第41話 すべて燃え尽きてしまえばいいのに 4


「神沢。いいかげん白状しなさい」

 月島の眼差しには、獲物の擬態ぎたいを見破ろうとする捕食動物のそれに勝るとも劣らない鋭さがある。

「キミ、富山で柏木とんだろ?」


 カンナ先生の精力的な進路指導が終わり、「けっぱれけっぱれ悠介!」の余韻よいんが耳に残るなか、俺は校舎隅にある旧手芸部室に顔を出していた。


 その“秘密基地”には月島がひとりでいた。彼女はなにやらお洒落な洋楽をイヤホンで聴きながら問題集を解いているところだった。しかし入室したのが俺であることを把握すると、ペンを置いてイヤホンを耳から外し、待ってましたと言わんばかりに富山の夜に関する尋問を開始した。


 それが15分前のことだ。


「別にね、やったらやったでかまわないんだ」と彼女は言った。「キミと柏木は男と女なんだから。そんでもって柏木は同性の私がクラッと来る時があるくらい、べらぼうに良い女だ。楊貴妃か何かの生まれ変わりだ。フェロモン・マシーンだ。歩くED治療薬だ。キミはそんな女と寝床を共にしたんだ。キミの理性が崩れ去ったって、これは仕方ない部分もある。嫉妬してるわけじゃないよ。ただね、私は隠し事をされるのがイヤなの。『あの夜のことはふたりきりのヒ・ミ・ツ』っていうのがムカツクの。さぁ神沢。怒らないから、本当のことを話しなさい」


「しつこいよ、月島」俺は心底うんざりしていた。それでも大事なことなので、声を張るべきではあった。「何度言えばわかるんだよ。俺と柏木のあいだには何もなかった。それが本当のことだ。本当の本当に何もなかった」


「富山まで行って、それぞれの親に会って、いろんな想いを共有して、柏木の記憶まで戻って、そして二人で旅館の同じ部屋に泊まって。『疲れたな。明日は朝早いことだし、今夜はもう寝るか、柏木』、『そうだね、悠介。おやすみ』――消灯」そこで先日めでたく17歳の誕生日を迎えたばかりのクールなお姉さんは、柄でもなく吹き出した。ないない、という風に手を振る。「そんなのありえない。お子ちゃまのお泊まり会じゃあるまいし」


「ありえないって言われたって困る」と俺は困って言った。「いいだろう。あの夜、それっぽいムードになったのは認めよう。もしもふたりの会話の順序や呼吸のリズムなんかがひとつでも違っていれば、最後の一線を越えていたかもしれない。でも結局、なんやかんやあって俺たちはその一線を越えることはなかった。それがおまえの求めている真実だ」


 左右の脇には尋常じゃない量の汗が滲み出ているが、堂々としていていいはずだった。八百万神やおよろずのかみに誓って嘘はついていない。勃起もしたし抱き合ったまま眠ったし盛大な夢精もしたけれど、俺は柏木の体のいかなる穴にも自分の一部を入れてはいない。


「何もなかったんだ?」

「なかった」


「揉んだり舐めたり噛んだりも?」

「なかった」


 月島の頬が赤らむ。「キスも?」

「なかった」


「そうですか」と言いつつも月島はまだ合点がいかない様子で片肘をテーブルに突いたので、俺は眉をひそめた。


 そんなに引っ掛かるのなら、柏木にも聞いてみればいいじゃないか。そう提案しようかとも思ったが、やめた。あることないことごちゃ混ぜにして自分の都合の良いように事実を歪曲し、今以上に事態をややこしくするのが柏木晴香という女だ。


「どうしたんだよ、月島らしくないな」と俺は所感を述べた。「おまえは人一倍敏感なんだから、俺と柏木のあいだに何かあったら、真っ先に気付きそうなものだけど」


「みんな、私のことを買いかぶりすぎ。私は、超能力者じゃないの」

「まぁ、そりゃそうか」


 月島は一考してから、俺と柏木の関係を怪しむ理由をこう説明した。

「なにかあったと考える方が自然だろうが。だって柏木、富山から帰ってきてすごく変わったもの。一皮むけた感じがする」


「それは」自然と表情が和らぐ。「月島、それはな、女として成長したんじゃないよ。人間として成長したんだ。柏木は富山でしっかり弱さを克服したんだよ」


「ふーん」と言って月島は脚を組み替えた。そして再び問題集へ意識を転じた。ただ、イヤホンは耳にはめなかった。


 ♯ ♯ ♯


 他の三人が部屋に現れたのは、それから10分後のことだった。


 その時俺はちょうど新鮮な空気を体内に取り込むため、部屋の窓を一枚残らず開け放っていた。窓辺からの眺望には、消防車もパトカーも爆撃機も異星人が操る巨大なモンスターも確認できない。


 幼稚園の庭ではたくさんの子どもたちが無邪気に駆け回り、産婦人科の屋上では何枚もの真っ白なベッドシーツが帆のように風にはためく。


 高瀬が愛するこの街は、今日もなかなか平和だ。


「神沢君」頬の筋肉が条件反射でびくんと動いた。高瀬の声だ。「カンナ先生、何の用だった?」


「それがな」と言いながら俺は自分の席についた。「やっぱり二年生ともなると、不備のある進路希望調査票は受け付けてもらえないってことが証明された」


「叱られたの?」

「こっぴどく」


「嘘つけ」笑ったのは太陽だ。「カンナ先生が悠介を叱るシーンなんかイメージできねぇよ」


 俺も笑った。それから高瀬の顔を見た。カンナ先生の話を念頭に置き、「学部、早く決めなきゃな」と目でそれとなく語ると、彼女はこくんとうなずき苦笑してくれた。「そうだよね」と謙虚な唇が動いた気がした。


 高瀬とのささやかな交歓を柏木にいちいち見咎みとがめられるのも嫌なので、「三人とも、ずいぶん遅かったな」と適当なことを言ってみると、柏木はどこか自慢気に口を開いた。「それはね、新聞部の取材を受けてたから」


「ここへ来る途中につかまっちまってよ」太陽が補足する。

「けっこう楽しかったよね」高瀬は高揚を隠さない。

「で、何の取材?」月島は簡潔に聞く。


に関するインタビュー」と柏木が率先して答えた。「ほら、今校内は心霊現象の話題で持ちきりでしょ? 七不思議にまつわる心霊現象。落ち目の新聞部としては、ホットなネタを記事にして、ちょっとでも注目を集めたいんじゃない?」


「おい悠介。幽霊騒ぎって何だ? って顔してるぞ」

 別に太陽を喜ばせるつもりはないけど、「幽霊騒ぎって何だ?」と口に出していた。たしかに初耳だった。


「悠介って、オレたち以外からは本当に情報が入ってこないのな」


「交友関係が狭くて悪かったな」

 いったいいつまで俺はその泣き所をもてあそばれるのだろうか。


「まぁいい。せっかくだから、何も知らない悠介にオレが語ってやろう。身の毛もよだつ、恐怖の鳴桜めいおう高校七不思議を――」


 前口上がおどろおどろしかっただけにそれなりの関心をもって太陽の話を聞いていたが、なんてことはない、それはどこかで耳にしたことがあるような怪談の寄せ集めだった。


 誰もいないはずの音楽室からピアノの音色が聞こえる、であるとか、裏庭の焼却炉から何者かのうめき声が聞こえる、であるとか、階段の踊り場で無念の死を遂げた女生徒の霊が出る、であるとか。


 傾向としては他の四つもだいたい似たような感じだ。子供だましの非科学的ミステリー。高校生にもなって馬鹿馬鹿しい、というのが俺の率直な感想だった。

「幽霊なんて、俺は信じないぞ」


「でもね」高瀬はいくぶん怯えている。「実際に心霊現象に遭遇したっていう生徒が後を絶たないんだよね」


「わかった」と俺は情報を整理してから言った。「幽霊騒ぎは、新聞部の自作自演だ。紙面を盛り上げるための。春だし、新入部員をひとりでも多く獲得したいんだろ」


 柏木は首をひねる。

「たしかに廃部寸前らしいけど、かといってそこまでするかなぁ? 自演だとしたら、いくつも校則を破ってるわけだから、一歩間違えば停学処分だよ?」


「しっかしこんな春先に幽霊騒ぎなんて、季節外れもいいところだよな」そこで太陽は、幽霊さーん、と臆することなく呼びかけた。「今年は出てくるのがちょいと早いんじゃないですかねぇ? この辺にもいるんですかぁ? いたら姿を見せてくださいよっ!」


 もちろんどんな返事もどんな変化もなかった。あったら大変だ。


 そこで思いも寄らない反応を示したのは月島だ。彼女は「そういうの、やめようよ」といつになくか細い声で言って、肩をすぼめた。「本当に出てきちゃったら、どうすんの」


 太陽は、やにさがった顔をぬっと前へ突き出す。

「あれれ? もしかして、月島嬢って、お化けとかが苦手な人?」


 月島の首から上がみるみるうちに赤みを帯びていった。ビンゴ、らしい。


「あら、涼ちゃんカワイイ」柏木が皆の気持ちを代弁した。


「月島さんって、そういうの平気そうなのに」高瀬も皆の気持ちを代弁した。


「誰にだって苦手なものの一つや二つくらいあるでしょ?」と月島はあたふたして言った。「うまく説明できないけど、子どもの時から嫌いなんだからしょうがないじゃない。肝試しとか、心霊写真とか、ホラー映画とか、ああいうのを楽しめる人ってどうかしてると私は思う」


「クールビューティの意外な弱点、見っけ、の巻だな」と太陽は戯けて言った。「意外性のある女の子って、いいよな。17歳のお姉さん、ステキです」


 結論からいえば、太陽はもうこれ以上月島をおちょくるべきではなかった。ここでやめておくべきだった。からかわれることに慣れていない人間は、それを続けられると、どこでどんなスイッチがオンになるかわからないのだ。


 月島の場合、ハンサム野郎が整った顔立ちをわざわざ崩し、手首から先を下に向け「うらめしやー」と底気味悪い声を出した瞬間が憤怒のスイッチの入りどころだった。


 太陽の左頬の数センチ先を何かが高速でかすめていった。それはステンレス製の定規だった。中学時代から月島が愛用しているものだ。定規という名の凶器は、太陽の後ろにあるホワイトボードにしっかり存在を刻みつけ、鋭利な音をたてて床に落ちた。


 見れば月島は穏やかに微笑んでいた。「悪霊は退治しないとね」と彼女は言った。


「すみませんでした」と太陽は言った。その青ざめた表情は、まるで幽霊でも見たかのようだ。