それからしばらくとりとめのない雑談が続いた後で、話題の主役は退任するカンナ先生になった。
「寂しくなるよな」と太陽は生気の抜けた声を出した。「カンナ先生、もうちょっとで辞めちゃうんだもんなぁ。あーあ、ショックだなぁ」
即座に柏木が応じる。
「まさかあんた、今度は人妻の女教師までターゲットにするつもりだったの?」
「アホか! そういうんじゃねぇよ。オレは、純粋にひとりの教師としてカンナ先生のことが好きだったんだよ!」
太陽は、みんなもそうだろ、と言いたげな顔で続ける。
「なんつーか、厳しさの中にも愛があったよなぁ。オレたちみたいな落ちこぼれにも、分け隔てなく接してくれたしさ」
「まぁね」と柏木も別れを惜しんだ。「勉強ができない奴は人間のクズだ、みたいなことを腹の中では思ってる教師も多い中、あの人は成績下位の生徒にも優しかったよね。……っていうか、誰が落ちこぼれだ! あんたと一緒にすんな、バカ葉山!」
残念ながらカンナ先生の中でも、柏木は落ちこぼれかそれに類する生徒であるに違いない。
「葉山君、カンナ先生の古文だけは居眠りしなかったもんね」と高瀬は言った。
「いと悲し」と太陽は言った。そして力なくテーブルに伏した。いとあはれなり。
「A組の生徒にとっては、担任が変わるわけだから、感傷もひとしおだよな」
俺がそんな風に月島に水を向けると、彼女は珍しく素直にうなずいた。
「カンナ先生、私の
月島の弱み――中学時代の暴行未遂事件に端を発する深刻な男性恐怖症は、もちろん進級したからといって克服できたわけではない。彼女の人知れぬ闘いは17歳になった今も続いている。
「今からでも遅くない!」太陽には妙案が浮かんだらしい。「2年A組の生徒みんなで『辞めないで』って懇願すれば、カンナ先生、考え直すんじゃないか?」
月島はシニカルに人さし指を左右に振った。
「無理だよ。決意は固いもの。なんでも過去に二回も流産してるから、今回は出産に専念したいんだって」
専念と言ったって、誰の目にも妊婦だとわかるほどお腹が大きくなった今でもしっかり仕事をこなしているのだから、カンナ先生の教師魂には敬服するしかない。
太陽は色つきのひやむぎを兄に取られた弟さながらのふて腐れようだった。
「これで、オレが起きているに値する授業はいよいよ何一つなくなったわけだな。もうあれも聞けないのか。えっと、何だっけ『あっぱれあっぱれ』だっけ?」
高瀬が指を一本立てた。「たしか『けっぱれけっぱれ』だよね」
「そうそう。あれ聞くと、不思議と元気が体の底から湧いてきたのにな」
生徒を励ますためのその掛け声が、カンナ先生にとって単なる方言の繰り返しではないことを俺は知っている。おそらく校内で俺一人だけが。
「みんな、実はな」と種明かしを始めたかったところだけど、カンナ先生は相手が俺だからこそ自分の過去を話してくれたのだ。それを易々と口外すべきではないと判断できるくらいのモラルは放火犯の子でも持ち合わせていた。
弘前で名を馳せた不良少女の再生物語は、もうしばらくこの胸にしまっておくことにしよう。
♯ ♯ ♯
トイレで用を足して秘密基地に戻ると、三人娘の姿は消えていた。
「姫様たちは?」と俺はアコースティックギターを弾いている太陽に尋ねた。
「小腹が空いたとかで、三人して購買部に行ったぞ。最近あいつら、いっつも何か食ってんな」
「結構結構」と俺は心からつぶやいた。食欲が盛んなのは、健康な証だ。
「そういえば」と太陽は言って、ギターを台座に立て掛けた。「悠介に話しておかなきゃいけないことがあったんだ。話せるのは、今しかない」
「あの娘たちの耳には入れられないことなのか?」
「まぁな」太陽は部屋の扉を目の端で見てから、こう続けた。「さて悠介。おまえさんにとって悪いニュースと超悪いニュースがある。どっちから聞きたい?」
「普通さ、それを言うなら良いニュースと悪いニュースがある、だろ」
「仕方ねぇだろ。悪いニュースしかないんだから」
「一応確認しておくけど、どっちも俺に関係のあるニュースなんだよな?」
「あいにく」
「はぁ」と俺はため息をついた。
「聞きたくないって言うんなら、無理
「聞くよ。聞かずに帰ったら、気になって夜眠れなくなる」
嘔吐へいたる発作だけにとどまらず、このうえ不眠まで発症してしまったら、俺は死んでしまう。
「悪いニュースから頼む」
太陽はうなずいた。
「実は今、ある噂がクラス内で急速に広まりつつある。それは、悠介と柏木がデキているというものだ」
「柏木と教室でよく話しているからだろうか?」
「それも一因に違いないが、もっと決定的な理由があるんだよ」
「決定的な理由」
「三月にお前たち、二人っきりで富山に行ったよな。それがばれちまってる」
「はぁ? なんでだ?」
言うまでもなくあの旅はこっそり始めこっそり終えたはずだった。学校関係者では高瀬、月島、太陽以外に富山へ
「この街の空港に帰ってきたのは、3月4日だろ?」
「そうだ」と俺は答えた。
「その日、たまたまうちのクラスの女子生徒も空港にいたんだ。単身赴任で横浜へ行く父親を家族一同で見送るために、な」
頭が痛くなってきた。「見られてたのか」
「世間は狭い。慎重を期すなら、サングラスと帽子で変装でもしておくべきだった。悠介、抜かったな」
「馬鹿げてる。ハワイ帰りの芸能人じゃあるまいし」
太陽は右手をマイクに見立てて俺に向けてくる。
「お付き合いされてるんですか? 結婚のご予定は? もしかしてハネムーンだったんですか?」
「殴るぞ」
笑ってから太陽は「目撃者となったその女子生徒
目撃されるのが“行き”ならば、また違った結果になったんだろうと思う。それがよりによって”帰り”とは。あの一夜を経た後とは。
ふたりだけの世界がそこにはあった。なるほど。証言に対する反論の言葉が見つからない。
「噂がたって当然か」
「一番の問題は」と真顔で太陽は言って、俺の肩に手を乗せた。「同じクラスに悠介と同じ未来を誓い合っている女の子――少女Aとしようか――がいるとして、その少女Aはそんな噂が流れる現状をどう感じているか、ということだ。よしんばその噂が真実ではないと知っていてもな」
「おまけに少女Aは、思っていることをあまり表に出すタイプではないと来ている」
肩が軽くなる。「わかってるじゃないか、神沢君」
「太陽、やっぱりこれは聞いておいて正解だった。恩に着る」
「おいおい待て。まだ終わっちゃいねーぞ」
「あ」
”超”のつく方が残っているのを忘れていた。超悪いニュース。
さすがにちょっと心の準備をさせてくれ。そう言おうとした矢先、部屋の外から聞き慣れた黄色い声が耳に飛び込んできた。姫様たちのご帰還だ。
「やべぇ」太陽は声のボリュームを落とす。「くそっ、調子に乗って芸能レポーターの真似なんかするんじゃなかった。手短に言うから、悠介、聞き漏らすな。こっちはもっとおまえが知っておかなきゃいけない情報だ」
「お、おう」
残された時間はほとんど無いにもかかわらず、太陽が言いにくそうに下唇を噛んだのが、事の重大さを何よりも物語っていた。扉の外で足音が止むと同時に、太陽は素早くささやいた。
「少女Aは最近、おまえ以外の男と密かに会ってるみたいだぞ、頻繁に」