(ああっ……ヤバい!)
先刻から切羽詰まっているこの男。お察しの通り、泥棒である。
彼は今、トイレを探している。でも見つからないのだ。
彼は考えた。いい大人が粗相するくらいなら、その辺で用を足してしまおうかと。褒められた行為ではないが致し方ない。緊急事態だ。……お食事中の方、大変申し訳ない。しかし。
(くっ、駄目だ! 腹の具合まで悪くなってきやがった!)
どこまでもツイていない男である。
(生き地獄だ!!)
腹の中で腸がのたうち回っている。
通称「カゲ」。それが彼だ。それ以外は全て謎──。泥棒の素性が簡単に割れてしまっては困るのである。
カゲは、泥棒界では少々名が通っている。
同業者たちは口を揃えて言う。自分と組んでくれないか、見張りだけでもいい、分け前ははずむと。それくらい、泥棒界では逃走ルートの確保が重要なのである。
しかし、カゲは仲間と組んで「仕事」することはない。誘いを受けるたび、カゲは腹の中で叫んでいる。おまえらは何も分かっちゃいない! と。
実はカゲの「勘」が発動する時、身体にはある苦痛を伴っている。それは──。
(仕事前に、ちゃんとトイレ行ってるのに!)
この男、危険を察知するとトイレに行きたくなるのだ。強烈に。
彼は逃げ足が速い訳でもないし、的確な逃走ルートを見出せる訳でもない。トイレを探して
明らかに泥棒稼業は向いてない。しかし彼がトイレを欲する時、危機が迫っているのもまた事実。確率は百発百中だ。
(あれ? なんか楽になってきたぞ)
確かめるように腹をさすりながら、近くの壁にもたれる。そこでハッとした。いつの間にか、高級住宅街に入り込んでしまったらしい。カゲがもたれかかっているのは、その中でも群を抜いて立派な白亜の豪邸の外壁である。
腹の中が落ち着いてきたところで、彼は考えた。この辺りは金持ちの屋敷ばかり。先ほど獲物を諦めた代わりに、ここらで一仕事して行きたいところだ。何故か尿意も遠のいている。ということは、ここに危機は迫っていないということ──。
(いや、待て)
こういう屋敷は監視カメラも多いし警備も厳重だ。計画なしに盗みに入るのは無謀……。
「おいおい、嘘だろ?」
思わず声が漏れる。注意深く一回りしてみて驚いた。眼前にそびえる白亜の豪邸、警備システムが解除されている。警備会社の不手際か?
(どっちにしてもツイてる!)
今は何かにつけてキャッシュレスだ。手っ取り早く現金を手にしたい泥棒にとっては厳しい時代──。とはいえ、現金もあるところにはあるものだ。それに、こういう屋敷なら高く売れそうな宝飾品も一つや二つじゃないだろう。
カゲはほくそ笑んだ。黒いパーカーのフードを深くかぶり直すと、すぐさま行動に移る。
───
(あーあ。今夜も私を奪いに来る人はいないのね)
まだバルコニーで寒風に吹かれていたヒカリは小さくため息をつく。……と。眼下に広がる庭を、何かが横切ったような気がした。
気のせいか? いや、違う。暗い庭に目を凝らしていると、また何かがシュッと動いた。
(もしかして泥棒さん?)
バルコニーの柵に手を掛ける。本当に自分を拐いに来たのだろうか。ヒカリの胸は高鳴った。
しかし、この屋敷には無数の警備システムが張り巡らされているはず。ここに辿り着くまでには、
(そこまでして私を)
胸が熱い。愛しさが込み上げてくる。ヒカリの目には、うっすらと涙が滲んだ。
(待って! 一度鏡をチェックしなきゃ!)
記念すべき出会いの瞬間だ。身だしなみを整えておかなくては! ヒカリは
(待っててね、泥棒さん!)
ロココ調のドレッサーのライトをつけて、髪型をサッと整える。
「……よし!」
ヒカリは慌ただしく引き返す。大きな両開きの窓から裸足でバルコニーへ飛び出すと。
柵の外側から、男がぬっと姿を表した。互いの顔がぶつかるかというほど近くに。
───
(は!? 何だ、この女!?)
至近距離に、何故か女の顔がある。
家人に見つかった……。バルコニーに人の気配はなかったはず。電気の消えている部屋を狙ってきたのに──。
「泥……棒……さん?」
不意に、女がかすれた声を上げた。目が潤んでいる。
(よく見りゃガキじゃねえか。恐怖で動けないのか?)
だったら、相手が固まっている隙に少しでも遠くへ逃げるに限る。カゲは素早く行動に移ろうとした。しかし、その時──。
「はぅっ!」
再び強烈な尿意が襲う。
(な、何で今……!)
───
目の前で、愛しい人が身をよじっている。一体何をしているのだろう。
(も、もしかして! 私のあまりの美しさに悶えているの?)
ヒカリは、嬉しさと恥ずかしさで熱くなった頬に手を当てる。待ち焦がれた泥棒は、黒いパーカーに黒の革手袋。深く被ったフードで目元は見えない。
(とっても悪そうだわ! 危険な香りがする……!)
パーカーのフードからは、スッとシャープな輪郭が見えている。苦悶に歪む口元が妙に
速くなる鼓動と、胸を締め付けられるような感覚。
(これが……これが恋なの!?)
もう、ときめきを止められないヒカリお嬢様である。
(ああ──。早くそのフードを脱いで顔を見せて!)
そして、私を連れ去ってほしい。ヒカリは胸の前で手を組み、潤んだ瞳で泥棒を見つめた。
「お嬢様、いかがなさいました? 物音がしたようですが」
「ヒカリ? 大丈夫か」
ノックと同時に、部屋の外から声がした。執事と祖父だ。
早く──。ヒカリは泥棒の腕にすがりつく。
耳元で微かに発せられる舌打ちの音。彼が柵を乗り越えてくると同時に、強い力で引き寄せられた。
(ああっ、なんて強引なの!? すごいドラマチック……!)
「失礼します」
執事がドアを開け、電灯のスイッチを押す。
(……ん?)
首元に違和感を感じるヒカリ。見間違いでなければ、これは小型ナイフ。泥棒が、想像とかけ離れたドスのきいた声を上げた。
「おい! こいつが見えねえのか!」
ヒカリにナイフを突きつけて、泥棒が
「屋敷を汚されたくなければ、トイレ貸しな!!」