「これを、リッキーさんに渡してくれますか?」
今日も同じ時間に訪れたメルヴィンは、リトヴァに小さな花束を差し出した。
それは、ラベンダーの花束だった。
花束というには大袈裟すぎだが、3本のラベンダーの花を、細いピンク色のリボンで結んで束ねてある。
いつも手ぶらなのだが、今日はこうして花束を持参してきた。
ちょっと驚いたものの、リトヴァは可愛らしい花束をそっと両手で受け取ると、
「確かに、お渡ししておきますわ」
そう言って、帰っていくメルヴィンを見送った。
紫色の小さな花を見つめながら、リトヴァはメルヴィンのいじらしい想いを感じて、ますます深いため息をついた。
リトヴァは知っている。
ラベンダーの花言葉は『あなたを待っています』。
この小さな花束に込められた想いが、どれほど真摯で切ないものか、痛いほど伝わってくるのだ。
メルヴィンはけっして多くを言わず、態度も紳士的でリトヴァを困らせない。むしろ、悪態の一つでもついてくれれば「厄介払いをした」という気持ちになれるというのにそれもない。忍んで耐えるその姿もまた、切なかった。
「彼は、また来たのかね?」
心配そうに様子を見に来たセヴェリが、リトヴァの手にしているラベンダーの花束に目を留めた。
「お嬢様へお渡しして欲しいと」
セヴェリは小さく渋面を作ったが、
「誰が持ってきたかは言わず、お嬢様のお部屋に飾って差し上げるだけなら、いいと思いますよ」
そして重いため息をついた。
セヴェリもまた、リトヴァと同じ気持ちである。
「活けてすぐにお持ち致しますわ」
「そうですね。そうして差し上げて下さい」
「失礼します、お嬢様」
部屋をノックする音とリトヴァの声がして、キュッリッキは顔を上げた。
「どうぞ」
白いクロスのかかったワゴンを押して、リトヴァが入ってきた。
キュッリッキはソファに足を投げ出して座り、膝にフェンリルとフローズヴィトニルを乗せていた。
「お茶のお時間ですよ。フローズヴィトニル様のお好きなお菓子も、ご用意いたしました」
「ありがとう、リトヴァさん」
にっこり礼を言うキュッリッキに微笑み返し、ソファのそばにある小さなテーブルに、ローズヒップのお茶と、プチケーキの皿を並べる。そして、ラベンダーを活けた小さな花瓶も添えた。
いつもと違う花に、キュッリッキは目を瞬かせる。
「そのお花、ラベンダー?」
「はい、さようでございます」
「ふーん…」
こうしてお茶を出される時、必ず小さな花々を活けた花瓶も持ってくる。パンジーだったり小さなバラの花だったり。ラベンダーの花は初めてだった。
細い小さな花瓶に活けられたラベンダーを、キュッリッキは吸い付くように見つめている。その様子を見て、キュッリッキが何かを感じて気づいてくれたら。リトヴァはそう願わずにはいられなかった。
それから毎日のように、メルヴィンは想いを込めたラベンダーの小さな花束を持参するようになった。
これはグンヒルドの入れ知恵であると、さすがにリトヴァは気付かない。
エルダー街のライオン傭兵団のアジトに押しかけたグンヒルドは、言葉が届かないなら花で攻めろと、ラベンダーの花を持参するようにすすめたのだ。
絶対に想いが通じるから、と言って。
リトヴァは花束を受け取り、キュッリッキへのティータイムには必ずその花を活けて添えた。誰から贈られたものなのか、本当のことが言えないままに。
こうしたやり取りが続く中で、溜まっていった鬱憤が、怒りという形でリトヴァの心を支配していく。
本当のことが言えない、言いたくても言えない苦しさに、ついにリトヴァは我慢できなくなって爆発した。
いつものようにメルヴィンが花束を託して帰ったあと、リトヴァはすぐにキュッリッキの部屋へ向かった。
走らない程度に速度を抑え、しかしカツカツと靴音も高らかに、肩をいからせて歩いていく。
(もう我慢などするものですか! 命令に背いて言ってやりますわ旦那様方! お覚悟なさいましっ!)
ノックもそこそこに、意を決してキュッリッキの部屋の扉を開く。
「お嬢様、よろしいでしょうか?」
いきなり現れ、どこか怒った風のリトヴァの珍しい表情に、キュッリッキは気圧されたように小さく頷く。
「これを」
キュッリッキは手にしていた風景の写真集を傍らに置いて、差し出されたラベンダーの小さな花束を受け取った。
「いつも活けてくれるラベンダーの?」
「さようでございます」
淡いピンク色のリボンで、可愛く束ねられたラベンダーの花。
キュッリッキが不思議そうにリトヴァを見上げていると、肩の力を抜くように、リトヴァは表情を和ませた。
「お嬢様は、ラベンダーの花言葉をご存知ですか?」
「んーん、知らない。花言葉って、どれも知らないの…」
少し恥ずかしそうに言うキュッリッキに、リトヴァは口元を笑みの形にした。
「とても良い言葉なのです。花言葉は『あなたを待っています』、といいますの」
「あなたを待っています……」
匂いはとても清々しく、気分がとてもすっきりする。ラベンダーは花の形よりも、キュッリッキはその匂いに印象が強い。
手にしたラベンダーの花を改めて見つめる。製品化された香料の匂いよりも、ずっと優しく瑞々しい匂いがする。
「この間中庭へ行ったとき、ラベンダーの花は一本もなかったの。いつもカープロさんが育てているお花を添えてくれていたのに、珍しいな~って思ってた」
わざわざ買ってきてくれていたのかな、とキュッリッキは思っていたが、手にしている小さなこの花束は、そうではない感じがした。
誰かに贈るための、プレゼントのように見えるからだ。
その時、傍らで寝ていたフェンリルが、呆れたような鼻息を露骨にふいた。フローズヴィトニルもまた、フェンリルの真似をして鼻息をふいた。キュッリッキは訝しんで2匹を見たが、フェンリルは「じとーっ」とキュッリッキを見て、ぷいっと顔を背けてしまった。
「なっ、なによフェンリルってばー」
キュッリッキは抗議の声をあげるが、フェンリルはシカトしていた。
唇を尖らせながら、再びラベンダーの花束を見つめる。
リトヴァがこうして意味深に花束を持ってくるのも不思議だ。そして、花言葉。
あなたを待っています。
あなたを、待って。
心の中で、何度も何度もその言葉を繰り返す。
その瞬間、キュッリッキはハッとなって立ち上がった。
大きく目を見開いて見つめてくるキュッリッキに、リトヴァは優しく微笑んだ。
「あなたを待っていますって花言葉………もしかして、もしかして」
キュッリッキは小刻みに震えながら、期待と不安を混ぜ合わせた声を出した。
「お帰りになられて、まだそうお時間は経っておりません」
リトヴァはそう言って、深々と頭を下げた。
キュッリッキはラベンダーの花束を胸に押し抱くと、弾かれたように部屋の外へ駆け出した。
あまりにも素早かったので、フェンリルとフローズヴィトニルは慌てて追いかけていく。
キュッリッキたちが部屋を飛び出して少しすると、セヴェリが顔をのぞかせた。
「お嬢様が血相を変えて、外に飛び出していかれたが」
「そのようですわねえ」
リトヴァの満足そうな顔を見て、セヴェリは広くなった額に手を当てた。
「旦那様がたに知れたら、大変なことになりますよ」
「毎日毎日、メルヴィン様への気の毒すぎる応対、お嬢様の辛いお気持ちを聞かされる、わたくしの身にもなってください。と、ご反論申し上げる覚悟でございますよ」
腹を括ったリトヴァの天晴れな様子に、セヴェリは苦笑した。
「あなたに居なくなられると、お
「まあ、心強いことですこと」
リトヴァとセヴェリは顔を見合わせると、声を立てて笑った。
馬に蹴られても仕方がないような
キュッリッキは髪を振り乱しながら、一生懸命地下通路を走っていた。
もともと運動には、あまり明るい方ではない。でも、今は一生懸命走らなければならないと、自分を奮い立たせて走った。手の中のラベンダーの花束も、キュッリッキを応援してくれている気がする。
(メルヴィンが、メルヴィンが来てくれたんだ。アタシに会いに来てくれてたんだ)
このラベンダーの花束を持って、会いに来てくれていた。
リトヴァがラベンダーの花を活けた花瓶を添えてくれるようになって、かれこれ一週間は経っているだろうか。何故、メルヴィンが会いに来てくれていたことを、教えてくれなかったのだろう。
でも今は、そんな些細な疑問はどうでもいい。メルヴィンが会いにきてくれていたということが判っただけで、キュッリッキの心は色々な期待でいっぱいに膨らんでいった。
(メルヴィン、メルヴィン)
心の中で何度もメルヴィンの名を呼ぶ。それだけで、涙が溢れてきて止まらなくなった。視界が曇ったが、走りながら乱暴に手で涙を拭う。
会いに来てくれていた、花束を持って。あなたを待っていますという願いを込めた花束を持って。
(皇王様が言っていたように、メルヴィンが驚いたのは、アタシがアイオン族だったから。だから、驚いただけだと信じてもいいんだよね。だから会いに来てくれたんだよね!)
急に全速力で走ったため、横腹に痛みが刺した。しかし走るのをやめない。やめたくない。こんな痛みくらい我慢できる。あんなに会いたくてしょうがなかったメルヴィンが、この向こうにいるのだから。
(メルヴィンどこ? どこにいるの?)
追いついたフェンリルがキュッリッキを追い抜き、「ついてこい」とキュッリッキの意識に語りかけてきた。
キュッリッキは頷くと、フェンリルの後を追いかけた。
複雑な地下通路を走り、そしてようやく追いついた。
懐かしいその広い背中を見て、キュッリッキは喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「メルヴィン!!」
名を叫ばれ、メルヴィンはびっくりして振り返った。
「リッキーさん!?」
久しく見る少女は、白い頬を紅潮させ、息遣いも荒い。「ハア、ハア」と何度も息を吐き出し、大きく目を見開いてメルヴィンを見ていた。
2人は距離を置いたまま、暫く無言で見つめ合っていた。
やがてキュッリッキの呼吸が落ち着いてきた頃、キュッリッキの手に握られているラベンダーの花束に気づいたメルヴィンは、嬉しそうに口元をほころばせた。
「よかった。ちゃんと受け取ってもらえてたんですね」
一瞬なんのことかとキュッリッキは目を丸くしたが、自分が持っているラベンダーの花束だということに気づいて頷いた。
「素敵な花束、あ、ありがとう…」
ラベンダーの花で口元を隠しながら、キュッリッキは恥ずかしそうに顔を赤らめる。
その愛らしくもいじらしい様子は、メルヴィンの心に温かく染み渡っていく。
(そう、いつもこうして、恥ずかしげに顔を赤くしていた)
なんだか懐かしさを覚え、メルヴィンは笑みを深めた。またこうしてキュッリッキのそんな表情を見ることができて、とても嬉しかった。
メルヴィンはキュッリッキに手が届くところまで歩み寄ると、自分の胸のところまでしか背のないキュッリッキを、優しく見おろした。そしてキュッリッキもメルヴィンを見上げ、ますます顔を赤くした。
「少し歩きませんか? こんな地下通路じゃなく、ですが」
そう言うと、メルヴィンはキュッリッキの手を優しくとり、もときた道を戻り始めた。