ギリギリと身体を締め上げる音が、狛の耳に届く。首を絞めてこないのは殺意のない証だろうが、それでも全身をここまで強く締められれば、苦痛は相当のものだ。
管狐は、妖怪や憑き物の中ではかなり有名な部類に入る存在だ。本来はとても小さく、竹筒に入るほどの大きさしかないのが一般的だが、大寅が使役するこの管狐はまるで麻縄のように長く、しなやかな形をしている。これも、大寅の言う主様の力によるものなのか、或いは、大寅が自らの霊力でそういう形に育てたのかは解らない。
そもそも管狐にしろ、おとら狐にしろ、まともにその形が見えるほど実体化しているのは珍しい。ましてや、今のように人の身体を縛り上げるような物理攻撃が出来るものではないはずだ。詰まる所、この管狐には普通の管狐とは一線を画す何かがある事は間違いなかった。
「か、はっ…!」
胴を強く締められ、息を吐き出させられる。狛はさきほどから、巻き付く管狐を引き剥がそうと力一杯もがいているのだが、管狐はびくともしなかった。それどころか、狛が力を入れれば入れるほど、締め付けはどんどん強くなっている。このままでは胴体がちぎれてしまうのではないか?そう思う程の力だった。
「暴れよう思ても無駄やで。そいつは犬神ちゃんの霊力を吸うて力に変えてるんや。もがいたらもがくほど締め付けは強なるってもんよ。いやそやけど、まさかほんまに奥の手ぇ出す羽目になるとは…犬神ちゃんほんまに16歳なん?キミの力とんでもないわ。こらあ、主様直々に見分して来いって命令するのも解るなぁ」
殴り飛ばされてダウンしているおとら狐を横目に、大寅は冷や汗を拭きながら呟いている。自慢のおとら狐を一撃でのされたのだから、さぞかし肝を冷やしたことだろう。
狛はこれでまだ若干16歳の少女だ。犬神家一族の常識から言っても、退魔士になる許しが出ただけの年齢であり、歴代の退魔士達の中でもこれだけの力を持っているものはそういなかったはずである。兄である拍や、一族随一の天才と目された犬神宗吾を除いては。
「狛が…!?私は、このままで、いいの?…No, they aren't.私は…私だって!」
苦痛に歪む狛の顔を見て、レディは初めて胸が痛んだ。こんな事は初めてだ。今までどんな敵を相手にして、それを苦しめて殺してきても、自分の胸がつまる事など一度もなかった。それどころか、死に瀕した相手の顔は美しくさえ思えたほどだ。
だが、狛はそんな自分を守ろうとして追い詰められ、苦しんでいる。それに手をこまねいて見ているだけの存在であっていいはずがない。レディの暗殺者としてのプライドは、ただ守られるだけの状況に甘んじることなど許しはしない。
「そうだ。私はAssassinsだ…ならば!」
そしてレディの気配は、その場から
「ぁ…っ…!」
「そろそろ限界やろう。いやはや、熱なってもうたな。安心し、殺すつもりなんてあらへんし、あとはレディちゃんにお仕置きするだけやさかい、犬神ちゃんはゆっくり寝とったらええわぁ。さて…!?」
狛の身体から力が抜け始めたのを確認して、大寅は初めて気付いた。いつの間にかレディの気配が感じられないのだ。
(いーひん?そないなアホな。この疑似神域から逃げ出すことなんて出来るはずがあらへん。何処へ逃げてもわしには解るはず…ほな、レディちゃんは一体どこに…?)
大寅は辺りを見回すが、一向にレディの姿は見当たらない。第一、この場所に身を隠せるものなどないのだ。この空間は、おとら狐や狗神が暴れてもいいように、採石場をイメージして創り上げた空間である。当然、遮蔽物など何もないし、ただ広いだけで他の生き物などもいるはずがない。ここは、神の力で完全に閉じた世界なのである。
「っ!?」
次の瞬間、背後からゆっくりと、大寅の身体を撫でるように2つの腕が伸びてきた。恋人が抱き締めるような、柔らかで静かな動きだ。思わず身を委ねてしまいたくなるが、そういうわけにはいかなかった。その腕には、信じられないほどの殺意と殺気が宿っていて、それに触れられただけで命を奪われる…そんな戦慄が大寅を襲ったからだ。
「…う、うぉわぁっ!!」
幾度となく死線を潜ってきたはずの大寅も、その気配にたまらず叫び声を上げて、飛ぶようにその場を離れた。今までどんな妖怪変化と相対しても、ここまで明確に死を予感したことはない。自らの主である祭神、
彼の神をしても感じられないであろう畏れを与える存在がいる。その事実が、さらに大寅に恐怖をもたらしていく。その恐怖によって足がもつれ、転ぶように座り込んだ大寅が振り返ると、そこには艶めかしくも美しい右足が見えた。
「おぶっ!?」
強烈な蹴りが、大寅の顔面を捉えた。その足運びの軽さとは真逆の、足先に重りでもついているかと思うほどに重い打撃だ。痛みと衝撃でのけぞる大寅の鼻からは鼻血が溢れ出て、ほんの少し、大寅の身体が浮くほどの威力であった。
「…殺す」
レディの囁くような言葉は、それだけで命を刈り取れるほどの冷たい圧を放っている。大寅はそこでようやく気付いた、彼女はただのネクロマンサーではなく、正真正銘の殺し屋であり、力を持った学生がトチ狂っただけの異常者なのではないということを。
そう、レディは暗殺者の一族に生まれ、その技術を惜しみなくその身に叩き込まれた戦士でもある。普段は死体達に戦闘を任せているし、霊力のガードが弱い相手なら、その身体に自らの霊力を流し込んで侵食して殺すこともできるが、彼女は単体でも十二分に戦える能力を持っているのだ。
レディがそれを滅多に見せないのは、それが自分の美学に反しているからというだけなのである。
故に、死体による攻撃が通じず、霊力だけで殺せない大寅のような相手であれば、レディは残された技術を使う事など厭わない。ただ、これまでと違うのは、それが狛を守ろうという今までのレディにはない意識によるもの、それだけである。
(あかん、見誤った…!この子ぉは身体がそもそも凶器やったんや。まずいわ、人間相手の格闘戦なんて、わしらはろくに学んでへん。妖怪相手にだって肉弾戦なんてする事もあらへんし、完全に油断しとったわ…!)
妖怪を相手にして、人間の体術などそう通用するものではない。それを専門にした武術や格闘術もあるにはあるが、それらは武僧や僧兵などが修めるものだ。退魔士の中でも、陰陽師…しかも俗に言えば魔物使いに近い大寅は、即殺されない程度の体捌きや身体運びしか学んでいなかった。
対人の接近戦は大の苦手で、そうならない為のおとら狐と、奥の手である管狐なのである。
大寅の最大のミスは、すぐにおとら狐を復活させなかった事だ。いくらレディが暗殺者としての技術を会得していても、巨体のおとら狐を体術で押し込める事は難しいだろう。彼女は人狼化した狛のような理外の怪力を持っているわけではないのだ。狛の動きを管狐で封じている内におとら狐を復活させていれば、少なくとも、レディにこうも接近され、一方的な攻撃を受ける事はなかったはずである。
「来いっ!管狐!」
おとら狐を復活させようにも、目の前にいるレディがそんな暇を与えてくれるはずがない。大寅は止むを得ず、狛の拘束に使っている管狐を呼び戻し、レディを止めようと考えた。だが、それすらも既に遅い。
レディは大寅の背後に立つと、その細い両腕を絡ませて抱き締めるように密着した。これでは大寅も、狛の時のように締め上げるわけにはいかない。逆に首でも絞められるかと覚悟した時、レディの手に握られているものに気付く。
「そ、それは…!?」
「Lightning strike.…サヨナラよ」
そう言い放つと同時に、レディは狛から手渡された雷撃符に霊力を込め、それを発動させる。至近距離からの電撃は、一瞬で大寅の意識を刈り取ってみせた。これでは大寅に密着するレディも巻き込まれる事は必至だ。しかし…
「れ、レディちゃん…っ!」
拘束から解かれ、息を切らせながらその光景を見ていた狛は、眩い電撃の向こうで倒れる大寅と、無傷のレディを見つけて安堵した。
レディは同時に結界符も起動させていて、自分の身を護っていたのだ。ついでに、大寅もわずかに結界に護られていたようで、意識を失い衣服は焦げているが、命に別状はなさそうだった。
瞬く間に周囲は教室に姿を戻し、戦闘はこれで終結した。後には倒れた机や椅子が散乱しており、疲れ切った狛は元に戻すのが面倒で、溜息を吐くのだった。