メルヴィンはジッと鏡の中を覗き込む。
普段身だしなみのチェック以外、それほど熱心に鏡を覗くことはない。しかし今日は丹念に自分の顔をチェックしていた。
エルアーラ遺跡でベルトルドに殴られたときに腫れた頬は、今ではすっかりひいて元通りになっている。その時切った口の端の怪我も治っていた。
両頬を掌でパンパンッと叩いて気合を入れると、洗面所を出て玄関へ向かう。ちょうどギャリーが、パンツ姿で眠そうに歩いてきた。
「おはようございます、ギャリーさん」
「ん、おはー。どっか行くのか?」
「ええ、ハーメンリンナまで」
一瞬考えこむ風をしたギャリーだが、やがてウンウン頷いた。
「キューリ迎えに行くんだな」
「はい」
メルヴィンは真顔で首を縦に振った。
エルアーラ遺跡の一件から、もう2週間も経っている。
キュッリッキの想いを受け止める覚悟、彼女の翼やその背景を理解し、それも全て受け止める覚悟。そして自分の心をよく見つめ、彼女を愛していることを認めた。キュッリッキが自分の想いを受け入れてくれるまで、何度でも何度でも告白を繰り返す。そう、決意した。
気持ちがそう固まるまで、2週間という時間が必要だった。しばらくは自分の鈍さに落ち込んでいたが、キュッリッキのことを思うようになると、心は決まっていった。
メルヴィンの顔に迷いが一切ナイことを見て、ギャリーは満足そうに頷く。
「行ってこい。そしてキューリ連れて、帰って来い」
「はい」
ギャリーのエールに笑顔でこたえ、メルヴィンはアジトを出た。
「おめーよ、パンツに手を突っ込んで股間をボリボリ掻くなや」
歯ブラシを口に突っ込んだまま、ザカリーが階段をおりてくる。
「布越しに掻くのキライなんだよ」
「オッサンだな」
「うっせ」
2人はそのまま一緒に洗面所へ向かう。
「メルヴィンのやつ、やっと迎えに行ったのか」
「ああ」
「そっか。キューリ、喜ぶだろうな~」
「うまくいきゃイイんだけどな」
ギャリーが洗面所のドアノブに手をかけようとすると、ザカリーが慌ててギャリーの手をどかしてドアを開ける。
「股間触ったキタねぇ手で触るな」
「ケッ」
「で、なんだよ、うまくいかねえってか?」
「あのオッサンどもが、そう易易キューリに会わせるとは思わなくてよ。妨害の障壁のひとつやふたつあっても、おかしくねえ」
「…まあ、そんな悪意に臆してるくらいなら、キューリを連れ帰るのはハナっから無理だろ」
「そうだな」
「あああ、股間掻いた手で歯磨き粉チューブに触るんじゃねえよっ!」
「おめーの鼻の穴に指つっこんだろか」
「何をぎゃーすか騒いでいるんですかーもー!」
洗面所の騒ぎを聞きつけ、シビルがすっ飛んできた。
「よっ、シビル~」
ニヤニヤと笑いながら、ギャリーがシビルの顔を撫でまくった。
「シビル、すぐ顔洗っとけ。股間を掻きまくった手だからよ」
ザカリーが歯を磨きながら指摘する。
「ひいいいっ! 汚いっ!!」
尻尾を逆立てて仰天すると、シビルは洗面台に飛びついた。
* * *
アジトのあるエルダー街から、ハーメンリンナのベルトルド邸までの長い距離を、メルヴィンは色々なことを思い出していた。
初めてライオン傭兵団にやってきたキュッリッキの様子、ナルバ山での出来事、フェルトの町まで短い旅をしたことなど。元気で屈託のない笑顔が、沢山心に焼きついていた。それなのに寸分も自分の気持ちに気付かなかったのが、どうしようもなく鈍いと改めて自覚する。
なんだかキュッリッキに申し訳ない気持ちでいっぱいになり、メルヴィンは頭を軽く振った。
ここまできて、もう凹んでいる場合ではない。
キュッリッキの想いも悩みも全て受け止め、ともに歩んでいく。そう、意思表示をするのだ。
リニアに乗って目的区画まで移動し、地下通路を歩いてベルトルド邸のある地上通路に出る。ゴンドラは所有者しか出せず、招きのない者は地下通路を行く決まりだった。
装飾された大きな鉄の門を開けて敷地に入る。門から玄関までは、さほど離れていない。
地方にある貴族たちのカントリーハウスなどは、門から玄関までがとにかく遠く離れている。ここはハーメンリンナの中なので、それほど遠く設置されていなかった。概ね建物以外の敷地は、中庭が大きくスペースをとっている設計が多い。
玄関前に立ち、獅子が輪を咥えているデザインのドアノッカーを数回叩く。あまり待たず鍵を開ける音がして、リトヴァが顔を見せた。
「これはメルヴィン様」
「こんにちは、リトヴァさん」
メルヴィンはにっこりと微笑んで会釈する。リトヴァもつられたように笑顔で会釈した。
「どうなさいましたか?」
「リッキーさんはいますか? 会わせて欲しいんです」
しかしリトヴァは複雑そうな表情で少し俯き、そして首を横に振った。
「申し訳ございません……。お嬢様はどなたにも、お会いになりません」
「……具合でも悪いんですか?」
「いえ、お元気でいらっしゃいますよ。ですが、その……」
言いにくそうに口ごもるリトヴァを見て、メルヴィンには薄々察しが付いていた。
おそらくベルトルドなどに、面会を断るように命じられているのだろう。そうでなければ、
(やはり、こうきたか…)
メルヴィンは小さく息をつくと、苦笑を浮かべた。
「出直してきます。リッキーさんに、オレが来たことを伝えておいてください」
「はい、申し訳ございません」
丁寧に何度も謝られ、メルヴィンはねぎらいの言葉をかけて、ベルトルド邸をあとにした。
* * *
「あれ? メルヴィン一人なの?」
アジトに戻ってきたメルヴィンを、ランドンが出迎えてくれた。
「はい……。また明日、出直してきます」
苦笑を浮かべるメルヴィンを見て、「そっかあ」とランドンは残念そうに呟いた。
昼食前だったので、食堂にみな首を揃えていた。
「キューリいっしょじゃねーのか?」
ヴァルトがふんぞり返って言うと、メルヴィンは小さく頷いた。
「あらあら、キューリちゃん帰ってこなかったの?」
キリ夫人が大鍋を乗せたワゴンを押して食堂へ入ってくる。
「キューリちゃんが帰ってくるっていうから、沢山ご馳走作ったのよ。残念だわ」
ほかの料理を乗せたワゴンを押してあとからきたキリ氏も、とても残念そうにため息をついていた。
「すみません。面会謝絶だったので」
「ンなもん、ドア蹴破って入って連れて帰ってくればいいだけじゃねえか!」
テーブルに料理の皿を並べる手伝いをしながら、ヴァルトが鼻息荒く言った。
「そーはいってもぉ、そんな無茶したら、メルヴィンが逆にぃ~叩き出されるだけだってばぁ」
マリオンが呆れながら言うと、ルーファスも頷いた。
「あんまり事を荒立てると、本当に会えなくなりそう。こうなったら地道に通うしかないね」
食堂のあちこちから頷きがあった。
妨害されることなど、端っから折り込み済みである。
「インケンエロおやじどもめ!」
大きなパンにあらゆる具材を挟み込んで、ヴァルトはガブッとかぶりついた。それを見て、みな食事を開始した。
席に着いたメルヴィンを、カーティスが気遣わしげに見やる。
「気持ちを切り替えて、明日に備えましょう」
「ええ、そうですね」
メルヴィンが訪れたことも、おそらくキュッリッキにはしらされないだろう。リトヴァの様子を見ればそのくらい判る。
強引に
ルーファスが言うように、ことを荒立てることは賢明ではない。根気強く正面から会いに行くしかないのだ。
そしてメルヴィンには、密かに期待していることがある。
キュッリッキが自ら、
心に大きな傷を抱えた彼女が、自分の意思でアジトに戻ってくるかどうかは難しい。たとえベルトルドやアルカネットが妨げにならなくても、出てくる勇気を持てるだろうか。
どれだけの大きな傷を心に抱えているのか、どれほどの重い過去を背負っているのか判らない。
しかし、メルヴィンは信じてやりたいと思っている。全てを乗り越えて、前に進もうとする勇気が持てることを。みんなのもとへ、そして、自分のもとへ帰ってくると。
そのためにも、通わなくてはならない。想いが少しでも届くように。
(もう一人で抱え込まなくてもいい、一緒に前に進もう。――愛しているから)
メルヴィンの戦いは、始まったばかりだ。
* * *
リトヴァはこのところ毎日一回は、必ず重いため息をついた。つかずにはいられない出来事が、ほぼ決まった時間に訪れるからだ。
本来、来客などの応対は執事が行う。現在の執事は代理の肩書きを持つセヴェリだが、ある特定の人物にのみ、例外としてリトヴァが応対するよう命じられている。
「リッキーさんに、会わせてもらえませんか?」
彼は毎日やってきて、そう頼んでくる。しかし、この頼みを受けることができない。
「いいか、ライオンの連中、とくにメルヴィンがきても、絶対にリッキーに会わせるな」
こうベルトルドとアルカネットから、重々厳命されているからだ。
こんな胸の悪くなるような命令は、無視したいのがリトヴァの本音である。
キュッリッキの世話を特別に任されているリトヴァは、日々キュッリッキが「メルヴィンに会いたい」と言っているのを聞いている。そのメルヴィンがキュッリッキに会うために、毎日訪れているというのに、それを耳に入れることさえ禁じられていた。
モナルダ大陸で行われた戦争に、キュッリッキも連れて行かれていたのだが、急にアルカネットに連れられて
詳細は知らされていないものの、キュッリッキが何か重いものを抱えて悩んでいることだけは判る。
悩み苦しみつつも、ずっとメルヴィンを恋しく思っている様子のキュッリッキに、知らせてやりたくてしょうがない。
かつて怪我で臥せっていたキュッリッキのそばに、献身的に付き添っていたメルヴィン。そんな2人の様子は微笑ましく、心に温かかった。それなのに、何故こうも思い合う2人を妨げる役を、押し付けられなければならないのだろうか。
「言ってやりとうございますよ…」
リトヴァの鬱憤は、日に日に蓄積されていった。
* * *
ハーメンリンナから戻ってくると、アジトの前に品の良い馬車が停まっていた。
「来客かな?」
メルヴィンは小さく首をかしげながら、玄関のドアを開けた。
「ああ、帰りましたよ」
簾のように垂れ下がる前髪の奥に、ホッとしたような表情を浮かべるカーティスが振り向いた。
「あ…、グンヒルドさん?」
立ち上がった女性に、メルヴィンは驚きの表情を浮かべた。
「ご無沙汰しております、メルヴィンさん」
キュッリッキの家庭教師をつとめるグンヒルドが、柔らかい笑みを浮かべた。
「どうしたんですか? こんな、ハーメンリンナの外になんて」
「あなたとお話がしたくて、押しかけましたのよ」
ホホホ、と軽やかな笑い声を上げ、グンヒルドはいっそう笑みを深める。
「メルヴィン、このようなところで立ち話もなんですから、応接間のほうへ」
「あ、はい」
カーティスに促され、メルヴィンはグンヒルドを伴って、応接間に向かった。
アジトにも、狭いながら応接間がある。あまり高い家具ではないが、ルーファスのインテリアコーディネートで、落ち着いた品のいい部屋になっていた。
ちなみに、最初はカーティスがやったのだが、成金趣味が酷すぎて、全員から却下されている。
グンヒルドに椅子をすすめながら、メルヴィンは向かい側の椅子に座る。
マーゴットが紅茶のカップを運んできて2人の前に置くと、すぐ部屋を出て行った。
「オレに話っていうのは…?」
どこか困ったように言うメルヴィンをチラリと見て、グンヒルドは紅茶のカップを手に取る。
くゆる湯気を嗅いで、グンヒルドは満足そうに微笑んだ。
「現在わたくし、ベルトルド邸の出入りを禁止されておりますの」
「え?」
「キュッリッキさんのお勉強の再開は不明、ご本人に会うことも禁止、詳細は教えていただけず、困ってますのよ。お給料はちゃんと頂いているのですけれど」
紅茶を一口飲んで、グンヒルドは肩をすくめた。
「ですが、リトヴァさんから、メルヴィンさんにお訊ねになれば、なにか判るかもしれませんと伺いました」
「オレですか?」
メルヴィンは固まったまま、グンヒルドの顔を見つめる。
「副宰相閣下からハブられた者同士ですわね。詳しいことを、お話下さいませ。何かお力になれることが、あるかもしれませんから」
どこか、否と言わせない迫力を、その笑みの奥深くから感じ、メルヴィンは素直に首を縦に振った。