俺が筋道立ててすべてを語っているあいだ、四人の中でもっとも沈痛な面持ちをしていたのは、旅の同行者である柏木だった。話を中断して一声かけようかと思ったくらいだ。彼女のことだから、何かしら責任のようなものを感じてしまったのかもしれない。
「――というわけなんだ」と俺は言った。「唐突に双子のそばで笑う母親の姿がフラッシュバックし、それを拒むように嘔吐する。その繰り返しさ。まったく、これじゃあまるで母親の愛情に飢えているみたいじゃないか。自分が情けなくなる」
すぐには誰も喋らなかった。いや、喋れなかった、という方が正しいかもしれない。二分ほど経ってからようやく、高瀬が口を開いた。
「なんとかして、吐いちゃうのを防げないのかな?」
俺は首を傾げた。
「いろいろ試してはみたんだけどな。でもだめなんだ。万策尽きて、なすがままの状態だ」
「そりゃ食欲なんかなくなっちゃうよな」と月島がつぶやいた。
「食べる前からどうせ吐くってわかっているわけだからな」と俺は返した。
「なんだってこうも、厄介なことばかり起こるかね」と太陽がつぶやいた。
「同感だ」と俺は返した。同感だ。
この会話の流れに乗って一度は何かを言いかけた柏木だったが、俺と目が合うとぎこちない咳払いをして、黙り込んでしまった。
それでも、彼女の喉にぶら下がっている台詞はだいたい予想できた。
「あたしのせいだ」とか「富山に行かなきゃよかった」とかだ。いずれにせよ、あまり生産的なコメントとはいえない。空気を今以上重くするだけだ。そして彼女もそれがわかっている。だから発言することができない。
早く誰かがこの話を締めくくってくれないかなと期待をかけたが、誰の口も結ばれたままなので、結局俺がその役を担うしかなかった。
「ほらほら」二度手を叩き、皆の注目を引く。
「まぁ、多少痩せはしたけれど、まさか命まで取られるわけじゃないし、そんな深刻に考えないでくれ。俺は現にこうして一日も休まず学校に通えているし、夜は居酒屋のバイトにだって行っている。そういう意味では、インフルエンザにかかったりするよりよっぽどマシさ。今まで通りだ。何も変わらない。元気元気。誰かの未来が危うくなったら、これまでと同じようにいつだって駆けつけてやるぞ。季節も変わったことだし、そろそろまた誰かの元に面倒な問題が転がり込んでくるんじゃないか? その時は仲間はずれにするなよ」
意識と舌がうまく連動していなかった。要する俺は、虚勢を張っていた。
高瀬はそれを見抜いていた。
柏木もそれを見抜いていた。
月島ももちろんそれを見抜いていた。
太陽は軽く舌打ちした。
みんなの懐疑的な視線が痛かった。たまらず俺は立ち上がって窓辺へ行き、そこから春の街を眺めた。日陰の雪も完全に溶けきり、若い緑が芽吹きはじめていた。街は春の暖かな光を余すことなく享受していた。
最高の春だ、と俺は思った。
わけのわからない発作に一日何度も襲われ、将来の自分の姿はいまだにちっともイメージできず、こともあろうに高瀬には他の男の影がちらつく。素晴らしい。最高だ。
落ち着こう。美しい空を見よう。こんな時はいっそ未来のことを考えよう。
「大学卒業後のその先を考えなさい」とカンナ先生は言った。大学を終着点にしてはいけない、と。たしかにその通りだ。大学大学と能天気に言っていればそれだけで前に進めた季節はすでに終わった。
これからは10年後20年後の自分を考えなきゃいけない。
具体的な未来。俺が選ぶべき未来。実現可能性のある未来。
俺はいったい将来何になるのだろう?
そもそも俺は大学に進学するべきなのだろうか?
高校を停学や退学になるリスクを背負ってまで進学費用を稼いでいるものの、現状のままでは、たとえ四年制大学に合格できたとしても最初の一年しか籍を置けないのだ。
それも国立の文系学部という限定付きだ。どうにかして大金を獲得しないかぎり、俺は大学中退という刃の折れた剣だけを手に社会という戦場に放り出されることになる。
××大学××学部中退。
そんな生半可な肩書きを履歴書に書くためだけに俺は多くの時間と労力を費やしているのか。考えてみればこれほど割に合わない努力もそうはないな、と俺は心で自嘲した。
閑話休題。
「就きたい職業によっては、無理をして大学に行く必要はなくなるかもしれない」ともカンナ先生は言っていた。ごもっとも。我々生徒は、なにも母校の進学実績の見映えのために生きているわけではない。
大学に行かなくても就ける職業は世の中にいくらでもある。
たとえば市役所職員。
高卒でもよほどの贅沢さえしなければ、食いっぱぐれることはないはずだ。
たとえば調理師。
中学以来続く長い自炊経験は、俺に料理の楽しさを植え付けていた。
実現可能性のある二通りの未来を思い浮かべてみたところで、口の奥から胃酸の不敵な匂いが漂ってきて、俺を萎えさせた。
今のままではどちらも俺が就くべき職業ではないようだ。
誰が好んで納税相談の途中に嘔吐する職員がいる役所に行くだろう?
誰が好んで調理中に嘔吐するシェフがいるレストランに行くだろう?
少なくとも俺なら行かない。よって、却下。
たとえば消防士。
何を馬鹿なことを。父は放火犯なのだ。よって、却下。
早くも手詰まりのようだった。
なんだか悲しくなってきた。大学のその先。イメージができない。なりたいものがない。結局そこに帰結してしまう。
もう今日は考えるのはやめよう、と俺は思った。このままでは
発作を止める術も見つからなければ、将来の目標も定まらない。一歩も前に進めていない。今俺がすべきなのは考えることではない。動くことなのだ。
ひとつだけはっきりしているのは、高瀬の周辺で
なにはともあれ、まずは高瀬とふたりきりでじっくり話をすることだ。
そこから何かが動き出すような気がする。
――そしてこの予感は、見事に当たることになる。