蛇口のハンドルをひねり、血肉になることを拒絶された食物の残骸を排水口に流す。
頭を持ち上げるとそこには、気色の悪い顔面蒼白の男がいた。それがまさしく自分の姿だと認めるのに、いくらか時間を要する。続いて、鏡越しに、小柄な女子生徒と目が合った。まだ垢抜けていない。この春入学したばかりの一年生だ。彼女は変質者を見るような視線を俺に刻みつけると、逃げるように走り去っていった。
呼吸が落ち着くのを待って蛇口を上に向け、水で口の中をゆすぐ。何度もそうする。舌の裏までまんべんなく洗浄しておかないと、再び
「またなの?」と先生は言って、背中を優しくさすってくれた。「このあいだの授業中とまるで同じじゃないか」
彼女は俺たちの古文の担当でもあった。
「消化器がとくべつ弱いんです」と俺は嘘をついた。
「どうする、保健室に連れて行こうか?」
「大丈夫です」俺は強がって笑った。「すみません。本当は僕が先生をいたわらなきゃいけないくらいなのに」
「一丁前にそんなことを気にしなくていいの。この場所では私は教師なのだから」
「心配おかけしました。もう平気です。さ、戻りましょう」
口元を制服の
さまざまな人と出会い、さまざまな出来事を体験してきたことで、ずっと俺を縛りつけていた人間不信の鎖が確実に断ち切られつつあったのが、つい先月、一年生の三月だった。
しかし、自由で穏やかな日々の到来が二年生で待っていたわけではなかった。「そう易々と楽をさせるものか」と悪魔が微笑んでいるようだった。
新たな頑強な鎖が――油断したつもりはこれっぽっちもないけれど――全身に絡みついていたのである。
それはいつも突然やってくる。予告も前兆もない。先ほどのように、訪れを察知できるケースは稀だ。
母・有希子が、柏木恭一との間にできた幼い双子のすぐそばで、至福の笑みを
三月三日の富山で大木の陰から垣間見たそのシーンが脳裏に復活し――ありありと復活し――やはりあの時と同じように、激しい吐き気を催してしまうのだ。
決して小さくない衝突や失望があったとはいえ、結果として俺はあの旅をどちらかといえば前向きな気持ちのまま終えたはずだった。柏木だってそう認識していた。
俺は少なくとも自分を捨てた母親に会いに行ったことを後悔はしていないし、過去にけりをつけて未来に進むためには、避けて通れぬ道だったと確信すらしていた。
「誰も悪くない」
「誰かを憎むのはよそう」
未熟な我々なりにそう結論づけて、柏木と共にこの街へ帰って来たのだった。
それなのになぜ、なぜ、未練がましくこのような現象がこの身に起こってしまうのか、いくら考えても俺にはさっぱりわからなかった。ネットで調べてもよくわからなかった。母の写真を見てももちろんわからなかった。わかろうとして最寄りの心療内科に足を運んでみたりもした。
しかし二時間半待たされた挙げ句獲得することができたのは、「大変ですね」という医者のありがたいお言葉と大量の錠剤と日常の中で意識的に笑うことを推奨する小冊子だった。
小冊子のタイトルが「笑顔で元気 こころとからだ」だったので、一行も中身を読まずにごみ箱にぶん投げた。記憶から消し去りたい笑顔のせいでこうなっている俺からすれば、皮肉以外の何物でもなかった。頭にきたので、帰りにカレーショップに寄ってカツカレーを二杯も食ってやった。まさしくヤケ食いだった。もちろん胃もたれを招いたが、どういうわけか、カツもカレーもライスも戻すことはなかった。わけがわからなかった。
予想を裏切らず、薬では何も解決しなかった。
平均すると一日に二回から三回、多いときでは五回六回と母の笑顔は蘇る。そしてそのたび、俺の胃は機能を失う。
なにが一番厄介って、その作用がこっちの事情なんかお構いなしに起きることだ。
俺が授業中であれ食事中であれバイト中であれ排尿中であれ、狂った儀式はきわめて厳格に執り行われる。ただの一度だって中断されたためしはない。愛に満ちた母子の姿が浮かんだら最後、どうあがいても嘔吐を免れることはできないのだ。
そんな具合だから俺は、眠っているあいだ以外の時間は常に気を張っていなければならなかった。それはタイトな毎日だった。一日が終わる頃には、神経はすっかり磨り減っていた。
外出する際は、トイレや水場の位置を確認するのが習慣となった。夢の中でさえも吐ける場所を探していた。富山への旅の前は64㎏あった体重も、この一ヶ月ばかりで50㎏台まで落ち込んでしまった。
淡い期待をかけて、家に残っていた母の写真をかき集めて庭で燃やしてみたりもした。しかし症状が快方に向かうどころかむしろその最中にも発作は訪れた。庭が嘔吐物で汚れた。自分が滑稽で仕方なかった。
できることならば、いっそのこと頭から脳を取り出して、燃え盛る炎の中に投げ込んでやりたかった。
新たな鎖は強く深くこの体に食い込み、今や心までも