目的地へ向かう間、2人は無言だった。
気まずくて言葉が出ないわけではない。会話が思いつかないわけでもない。
手をつないで寄り添っているだけで、言葉など紡がなくても、2人の心は通いあっているから。それが判っているから、お互い口は開かなかった。
小さくて華奢な手。脆くてほっそりとしたその手をしっかりと握り、メルヴィンはようやくだ、という気持ちを噛み締めていた。
2週間ベルトルド邸に通いつめ、キュッリッキに想いが届いた。そしてその想いを抱きしめ、目の前にキュッリッキは姿を見せてくれた。
こうして一緒に歩いている間、時折キュッリッキは見上げてくる。それに応えるように振り向くと、恥ずかしそうにすぐ顔を伏せてしまう。ならばと振り向くのをやめていると、どこか寂しげな雰囲気を漂わせてくるので、振り向いて微笑んでやる。そうするとまた顔を伏せてしまうのだ。
なんだかそのやり取りがおかしくもあり、メルヴィンは必死に笑いをこらえていた。
一方キュッリッキは、メルヴィンとこうして手をつないで一緒に歩いていることが幸せで、その嬉しさを伝えたくてメルヴィンを見上げる。そうするとメルヴィンが振り向いて微笑んでくれるので、気持ちが伝わったと思い、つい恥ずかしくて俯いてしまっていた。
長すぎる地下通路をゆっくり歩き、やがて2人は地上への階段をあがっていった。
階段をあがり地上に出ると、キュッリッキは目を見開いて小さく驚きの声を上げた。
「凄い、ミモザの花がいっぱい」
目の前に咲きほこる黄色い花々。それは、可憐なミモザの花々だった。しかし、とキュッリッキは僅かに首をかしげる。
「ミモザの花って、春頃に咲くんじゃなかったっけ?」
「ええ。ここはイフーメの森といって、ハーメンリンナのなかに作られた、人工の森なんです」
2人は整備された、薄い茶褐色のレンガが敷き詰められた道を歩く。
「貴族たちの要望に応じた、季節ごとに咲く様々な草木や花々が植えられて、特殊な管理のもと、一年中枯れることなく咲いているんです」
「うわあ……」
自然の法則を無視した、見事な人工の森だった。
メルヴィンは白いベンチを見つけ、そこへキュッリッキを座らせると、自分も隣に腰を下ろした。
「ここへ、どうしてもリッキーさんを連れてきたかったんです。タネの内容はともかく、素敵な場所ですから」
「うん、とっても綺麗なところだね」
数ヶ月ほどハーメンリンナにいるが、この森へ来たことはない。ベルトルドもアルカネットも、あまり
「メルヴィンは、ここに詳しいの?」
「数年ハーメンリンナに住んでいました。軍の官舎がこのハーメンリンナの中にあるんです。オレは元軍人だから、それで知ってました」
「そうなんだ~」
時折、恋人同士のように見える男女が歩いていく。それを見つめながら、ふとキュッリッキは引っかかるものを感じてメルヴィンを見る。
「メルヴィンは、その……、一人でお散歩とかにきていたの?」
躊躇いがちなキュッリッキが言わんとすることに気づき、メルヴィンは悪戯っぽい笑みを浮かべて、ちらりとキュッリッキに顔を向けた。
「もちろん、恋人と来てました」
「え…」
キュッリッキは驚き、そして不安そうに
「その恋人に、ここを教えてもらったんです。オレは恋人と過ごす場所なんて知りませんし、探そうともしていなかったから。その恋人だった人曰く、女性はムードをとても大切にするんだそうです」
「ふ、ふーん……」
キュッリッキは急に面白くなくなって、唇を尖らせ俯いた。
メルヴィンと2人きりになれるなら、場所なんてどこでもいい。その場所に、昔の恋人なんて邪魔なだけだ。
「ヤキモチ妬きましたか?」
「えっ」
顔を覗き込まれ、キュッリッキは途端に耳まで真っ赤になった。もちろん、妬いた。でもそれを知られるのは、余計に恥ずかしくて、
「そ、そんなこと、ないもん」
と、強気に出た。
「妬いてもらえると、嬉しいんだけどなあ」
そう切り返されて、キュッリッキは困ったようにメルヴィンを見た。
「オレ、鈍いんです。こと、恋愛方面には」
メルヴィンは苦笑を浮かべた。
「昔の恋人とは、それが原因で別れたんです。最後まで彼女の気持ちにも気づかなくて、それで一度後悔したはずだったけど、やっぱり今回も鈍かったです」
心配そうに見つめてくるキュッリッキに、メルヴィンは小さく笑ってみせた。
「リッキーさんの気持ちにも全く気づかなくて、本当にごめんなさい。あんなに慕ってくれていたのに、どうして気付かなかったんだろうってくらい、鈍くって」
「べ、別に、メルヴィン悪くないんだよ、悪くないんだもん!」
身を乗り出して、キュッリッキは必死に言った。気づいてもらえてないからといって、メルヴィンを恨んだことなんてない。そんな風に考えたことだってなかった。
(昔の恋人とやらとアタシは、違うんだからっ!)
2人はそれきり口を閉ざすと、暫しミモザの花を見つめた。
そよ風がそっと枝を揺らし、明るい陽光に照らされた黄色い小さな花が、光のように踊った。それが幾重にも広がり、辺は金色のさざ波のように、幻想的な雰囲気を生み出していた。もう秋に向かっているというのに、季節感なんかお構いなしの光景だ。
「以前、大怪我を負ったあなたが、言いましたよね。話せる勇気が持てたら、絶対に話すから、と」
ふいに口を開いたメルヴィンが話しだしたことに、キュッリッキはハッとなった。
そう、ナルバ山で大怪我をしてベルトルド邸で身体を癒しているとき、付き添っていたメルヴィンに、そう言ったことがある。
「う、うん」
「エルアーラ遺跡で見せた翼、あのことなのかなって、思ったんです」
メルヴィンはキュッリッキのほうへ身体ごと向け、真摯な眼差しでキュッリッキを見つめた。
「とても辛いことなんだと、鈍いなりに考えました。でも、思い込みから勝手な想像であなたを見たくない。きちんと理解し、受け止めたい。どうか話してもらえませんか?」
キュッリッキはメルヴィンを食い入るように見つめた。
けっしていい加減で、軽い気持ちで言っていないことは判る。そもそもメルヴィンはそういう人ではない。
自分の口から話すと決めたし、メルヴィンには打ち明けなくてはいけない。
メルヴィンが自分を好きでいてくれているのは判る。興味本位で聞きたいわけではない、自分を理解しようとしてくれているから。だから、知りたいのだと。
心が波のように、ユラユラと揺れる。
過去や生い立ちを打ち明けても大丈夫な人、突き放したり、それをきっかけに去っていく人じゃない。自分のことを知ってもらって、それでもきっと好きだと言ってくれる人。
信じたい。信じたいほど、大好きだから。
(勇気を、出さなきゃ…。メルヴィンにアタシのこと、知ってほしい。そしてずっと、好きでいてほしいから)
膝の上に揃えた手が臆病なほどに震えている。勇気を持とう、勇気を出そうと毎日自分の心に言い続けていたのに、こんなにも震えてしまう。
その時、温かな手が、震える手の上にそっと重ねられた。
顔を上げると、穏やかな光を宿す、メルヴィンの目と視線が重なった。
「あの、アタシ、ね、……」
キュッリッキは言いよどみ俯く。けど、メルヴィンは何も言わず、じっと耳を傾けていた。
「生まれた時ね、片方の翼が、その……奇形だったの」
「うん」
「そのせいでね、アタシ捨てられちゃったの……。みっともない翼だから、空を、翔べないから、出来損ないだから……お父さんと、お母さんに捨てられちゃった」
次第に涙が溢れてくる。そして、メルヴィンの手の甲にポタ、ポタっと、涙が落ちて弾けた。それを涙で曇る目で見つめながら、キュッリッキは話を続ける。
「アタシが生まれたのはイルマタル帝国で、国もアタシを引き取ることを拒絶したから、修道院に預けられたの。でも、そこでも片方しか翼がないから、みんなに苛められて。それで、7歳のときに、崖から突き落とされて、フェンリルが助けてくれたけど、修道院には戻らなかった。それから、フェンリルと一緒に惑星ヒイシに来て、各地を転々としながら、戦場を探して走り回って、傭兵になったの」
心を突き刺すほどの辛い思い出。苦しいことばかりの幼い時分。
(両親と国に捨てられた…)
それがどれだけ途方もないくらい残酷なことなのか、メルヴィンは想像を絶する事実に絶句してしまった。
「アイオン族であることはね、必死に隠してたの。翼は片方しかないし、もしそれがバレたりしたら、絶対馬鹿にされるし貶される。アイオン族は他種族に態度が悪いから、嫌われてるし。――同族にすら見捨てられたのに、他種族に笑われるのは耐えられないもん」
だから翼を隠して、アイオン族であることも黙っていた。
しゃくりあげながら必死に話すキュッリッキを見つめ、メルヴィンの表情に苦いものが広がっていく。
「翼を見られないように、アイオン族だとバレないように、誰も信じない、心なんて許すもんかって生きてきたの。でもね、ファニーとハドリーに出会ってね、2人と一緒に仕事したり遊んだりしてたら、アタシ段々変わっていったの。自分でも判るくらい」
突っ慳貪な態度をとり続けていた。それなのに2人は、どんどんキュッリッキの手を引っ張って一緒に歩いてくれるのだ。手を放して、突き飛ばすこともしない。引き寄せて抱きしめてくれる。
最初は鬱陶しさや疑う心しかなかった。しかし、接していくうちに次第に2人に打ち解けていって、自分のことも話せるようになっていった。いつのまにか、友達になっていた。
「ファニーとハドリーは、初めてアタシを理解してくれて、アタシちょっとだけマシになってきたの。人間っぽくなってきたのかな…。だって、今までアタシに何かを教えてくれるのは、フェンリルしかいなかったから」
メルヴィンはちらりと、足元に静かに座るフェンリルを見る。フェンリルは難しそうな表情を浮かべているが、水色の瞳でキュッリッキをじっと見守っていた。
「そしてライオン傭兵団に入って、初めて居場所を見つけた気がしたの。これまで出会った傭兵たちとは違う、アタシここに居てもいいんだ、って思えて。――ザカリーには入ってすぐに翼を見られちゃって喧嘩してたけど…でもいつの間にか、仲間になれてて…」
キュッリッキは一度鼻をすすり、肩の力を抜く。
「アイオン族だってバレないように、ずっと壁を作っていたけど、そんなだからアタシね、アタシだけを可愛い、可愛いって、甘やかしてもらいたかったんだって、今はハッキリ判る。そんな風にしてもらったこと、なかったから。ベルトルドさんやアルカネットさんは、そのことが判っていたんだと思う。いっぱい可愛い可愛いってしてくれて。ちょっと過激なところもあるけど……」
そのことについては、メルヴィンもキュッリッキも、自然と呆れたようなため息が漏れた。
「世界中の幸せな人たちが羨ましかった。家族に恵まれている人たちに嫉妬してた。妬ましくって、大嫌いだった。自分だけが不幸じゃないのに、世界一不幸だと思ってたの。でも、ライオン傭兵団に入って、アタシもっと変わった。みんなと仲間になったから、もう独りぼっちじゃない、血が繋がってなくても、家族みたいな人達と仲間になれたから、いつか自分のことも、アイオン族であることも話せる。そう思っていたのに……」
キュッリッキはワンピースをきゅっと握り締める。
「片方だけの翼を見られたとき、急に昔の嫌なことがいっぺんに蘇ってきて、やっぱりみんなに嫌われたって思った。実の親だって見捨てた、アイオン族だって見捨てたアタシの、みっともない翼を見て、みんなだって嫌いになったって。………メルヴィンにも見れちゃって、あんなに驚いた顔をしてて、もう嫌われちゃったんだって……ずっと、そう思ってた」
涙は止まらず、メルヴィンの手の甲にたくさんの水たまりを作った。
「メルヴィンに会いたいのに、きっと嫌われてて、それを知るのが怖くて。でも会いたくて……」
そしてついに、キュッリッキは声をあげて泣き出した。
サワサワと木々の揺れる葉音とキュッリッキの泣き声だけが、辺りに響く。
黙って聞いていたメルヴィンは、やがて長い息を吐き出した。
「オレってほんと、鈍いですね…。鈍い上に、甘ちゃんです」
「え…」
ぐすりながらメルヴィンの顔を見上げると、苦いものを噛み潰したような表情を浮かべていた。
「もっと単純に考えてたオレが恥ずかしいです。きっと、話してくれた以上に、辛かったはずなのに」
「メルヴィン……?」
キュッリッキは急に不安になった。まさか、今話したことで、やはり自分では受け止めきれないと、そう思ってしまったのではないか? なかったことにしてほしい、そう考えてしまったのではないだろうか。
(やっぱり、話さないほうが良かったの…?)
キュッリッキの手の上に重ねられていたメルヴィンの手が離れた。そして、その手はキュッリッキの背に回され、力強く抱きしめられた。
「メルヴィンっ」
突然のことに、驚いて目を見張っていると、
「ごめんなさい。辛いことを話させてしまって、本当にごめんなさい。そして、打ち明けてくれてありがとう。こんなオレに話してくれて、ありがとう」
噛み締めるようにメルヴィンは言った。
迂闊に話せることではないだろう。それに、口に出せば己の心が再び傷ついてしまう。更に、一人で抱え込むには、あまりにも重すぎる。
(支えてあげたい。ずっと、オレが支えになりたい)
支えになれるかは判らない。正直自信はない。しかし、自分を信じて打ち明けてくれたキュッリッキの勇気と決断に、メルヴィンの心に迷いはなかった。
「聞いてくれて、ありがと……」
キュッリッキもメルヴィンの背に両手を回し、しっかりと抱きしめた。
一生懸命話した。包み隠さず、自分を全部話せた。その安堵感で、キュッリッキは更に涙を流し続けていた。
「オレを助けてくれたとき、リッキーさんの背に翼があって、本当に驚きました。ヴァルトさんやヴィヒトリさんを見てるとあまり感じないですが、アイオン族は本当に、その、居丈高で態度が悪いって印象が強くって。だから、まさかリッキーさんがアイオン族だったというのは心底驚いたんです。素直で可愛いのに、本当に!?って」
キュッリッキはメルヴィンに抱きしめられながら、しどろもどろに焦ってしまった。自分ではよく判らないが、そんなにもアイオン族だと気づかれないものなのだろうか。
「今にして思えば、とても軽すぎたし、アイオン族はやたらと軽いっていうのを思い出しました。だからオレが驚いていたのはそのことで、片方の翼だけというのは、あまり視界に入ってなかったんです……」
「えっ」
驚いたことは確かだ。しかしメルヴィンが一番驚いたのは、何故そうまでして自分を助けようとしてくれていたのかだ。そしてその疑問はもう解決した。
こんな自分に、恋をしてくれていたからだと。
初めての恋を、自分に向けてくれていた。それは、こそばゆいくらい嬉しいことだった。
手はお互いの身体に触れたまま離れると、メルヴィンは心底面目なさそうな表情を浮かべていた。
勘違いして落ち込んでいたのかと、キュッリッキは魂の抜けたような顔をしてしまっていた。そんなキュッリッキに、メルヴィンは小さく笑いかける。
「オレはヴィプネン族なので、翼のあるなしがどれほど重いことなのかは判りません。でも、片腕がなかったら、片足がなかったら、そう考えると察することはできます。そして、一緒にそのことを乗り越えたいと思います。リッキーさんが片翼でも、そのことで嫌ったりすることは、けっしてありません」
キュッリッキはメルヴィンの顔を見つめながら、ぽつりと言う。
「……本当に?」
「はい」
「みっともないからって、お父さんやお母さんがしたように、捨てたりしない? アイオン族のみんながしたように、忌み嫌ったりしない?」
「絶対にしません」
「アタシのこと……、好きになってくれる?」
「もう、とっくに大好きになっています」
「本当に……?」
メルヴィンは穏やかに、そして優しく微笑むと、
「はい、あなたを愛しています」
そう言って、キュッリッキを再び抱き寄せ、無防備な唇に、そっと自らの唇を重ねた。