「神沢君。君の体のことを考えると、進路の話なんかしている場合じゃないと思うんだ」カンナ先生は着席すべきかどうか迷っていたので、「かまいません」と先に座っていた俺は答えた。「誰かと話をしている方が気が紛れますから」
ほとんどムキになっていたのが実情だ。こんな得体の知れない症状のせいで何かを諦めたり中止したりするのはまっぴらだった。たとえそれが、放課後の呼び出しであっても。
「それじゃあ、続けるか」とカンナ先生は俺の気持ちを読むように言って、椅子に腰を落とした。「ええと、たしか大学の話だったよね。目指すのが
俺は思い付くまま学部を列挙した。文学部、経済学部、法学部、エトセトラ。医学部や薬学部も当然浮かんだが、敢えて回答には含まなかった。学費が高い学部は、口にするだけで悲しくなる。
「たくさんあるでしょ」カンナ先生は両手を目いっぱい広げた。「鳴大なら基本的な学部はひととおり揃っているから、その点は安心だ」
俺はうなずいて、話の続きを待った。
「好きこそ物の上手なれ、とも言うから、そういう観点で進む学部の系統を決めるのもありなんだよ。実際そういう生徒もいる。神沢君は好きな教科はないの?」
「ないですね」ときっぱり答えた。「僕にとって学校の勉強は目的ではなく手段ですから。とくべつ何かの教科に肩入れしたりはしません。試験で効率よく点が取れれば、それでいいんです」
「こりゃまたずいぶんドライな子だ」とカンナ先生は言った。「将来就きたい職業があれば、そこから逆算できるんだけどな。でももちろん、そんなのは見つからないんだよな?」
「おっしゃる通りです」
「参ったな」
「すみません」
「そうだ! 時効だし、あの話、喋っちゃおう」
しばらくしてからカンナ先生はそんなことを言い出した。時効?
「どうせこの仕事とももうすぐお別れだもの。胸にしまったままでいるより、迷える生徒のために打ち明けた方がいいだろう。うん。神沢君になにかのきっかけを与えられるかもしれないしな」
まさか校内で一二を争う人気教師の口から“時効”という物騒な言葉を聞くことになるとは思わなかった。ましてや現在の彼女は妊婦でもある。もっともその姿からは連想しにくい単語のひとつだ。俺は好奇心に抗わず耳を澄ました。
「今だから言えるんだけど、私、昔は
なぜか背筋が伸びる。「ワル、ですか」
「それも相当の」と先生は渋い顔をして言った。「比較的良い家に生まれたのにね。どこで歯車が狂ったのか、中学あたりから突然グレはじめて。盗んだのはバイクじゃなかったけど、自転車で走り出す毎日。深夜徘徊して警察の世話になるのは日常茶飯事。当然勉強は大嫌いで、通知表なんか目も当てられなかった。それでも『頼むから高校だけは出てほしい』って親が世間体を気にするものだから、仕方なく進学したの。
言うまでもないけど、ここみたいな進学校じゃないよ。県内でも下から数えた方が早い底ランク校。入試で名前を書き忘れても受かった子がいるくらいなんだから。恐ろしいでしょ?」
そんな場所に三年間も通い続ける自信が俺にはなかったが、カンナ先生の母校を
「高校に入ってからは、非行もエスカレートしていってね。お酒を飲んで、タバコを吸って、お金がなくなると弱い子からカツアゲしたり、万引きしたりした。でもそんなのはまだかわいい方。ピュアな神沢君にはとてもじゃないけど聞かせられないようなこともいっぱいやった。どうする? 聞きたい?」
「遠慮しておきます」と俺が即答すると、先生はいくぶんほっとしたようだった。
元不良教師の回想は続いた。
「停学と補導を繰り返す娘に、とうとう両親は堪忍袋の緒が切れたんだ。私は家を追い出されてしまった。そう、
私は担任に叱られた。『いつまでも馬鹿なことをしていないで、未来のことを考えなさい』って。私は普段から担任のことが大嫌いだった。何かにつけて口うるさい女だったからね。家を追い出されてむしゃくしゃしていたのもあって、私はその時、『もうどうにでもなれ』って思ったんだ」
そこでカンナ先生は右手で拳をつくった。
「まさか」と俺は言った。
「そのまさか」と彼女は言った。「私、殴っちゃったの、担任の顔面を」
「だめじゃないですか」と俺は言った。
「絶対だめです。当時は今より暴力には寛容な時代ではあったけれど、行為自体は決して許されることじゃないし、場所が場所だもの。現場が職員室じゃ、どう言い逃れることもできないよ。実はその時私は、退学にリーチがかかっていてね。つまりあと一度何らかの非行を働けば、もう高校としてはこれ以上面倒をみきれないと警告されていたんだ」
「アウトですね」
先生はうなずいた。
「すぐに他の先生たちがすっ飛んできて、口々に非難の言葉を私に浴びせた。『職員会議を開くまでもなく退学だ』というのが、皆の総意だった。私も血気盛んな頃だ。売り言葉に買い言葉で『こんな高校、こっちから辞めてやる』って吐き捨てるように言ってやったさ。思いも寄らなかったことが起こったのは、その後。
倒れていた担任がすっくと立ち上がって、こう言ったの。『わたしは、殴られてなんかいません!』って。他の先生たちは呆気に取られた。私も呆気に取られた。静寂の中、担任は私の隣に来ると、頭を下げて話し続けた。
『わたしがこの子を責任持って卒業させます。今度何かあったら、その時はわたしも辞めますから、どうか今回だけは、みなさん、見なかったことにしてください』。
顔を上げた担任の口元からは、血が流れていてさ。これはとんでもないことをしてしまったと当時の私は反省した。どんなにワルかったとはいえね、私はそれまで、誰かに血を流させたことだけはなかったんだ。本当だぞ? それはやっちゃだめなんだ。私の中で流血はルール違反だったんだ。担任の口元の血が、私の人生を一変させちまったんだ」
その女性の担任は、行き場を失ったカンナ先生を自宅に住まわせることにしたという。彼女は旦那さんと子どもを水難事故で亡くしており、仕事だけが生き甲斐だった。
「こんな
そう意気込んだ担任は、カンナ先生の実家と話を付け、ふたつの約束を取り付けてきた。
高校の学費は卒業まで払い続けること。そしてもし国立大学に合格することができたなら、更生したとみなし勘当を解くこと。
こうして九九もまともにできなかった不良少女は、タバコを鉛筆に持ち替えて大学を目指すことになった。
「こんなに自分のために一生懸命になってくれる大人が世の中にいるんだ、って柄でもなく感銘を受けちゃってさ」カンナ先生の瞳は、ちょっとだけ潤っている。「私もこんな風になりたいって強く思ったんだ。大学に行きたいというよりも、教師になりたいという気持ちを原動力にして、私は猛勉強をはじめた。担任に報いるためにも、絶対教師になろうと思った。トイレに行く時間さえ惜しくて、畳の上で漏らしたこともあった。あはは。神沢君。不良の長所はね、これと決めたらとことん突き進めるところなんだ。根性はあるんだよ」
「はぁ」と俺は言った。不良の知り合いがいないので、確かめようがない。
「担任は家でも私の勉強に付き合ってくれてね。何度も心が折れそうになったけど、『けっぱれけっぱれカンナ!』って背中を押してもらったんだ」
「
「ああ、地元の方言で『がんばれ』っていう意味さ」
俺は理解したしるしにうなずいた。けっぱれ。
「結局、一年半では時間が全然足りなくてね。私が入れたのは夜間部だった。でもそこは国立大学だったし、なにより、夜間部の学生でも教職課程を履修することはできたから、私としては充分満足のいく結果だった。合格発表の日は、担任と抱き合って喜んだな。今でも親しくさせてもらっているんだよ。私からすれば、親以上に親みたいな存在だからね」
今この時ばかりは、カンナ先生の面持ちは、教える側というよりも教わる側のようだった。
「それで、教員採用試験にも合格して、見事夢は叶ったんですね」
「人生ってわからないもんだよな」と先生は言って感慨深そうに部屋の中を見渡した。「私みたいな底ランク高校出身の元アウトローが、こんな進学校で21年も教鞭をとっていたんだから。ある意味、詐欺だ。担当させてもらった生徒には、なんだか申し訳ない気持ちになるよ」
彼女がこれまで自分の過去を隠してきた理由の一端がわかった気がした。
「長々と話してしまったけれど、私があなたにいったい何を伝えたいかというとね」
カンナ先生は心の時計の針を現在に戻して、俺の目を覗き込んできた。
「大学を終着点にしてはいけないということなの。あくまでも、通過点と捉えなさい。神沢君の場合、将来なりたいものを見つけるのが先決だと思う。そうすればおのずと、進むべき大学や学部は決まってくる。就きたい職業によっては、無理をして大学に行く必要はなくなるかもしれないわけでね。あら
「就きたい職業」口に出してみても、やはり何かが変わるというものでもなかった。
「実を言うとね、前々からあなたには、私に近いものを感じていたのよ」
俺は少しも感じていなかったので、驚く。
「きっとあなたも、目標がきちっと定まりさえすれば、そこに向かって一直線に突っ走れるタイプ。そして途中に立ちはだかるどんな障害も突破することができる。だから、なおのこと、大学のその先を――自分がどういうかたちでならば社会に溶け込んでいけるかを――考えながら、これからの高校生活を過ごしてみてほしいの」
それを聞いて俺は、高瀬の言葉を思い出していた。
「神沢君はまだ出会えていないだけだよ、自分がこれなら勝負できるというものに」と彼女は言ってくれた。去年の春のことだ。何かにのめり込んだ時のパワーはすごい、と分析もしていた。
表現の違いはあれども、カンナ先生と高瀬の言いたいことはだいたい同じだ。二票も入ったのだから、これはさすがに素直に受け止めるしかない。
「わかりました」と俺は答えた。
カンナ先生は目を細めた。
「言っておくけど、私とあなたの性質が似ているからといって、担任を殴るのだけはだめよ」
「そんな野蛮なことをする生徒は、
カンナ先生は「そりゃそうだ」と微笑みまじりに言うと、黒板のスケジュール表を確認して、表情をきりっと引き締めた。
「後任の先生への引き継ぎとかもあるから、神沢君に対する私の進路指導はこれでもうおしまい。……ごめんな、最後まで担当できなくて。卒業までの二年間が、充実した日々になるといいね」
俺がささやかな礼を述べると、先生は少し恥ずかしそうに、おほん、と咳払いした。それからキレのある声を出した。
「けっぱれけっぱれ悠介!」
俺は不良予備軍も現役の不良も元不良も好きではないけれど、この人のことはちっとも嫌いになれそうにない。