「記憶、戻ったんだよな」
柏木と話しているようで赤の他人と話しているようなもどかしさがあったこの三ヶ月を思い返し、俺はあらためて喜びを噛みしめていた。
「あはは、その節はご心配をおかけしました」
「本当だよ。こっちは、もう二度と戻らないことも覚悟してたんだから」
「それも悪くなかったかもねぇ。そうしたら、責任感の強い悠介をこの先もずっと独占できたかもしれないんだから」出し抜けに柏木は顔をしかめ、頭をさすった。「痛っ! ヤバっ! 記憶がまた飛んでいく……」
「いや、笑えないから」
世界中の猿が木から落っこちそうな柏木のやかましい笑い声が響くなか、俺の胸には熱いものが沸き上がっていた。彼女が記憶を取り戻す前後の場面が脳裏に蘇っていた。
「おまえの記憶を呼び起こす
「どうしたの、しんみりしちゃって」
「過去に強く感情を揺さぶられた記憶が鍵となることが多いようだ。担当の医師がそんな感じのことを言ってたからさ」
「ま、そりゃあ、恋する悠介が苦悩する姿を一年近くもすぐそばで見てたんだからね。当然と言えば当然でしょう」
俺は照れて何も喋れなかった。彼女は続けた。
「そうそう、あの家で言ったこと、全部本心だから。別に有希子さんの前だからって格好つけたわけじゃないよ。あたしは、悠介が大学に行くのを全力で応援する」
「すまんな」と言いつつも、ただそうなると、と俺は冷静に考えを掘り下げていた。柏木の目指す未来は、世界一幸せな家庭を築くことだったはずだ。無論、想定しているパートナーは俺なんだろう。その俺の大学進学が滞りなく叶ってしまえば、彼女の理想とする未来は遠のくはずなのだが。
「わかった」と俺は閃いて言った。「さては、おまえも大学に行く気だな?」
「はぁ?」
「やっぱり小学校の先生になる夢を捨てきれなくて、どうにかして大学に行くことにしたんだろ。そうなんだろ?」
柏木は大きく手を振った。
「ないない。その夢はもう本当に諦めたから」
「それなのに、俺のことは応援してくれるんだ?」
「だって、片方が大学生になったって結婚はできるでしょ?」
「そりゃそうだけど」
「家族一同幸せに生きていくためには、どうしたってある程度の収入は必要だから。悠介には学歴を武器に出世街道を突っ走ってもらって、たくさん稼いでもらうことにした。どうだ、この柔軟な発想の転換」
「どうだ、って言われても」
柏木に財布の紐を握られ、少ない小遣いをやりくりする憐れな恐妻家の姿が容易に思い浮かんだ。
「とりあえず、手にしたい未来は今までと変わってないってことだな」
「それが変わったんだよなぁ。世界一どころじゃない。
「馬鹿だよな、おまえ」と俺が愉快な心持ちで言うと、柏木は笑った。そしてこちらを向き、抱き付いてきた。おのずと股間の膨張が再度彼女の太ももに当たる。
「息子君、まだ元気なの」
「出番は無いんだぞって
「よし。やっぱ、一発やって寝る?」
「本気にするぞ」
「え」
「冗談だよ」
半分は冗談じゃなかったけど、彼女の当惑顔を見れば、それ以外の台詞は吐けなかった。
柏木はオーバーな咳払いをしてから、「あたしは、悠介に感謝を伝えておきたかったの」と言った。俺は心を入れ替え、彼女の声に耳を傾ける。
「この冬はよくがんばったね。今までのどんな季節よりもよくがんばった。本当は優里のためにもっと時間を使いたかったはずなのに、毎日のように病院に来て、あたしの話し相手になってくれた。おいしくない病院食も、
彼女は俺の反応を待たずに言葉を継いだ。
「恩返しさせて。今度はあたしの番。これからは、あたしが悠介のことを守るから」
「誰かさんと同じこと言ってるぞ」
「細かいことはどうでもいいの。あたしが守るって言ったら守るの」
女に守られるというのは男として決まりが悪いけれど、甘受するしかなかった。彼女が一度言ったことを取り下げるとも思えない。
「ただ今夜だけは」と消え入りそうな声でささやき、柏木は俺の顔を見上げた。「今夜だけは、悠介があたしのことを守っていて。弱さがこの体にもう二度と戻って来られないように、しっかり抱き締めていて」
俺は黙って彼女の背中に腕をまわした。今夜のふたりに、言葉はこれ以上要らなかった。
♯ ♯ ♯
柏木の無垢な寝息が聞こえるようになってから俺は、“運命”についてぼんやりした頭で考えていた。
春先の老占い師の予言通り、その言葉でしか説明のつかない数多くの出来事が俺を待ち構えていた。
時に影となって背後から忍び寄り、時に渦となって呑み込もうとした、運命。
俺にとっての運命とは、天使が鈴を鳴らしながら空から運んでくるものというよりはむしろ、悪魔が魔笛を吹きながら夜道で押し付けてくるものという方が印象としては近かった。
まぁ要するに、ありがた迷惑な訪問販売とさほど変わらない。
「お兄さん、話題沸騰中の運命は要りませんか。今ならキャンペーン中につき、4割引きの出血大サービスですよ」
残念ながら、今やクーリングオフは不可能だろうけど。
この富山への旅は、受動的だったそれまでの姿勢から一転、攻勢に転じる意味合いを含んでいた。自ら踏み込んだわけだ。俺につきまとう運命の正体を探るべく。
柏木恭一と神沢――いや、旧姓で呼ぼう――戸川有希子は見えざる強い絆でつながっており、互いを求め合う想いは、離れたふたりを再度引き合わせる幸運すらも呼び寄せた。
言うなれば、彼らはどうしたって
運命に身を任せてしまうのは、楽なんだろうと今なら俺はつくづく思う。
問いかけてくる相手が悪魔だろうが訪問販売員だろうが、頭を空っぽにしてイエスと答えていればいいのだから。
その選択の理由だとか正当性なんか、黙っていても後からついてくる。他でもなく母の生き方がそれを証明しているのだから笑うしかない。柏木の眠りを妨げたくないから、笑うわけにはいかないが。
いずれにせよ、俺の母が選んだのは、運命に従う生き方だった。それではいったい、俺はどうするのだろう? どうなるのだろう? わからない。運命とはなにか? 結局、それもわからない。肝心なことは、いつもわからずじまいだ。
結ばれるべくして再び結ばれた柏木恭一と戸川有希子。
それぞれの道草の途中でこの世界に生を受けたふたつの命、柏木晴香と俺。
そんなふたりは多くの傷をそこかしこに抱えながら生きてきた。不良品の
あるいは我々は、そもそも完成された状態ではなく、カケラとして産まれてきたのかもしれない。互いの断面を重ねることで、綺麗な玉を形づくるガラスのカケラ。ふたりでひとつ。俺の片割れ。柏木の片割れ。
柏木は俺にはないものをいくつも備えている。
決して退くことをしない負けん気の強さ。
初対面の人間にも突っ掛かっていく剛胆さ。
何事にも物怖じしない積極性。
絶対に悪を見逃さない正義感。
時にはそれらが過剰に働き過ぎて、あらぬ問題を呼び込むことだってある。ただ、その問題に収拾を付ける才覚が、俺にはあるらしい。
俺たちの特徴がうまく噛み合えば、マイナスがプラスになり、届かなかったものに届くようになり、見えなかったものが見えるようになり、不可能が可能にさえなる。ひとつになったふたりに、付け入る隙はない――のかもしれない。
彼女と生きる未来はとても――。
気が付けば、俺は大きなあくびをしていた。どうやらついに眠気が訪れたらしい。
考えるべきことはまだまだ山積していた。しかし俺は、今夜はもうこれ以上頭を使うべきではなかった。さすがに疲れた。脳が休むことを求めている。残された問題は、次の季節までの宿題としておこう。
柏木は森の奥のお姫様みたく深い眠りについている。このぶんだと、朝まで目覚めることはないだろう。
俺は彼女の背中を撫でてみた。温かくも繊細で、少し力を込めれば、砕け散ってしまいそうな背中だった。
しかし彼女は安心して眠っていればいい。もう弱さが舞い戻ることはない。この手がそれを許しはしない。今夜は俺が守っている。このままただ抱き合って、新しい一日が来るのを待とう。きっと明日は今日より良い一日だ。
俺は“未来の君”を強く抱きしめて、ゆっくり目を閉じた。
第一学年・冬〈終〉