稼働だよ~、さすがだね」
「ああ、狛がくりぃちゃあのシェフからレシピを貰ってきてくれて助かったな。とても私達だけでは、この味は出せないよ」
神奈とメイリーが、わずかな休憩を取りつつ試作のケーキをつまんでいる。メイリーの仮装はメイド服で、神奈もそれにしようとしたのだが、玖歌に「アンタは鬼でしょ」と言われ、結局、縞々のトラ柄ワンピースを着ることになった。
当初はあの有名なアニメキャラクターの着ていたトラ柄のビキニ案が出たのだが、生憎と許可が下りなかったらしい。普段から剣道で鍛えてスタイルのいい神奈のビキニ姿に、クラスの男子達は大いに期待していたがその夢は儚く塵と消えた。
とはいえ、そのワンピースもかなりタイトなもので、神奈のようにメリハリの利いた身体ではかなり目立つ。下手をすればビキニよりも煽情的に見えるかもしれない有り様であった。
ちなみに、狛は犬娘…ならぬ猫耳と猫の尻尾を身に着けた猫娘である。本人が
「二人共お疲れ様ー。やっとお昼休憩取れる~!」
「狛、お疲れ様。今日はあまり食事を摂れる時間がなさそうだが、大丈夫か?」
「そうだよねー…いつものコマチってお昼休みの時間一杯までご飯食べてるもん。おやつ用意してあるから、テキドに裏に入ってつまんでね?」
「うん、神奈ちゃんもメイリーちゃんありがとう!朝いつもよりしっかり食べてきたし、自分でお弁当も用意してきたから大丈夫だよ。張り切っておにぎりたくさん作っちゃった」
狛はへへ…と照れ臭そうに笑いながら、さっそく持参したボストンバッグに、ぎっちりと押し込まれたアルミホイルに包まれたおにぎりを取り出して頬張っている。神奈とメイリーの目がおかしくなければ、同じボストンバッグが四つはあるように見えるが、気のせいではないだろう。また、おにぎり自体のサイズは野球ボールくらいの大きさだ。
てっきり野球部の誰かの私物かと思われていたそれは、弁当箱の代わりだったらしい。
その量自体は、神奈もメイリーも慣れっこなのであえて気にしないが、二人が驚いたのはその食べるスピードだった。まるでピンポン玉を掃除機で吸い込んでいるかのようにポンポンとおにぎりが狛の口の中に吸い込まれていく。…いや、訂正しよう、ポンポンではなくポポポポポポンという表現の方が相応しい。
これが狛の本気なのかと、神奈とメイリーだけでなく、バックルームで休んだり作業をしていた全てのクラスメイト達は恐怖に慄いていた。