「今日はありがとうございました」
「本当は昨日お祝いしてあげるべきだったよね、遅くなってごめん」
「いえ、今日で良かったんじゃないですか? 僕と月見里さん二人の誕生日に挟まれた、この今日で」
そう言われてドキリと胸が鳴る。そんな風に言われたら何だかこの何でもない日が特別になってしまったように感じてしまう。
「もしかして明日もさっきの店に行くんですか?」
「うん。明日は多分、陽菜が――総務部の中山がお祝いしてくれるから」
「そうなんですね。そうだ今度は僕が違う店に連れて行きますよ。また一緒に食事しましょう。今日はありがとうございました。お疲れ様です」
「お疲れ様」
また一緒に、と誘われた事に浮つくくらい嬉しい気持ちと同時に、『違う店に連れて行きますよ』と言われたと言う事は、松岡くんは【キッチン みやび】を気に入らなかったのだと落胆する。
駅にてその背を見送りながら、気に入らないお店に連れて行ってお祝いまでして、悪かったなと気分が沈みながら帰路についた。
それから家に帰り着くなり雅くんにメッセージを送る。
今日は急なお願いに対応してくれてありがとう。
それから今日来た事は陽菜には言わないで。
その二点を念押しして送ると、了解、と返ってきた。そして見た目と違って根は真面目な雅くんらしく、陽菜に何か言う事はなく、雅くん自身も敢えて深く聞いてくる事もなかったのだった。
そして私は翌日、29歳の誕生日を迎えた。
*
遊園地デートから三週間経過し、約束の水族館デートの日がやって来た。
遊園地の日にはカジュアルだった格好も、今日は頑張ってオシャレをしてきている。淡いグレーのブラウスに、ミモザ色のフレアスカートの裾が風に吹かれ膝下で揺れていた。
可愛いと思われたいという意識がないとは言えない。鏡の前で何度も「おかしくないかな? 可愛いかな?」と確認していた事は事実である。
だけど松岡くんから「可愛いですね」なんて言われる事は期待していない。彼は私にそんなセリフを絶対に言わないだろう。言うとしたら、言う相手は私じゃなくて、きっと友梨さんなのだ。
だけど少しくらい可愛いと思って欲しいと思うのはわがままだろうか。
だけど私になんて全く興味がないと証明するように、松岡くんの態度はいつもと同じで淡々と「おはようございます」と言って来る。
「おはよう」
「はい、入場チケットです」
「ありがとう。いくらだった?」
「いらないですよ」
「でも、そんな訳には……」
「友梨と湊くんもチケット買えたみたいですよ。さ、行きましょ」
「ちょっと松岡くん」
「歩です。今日は彼女なんだからいいんですよ、
「対価……」
嫌な言い方だけど、浮かれた気持ちを冷静にしてくれる。
そうだ、今日も松岡くんが友梨さんとの思い出をたくさん作れるように応援しなければならないのだ。当初の目的を思い出した私は今日も頑張るぞ、と一人で意気込むと、松岡くんの背中を追った。
小さな水槽から、だんだん大きな水槽へと移り、目の前に巨大な水槽が現れた。
いや、これはむしろ私たちが海の中にいるかのような錯覚さえ覚える。上を見上げてもゆったりと気持ち良さそうに泳ぐ様々な魚たち。
隣で家族連れの子どもが可愛いらしい指を前に伸ばして「あれはなに?」と目を輝かせていた。
大人になったら無邪気に輝かすことはなくなるけど、でもそれでも、圧倒されるな、としばらく四人で眺めていると、湊さんが、「おお!!」と声を上げた。
「ほら友梨、見てご覧。この美しいイワシの魚群を! 私はこれだけが見たかったんだ。なんて神秘的なんだろう。凄いね、友梨。あまりの感動に手が震えるよ……」
それを不躾にもぽかんと見てしまった私に、友梨さんはこそっと耳打ちしてくる。
「ごめんね、湊くん、こうなったら三時間はここを動かなくなるんだよね」
「えっ!? 三時間?」
「うん、最低三時間。長ければ一日中」
「うそ……」
「だから、二人は先に行って! イルカショーの時間もあるし、ゆっくり楽しんでおいで、ねっ!」
「あ、それなら私が湊さんとここで待ってますよ。だから友梨さんが楽しんで来てください! 友梨さんこそイルカショー楽しみにしてたんじゃないですか?」
でも……、と困る友梨さんを見て、やっぱり楽しみにしてたんだと感じる。
ここで湊さんと私が残れば、松岡くんは友梨さんと二人でデートが出来る……。そう、こんな胸の痛みなんて大した事はない。
私の気持ちより、松岡くんの気持ちを大切にする日なのだから。だから私の気持ちの蓋をうっかり開けてしまわないよう、閉ざして、心に何もないように振る舞わなければならない。
「ねっ、友梨さん。私はまたいつでもここに来れますし、イワシを見てるのも結構好きなんむぐ――」
「何言ってるんです? 彩葉? ちょっと湊くんが格好いいからって、ふらふらとそっちに行かないでくださいよ。ほら彩葉は僕と先に行きますよ。友梨、じゃあ後でね。湊くんもほどほどにして、ひっぱたいてでも連れて来なよね」
「うん。彩葉ちゃんをよろしくね歩!」
「分かってるよ」
私の口を手の平で潰したまま進もうとする松岡くんの手をたたいて抗議する。
「んむ、むう、うー、んー!」
「ほんと、お節介」
「なんで? 友梨さんと二人でデート――」
「しつこいですよ」
きっと睨まれた私は、ごめん、と項垂れる。
「今日の彩葉は僕とデートなんですから、僕と一緒にいなきゃおかしいでしょ。そろそろ本当に友梨に疑われますよ」
「ごめん。心配させたくないんだもんね」
「…………」
怒らせてしまったのだろうか。ごめんね。
松岡くんのためを思って、とやっている事がすべて裏目に出ている。
こんなはずじゃなかったのにな。もっと楽しく、友梨さんと笑顔の思い出をたくさん残して欲しかっただけなのに……。
ごめんね、と囁いた声は果たして松岡くんの耳に届いたかは分からない。道幅の細い展示室には多くの人がいる。前を歩く松岡くんが一度こちらを振り返ると私の手を取って引っ張る。
「はぐれたら困りますから」
子どもじゃないんだから大丈夫だよ、と言う言葉は飲み込んだ。繋がれた手から伝わる温もりがとても嬉しくて心を弾ませてくれる。
にやける顔を、唇を噛んで必死に我慢しなければ、嬉しいと言う気持ちが際限なく飛び出してきそうで怖かった。
それに何より松岡くんに気付かれるのが怖い。