「ただいま」と言って入室した柏木は、ただちに俺の異変に気付いた。彼女はこちらへ近寄り、手遅れの虫歯を見つけた歯科助手みたいな目つきで俺の顔をまじまじと見てきた。
「どうしたの悠介、ぽかんとしちゃって」
「まぁ、ちょっと」
まともな言葉を喋れるようになるには、時間がかかりそうだった。頭では太陽の言葉が何度も繰り返されている。
「少女Aは最近、おまえ以外の男と密かに会ってるみたいだぞ、頻繁に」
俺はおそるおそる少女Aを――高瀬を――見る。
彼女の顔にとりたてていつもと違った様子は確認できない。1メートル先にいるのは、俺のよく知る高瀬優里だ。
「私の顔、どこか変?」と彼女は言った。
「いや」と俺は言った。そして目を逸らした。男と密かに会ってる?
「まぁまぁお嬢さん方。いつまでも立ってないで席について」太陽が気を利かせてくれる。「で、本日のおやつはいったいなんだい?」
「アイス」柏木が代表して答え自分の席に座った。横目では俺をうかがっている。「まだ4月だっていうのに、なんだか今日は暑いから」
高瀬と月島も着席しパッケージを開封した。三人が買ってきたのは同じ商品だった。もなかタイプのバニラアイスだ。
「晴香が買ってるのを見たら欲しくなっちゃって」高瀬は苦笑した。
「高瀬さんが買ってるのを見たら欲しくなっちゃった」月島は微笑した。
「いいなぁ。誰かお
太陽のおねだりが聞き入れられたためしはないが、この日の彼は粘り強かった。一番近い席の柏木に対して手を合わせる。
「一口でいいから、プリーズ」
柏木はこれ見よがしにもなかを頬張った。
「なんで庶民の娘が大病院の坊ちゃんに
「だ、か、ら、オレが自由に使える金はほとんどないの。アイスなんて高級品、買えないの!」
「そうだったねぇ。この街きってのプリンスが金欠王子に落ちぶれたのには、ちゃんとした理由があるんだったねぇ」
「柏木、おまえな、つらい過去を思い出させんな、悲しくなるから!」
そう嘆くと太陽は、俺の背後にある棚をちらりと見やった。そこには実に四つの冒険の証が並んでいるわけだが、視線の先にあるのは、疑いの余地なく自らの涙が染みたロケットペンダントだろう。
今でも羽田星菜の記憶は、太陽を苦しめていたりするのだろうか?
「それはそうと、あれ、何度見てもムカツク」と仏頂面で指を突き出したのは柏木だ。「あたしが記憶喪失になっているあいだ、ずいぶん仲が良かったみたいじゃない。優里、悠介」
柏木を憤らせているのは、冬の冒険の証である漫画家・吉崎アゲハのサイン色紙に他ならない。
色紙には、和気あいあいと語らう俺と高瀬の姿が描かれているのだから、当人からすれば、鍋敷きにでもしたいくらいなのではないか。
「まぁまぁ」と高瀬が隣の怒れる女をなだめた。「こっちもこっちでけっこう大変だったんだから。ちょっとは大目に見てよ」
「そうだよ」自然に口が動いた。やっと、まとまった言葉が出てくる。「あの冬はいろいろあったけど、みんなこうして無事に二年生に進級できたってことで、御の字じゃないか」
語調と顔つきで、俺たちの富山行きを高瀬は止めなかったんだぞ、と暗にほのめかした。それでフィフティフィフティだろう、と。
「しょうがないなぁ、許してやるか」一転柏木はほがらかに笑った。そしてばつが悪そうに鼻をかいた。「ま、冬はみんなに迷惑かけまくりだったっていうのもあるしね。そうそう偉そうなことは言えないか。骨折が完治して、記憶が戻ったのも、四人のおかげです。よし、ここは、春の大感謝祭といこう」
柏木は残っていたアイスを三等分して、俺と太陽に一切れずつ差し出した。
もちろん太陽は喜んでそれを受け取った。俺もできることなら祝祭の輪に参加したかったところだけど、口の中に胃酸のつんとした匂いがまだ残っていたので、なくなく首を横に振った。
「すまん柏木。気持ちだけ、受け取っておく」
「え、なんで?」
「えっと」言い淀む。でも言うしかない。「実はついさっき、
「また?」柏木は顔をしかめる。「今日だけでもう、三回目じゃない」
「ごめん、神沢君」高瀬は食べかけのアイスを慌ててパッケージの中に戻した。「配慮が足りなかったね」
月島はアイスを見ているようで俺をじっと見ていた。
雰囲気がぎすぎすし始めていた。それを肌で感じた俺は「大丈夫だ」と言った。「みんな、いつも通り振る舞ってくれてかまわないから。変に気を
そうは言ったものの、ひとたび
「そろそろ限界だ」と切実な声でつぶやいたのは太陽だ。彼はそれから俺以外の三人に「みんなもそうだよな?」と同意を求めた。
ようやくこの時が来たか、という風に彼女たちはそろって深くうなずいた。
「なぁ悠介。いい加減に白状しろ。そいつはただの胃の不調なんかじゃないよな?」
俺は四人に本当のことを話していなかった。どうせこんな症状は一過性のものだろうと高をくくっていたのもあるし、なんといっても発作の正体をみんなに知られるのがたまらなく恥ずかしかったのだ。
「どう考えてもおかしいだろ」と太陽は続けた。「この一ヶ月でげっそり痩せたのに気がつかないほど、オレたちの目は節穴じゃねぇぞ。悠介、おまえさんの身にいったい何が起きてんだ? また一人で抱え込もうとしてるんじゃないのか?」
「隠し事は嫌いだ」
そんな聞き覚えのある台詞が月島から出たと思ったら、次に柏木がこう言ってきたから、俺は逃げ道を完全に失った。
「悠介の問題は、悠介だけの問題じゃないんだよ」
俺は胸に
「わかったよ。事の発端は、3月3日の富山である光景を目撃したことだ――」