「悠介。ひとつになってみる?」
柏木はそんなフレーズを口にするだけで、古宿の一室をたちまち官能的な空間に変えてしまった。「ひとつになる」という表現は多義的なようでいて実に一義的だった。頭で復唱すればするほど体温が上昇する、魔力を含み持っていた。
「柏木さん!?」
彼女は俺の狼狽ぶりを笑うでもなく、再び体を密着させると、あろうことか脚を絡ませてきた。まるで知略に長けた二匹の蛇が布団の奥にいるかのようだ。
「あたしの親父に『チェリーかよ』って見下されたの、悔しくないの?」
「そっ」ろれつだって回らなくもなる。「そんなもん、あいつは俺の倍以上も長く生きてるんだから、いろんなことを経験していて当たり前だ」
「でもさ、あたしたちくらいの年の頃は、もうすでに『やりまくってた』って言ってたじゃない」柏木の人さし指が俺の無防備な胸を
「そんなところで対抗意識を燃やしてどうするんだよ」
「あたしはね、悠介に必要なのは、自信だと思うんだ」
「自信?」
「そう。ここで男になっておけば、もう今までみたいに、つまらないことでくよくよしなくなるって」
「どうだろう?」
「悠介。あたしとエッチしたくないの?」
愚問の極致と評していい質問だった。「したいに決まってるだろ」
「じゃあ決まり」と柏木はささやいて、目をつぶり、均整のとれた顔を接近させてくる。3㎝先まで肉厚の唇が迫ったところで、ようやくと言うべきだろう、高瀬の声を、正月に聞いた彼女の声を、俺は思い出した。
「晴香ともし何かあったら、私は気付かなくても、月島さんは絶対気付くんだからね」
そんな恐るべき警告が、記憶から消失するわけがなかった。
「ストップ!」柏木の肩を両手でおさえる。彼女の両のまぶたが持ち上げられる。「『したい』と『する』は別の次元の話だ。ここでもししてしまったら、すべてが壊れちまう」
「壊れたからこそ、始まるものもあるんじゃない?」
春先に比べればこの娘もずいぶん詩的なことを言うようになったものだ、と感動している場合ではない。
「いいか、柏木、良く聞け。俺とおまえは、そもそも恋人同士でもなんでもないんだぞ」あいにく運命の絆では結ばれているようだけれども。「それに、足の怪我だってまだ完治してないんだから。医者もこの旅を許可する条件として念を押していただろ。『激しい運動は厳禁ですよ』って」
「悠介……そんなに激しくするつもりなの?」
完全なる失言だった。慌てて首を振り、取りつくろう。
彼女は続ける。「悠介が愛してくれれば、怪我なんか治るよ」
「意味がわからない」
「もう焦れったいなぁ」俺の後頭部へ柏木の長い腕が伸びた。「あたしは悠介にバージンを捧げたいの」
俺は視線を意図的に外した。そうでもしないと、今にも彼女の浴衣を引っ剥がして、豊満な胸に顔を埋めてしまいそうだった。
「いや、やっぱりだめだ。物事には順序ってもんがある。いろんなことをすっ飛ばして男女の一線を越えるわけにはいかない」
それを聞くと柏木はため息をついて、俺に巻き付けていた腕と脚を解き、体を反転させた。「マジメというかなんというか。ま、悠介らしいけど」
猛烈な後悔が襲ってきたが、「これで良かったんだ」と俺は自分に言い聞かせた。
柏木はそのまま眠ってしまうのかと思ったが、ほどなくして仰向けになり、こんなことを口にした。
「あたし、悠介に約束するよ」
「約束? また急だな」
彼女は入念に喉の調子を整えた。そして、言った。
「あたしもう、高校の屋上へは行かない」
俺は思わず目を見張った。つい笑みがこぼれる。
「本当か!?」
彼女は枕の上でしっかりうなずいた。
「なんかあたし、今日一日で生まれ変わったみたい」
「うんうん」おのずと合いの手にも力が入る。
「さっきまでホテルがどこも満室で、長いあいだ雪の中をあてもなくさまよっていたじゃない? 歩きながら、ふと思ったんだ。『死にたくないなぁ』って。いつ以来かわからないほど、久しぶりの感覚だった。大袈裟だって言って笑わないでね。あの時は、心も体も疲れ果てていたんだから」
「笑わないよ」元はといえば悪いのは、ホテルの予約をとらなかった俺だ。「柏木。つまりもう、おまえは、生きていることが恐くはないんだな?」
「今のあたしが恐いのは、死ぬこと」と明言した後で柏木は、布団の中から右腕を出し、袖をめくってこちらに伸ばしてきた。「さわってみて」
俺は彼女の手首に触れた。
「鳥肌だな」
「今ね、屋上の
そこで試しに、300万円だったらどうする? と尋ねてみると「それなら考える」と返ってきたので、いくらか残っていた俺の不安は完全に拭い去られた。
「小さい時のあたしは、将来、先生になりたかったんだ」
一呼吸置いてから、柏木はそう言った。
「先生? 学校の教師か?」
「そう。小学校の先生。子どもが好きだったから」
「初耳だ」
「高校に入ってからは誰にも言ってなかったもの」
俺の脳裏には、ジャージ姿の柏木が、体育座りの児童たちに跳び箱の模範演技をしてみせるシーンが浮かんでいた。運動神経のすこぶる良い彼女がもっとも本領を発揮できる授業は、おそらく体育だ。
体操選手さながらの華麗な跳躍に拍手が巻き起こり、ゆさゆさ揺れる胸には思春期のドアノブに手を掛けた男子たちの視線が突き刺さる。
なるほどなるほど、と俺は思った。活発な柏木先生は、さぞかし学校の人気者になるだろう。いろんな意味で。
「でもあたしは、その夢を諦めなきゃいけなかったんだ」と彼女は続けた。「親でもないいずみ
こう見えてもあたしはけっこう本気で先生になるつもりでいたからさ、夢を断ち切るふんぎりがなかなかつかなくて、苛立ったりもした。でも高校の屋上の縁に立てば、諦めがついたんだ。こんなことをしているあたしが、先生になんかなれるわけがない。そう思えて。要するに現実から逃げてたんだよね」
柏木にとって屋上の縁は、生きていて良い理由を空に問う場所であると同時に、逃げ場所でもあったようだ。
「富山まで来て本当に良かったよ」と柏木はさっぱりした声で言った。「心臓の病気を治して幸せそうに暮らしている父親の顔を見たら、なんだか悩んでたことが急にあほくさくなっちゃった。あんな人に迷惑かけまくりの馬鹿親父がぬくぬくと生きてるんだから、あたしなんか生きていていいに決まってるじゃん。ねぇ?」
俺は枕の上でうなずいた。
「それにしてもおまえ、本当に今日一日で生まれ変わったんだな」
「あたしはもう大丈夫だから」
柏木はしっかりそう告げると、はるか遠くを見上げるように目を細めた。
「屋上の縁にはあたしが求める答えはない。これからは逃げずに自分に向き合う。生きて、幸せになる。それがなにより、天国のお母さんのためでもあるし」
「よく言った」と俺は褒めてやった。「それでいい。それで」