高級住宅街の中でもひときわ目を引く白亜の城、
令嬢の部屋から続く洋風の広いバルコニーは、静寂に包まれていた。令嬢の危機に駆けつけた彼女の祖父と執事も、時が止まったかのように微動だにしない。
シルクのガウンを纏った祖父・
執事の方は、灰色の髪を綺麗に撫でつけた紳士である。
対峙する者たちの間を、一月の冷たい風が吹き過ぎた。
(トイレって)
ふつふつと怒りが込み上げる。鮮やかに奪ってくれるんじゃなかったのか。それに……。
(何なんだ、その内股は!)
ヒカリは、怒りにまかせて泥棒の
───
(カッコわりぃ──!)
ラグジュアリー感あふれるレストルーム。ピカピカに磨き上げられた最新家電のような便座に腰を落とし、頭を抱えるカゲである。
何かのセンサーに反応したのか、小さなスピーカーからヒーリングミュージックが流れ始めた。落ち着かない。トイレのくせに広すぎるのだ。
(あのガキ、腕を思い切りつかみやがって! あれがなければ、とっくに逃げてた!)
ヤケになって金を脅し取ろうとしたら、「トイレを貸せ」と口走ってしまった。助かったけど。
(だったら初めから、トイレを借りにきたフツーの人っぽくしとけば良かった!)
ともかく脱出だ。カゲは上を向いた。伸び上がって、天井裏に続く四角い蓋をパカッと開き……静かに閉じる。先ほどの執事が無表情に待ち受けていたのである。
(くっそ、万能か)
耳をすますと、レストルームの外にも人声がしている。
「すまんかった、
「何で? R警備保障の会長さんとは旧知の仲でしょ?」
「あいつムカつくもん」
「またケンカ、おじいちゃん?」
ジジイ同士のケンカはともかく、外にいるにはガキと年寄りだけ。なんとか突破できそうだ。カゲはニヤリと笑うと、レストルームの扉を細く開けた。
突然、首根っこをつかまれた。いつの間にか執事が戻って来たのである。
(万能か!)
この細っそりとした初老の紳士のどこに、そんな力が潜んでいるのか。そのまま書庫のような部屋へ引きずられて行った。
(こんなのを運命の人だと思っていたの……?)
現実に直面するヒカリお嬢様である。真っ黒なパーカーのフードから現れた顔は──。
歳がいっているようでもあり、意外と若そうでもある。細面でキリリとした目元は、一般的に見てそう悪くはない。パッと見はヒカリ好みの
しかし、あの「内股でトイレを我慢する姿」は脳裏から離れない。一度地に堕ちたイメージは、二度と回復することはないのだ。
そして、襟足のあたりまで不揃いに伸びた茶色がかった髪。清潔感がないのも大幅にポイント減である。
「通称カゲ。少々名の通ったコソドロですな」
二階の書庫。執事・橋倉が落ち着いた声を発する。ヒカリは、祖父の胡桃沢春平とともに無言で彼を見下ろした。
「何で知ってる? 万能か」
カゲの問いに反応する者はない。万能執事・橋倉に知らないことはないのだ。ヒカリは、カゲに対する興味が急激に失せた。
「……くしゅっ」
書庫の埃っぽさのせいか、鼻がムズつく。
「お、お嬢様がくしゃみをされたぞ!」
橋倉が青い顔で叫ぶと、メイドがカシミヤのストールを持って走って来た。春平が大事そうにヒカリの肩を抱く。
「大変だ。ヒカリ、明日は学校を休みなさい」
「んー、そうね」
ヒカリはちょっと鼻を
───
カゲは呆気に取られた。
(まあいいや、今のうちに逃げ……)
橋倉に首根っこをつかまれる。気づかれてた。万能か。結局、さっきと同じ場所に座らされる。
料理人ぽい服装の太った男が駆けつけた。橋倉が指示を出す。
「料理長! お嬢様が風邪を引かれた。玉子酒を」
「なんと! すぐにご用意いたします!」
「んー、ココアがいいわ」
「それがいいでしょう! ココアだ!」
「はっ! ただ今!」
カゲは逃げるのも忘れてポカンとした。何だろう、こいつらは──。
ヒカリが何かを思い出したように「あッ」と頬を押さえる。
「学校に本を置いてきちゃったわ……残念」
「なんと! 可哀想に、我が孫よ」
ジジイが涙ぐんだ。
(……茶番か)
いい加減、気持ちが悪くなってくる。カゲは、ボリボリと首筋を掻いた。
「あッ! 諦めなくてもいいじゃない、あの本!」
ヒカリがポンと手を打って振り向いた。彼女の動きに合わせて、大人たちは右往左往している。
「ねえ、泥棒さん。取ってきてちょうだい。私の本」