柏木の人生において大きな意味を持つことになるであろう涙が流れているあいだ、俺を深く悩ませていたのは、下半身の一部が制御不能に陥ったことだった。
要するに俺は、勃起していた。
それは過去に類を見ない、すさまじいスケールの勃起だった。硬く、熱く、神懸かってさえいた。今ならば日本中のどんな丈夫な
「20××年3月3日 富山の古宿にて 勃起者・神沢悠介 全長××センチメートル」
そんなものを家に飾るのは、まともな人間のやることじゃないので、もちろん実行はしないけど。
泣いている柏木の心情を考えれば、この勃起が不適切なものだということくらい俺だって重々わかっていた。罪悪感すらあった。
しかしこればかりは――この生理現象だけは――自分の意思ではどうにもならないのが、XY染色体を持って生まれた者の辛いところだった。
布団の中で柏木の震える体を抱きながら俺は、物理学の知識をかき集めて宇宙の果ての姿を推測してみたり、スターリングラードの戦いから生還した翌日に雷に打たれ命を落としたソ連の無名兵士の、幸運か不運かよくわからない人生に思いを馳せてみたり、しまいには素数を小さい方から順に心で挙げてみたりした。
そうすることで、意識を官能的な領域からできるだけ遠ざけようと試みたわけだ。
しかし131まで素数を数えたところで、すべては無駄な努力であるという結論に達した。まさしく悪あがきだった。残念ながら、今この下半身で起きている反乱を鎮める
柏木の肉体のやわらかな触り心地が、かすかに見える鎖骨の艶やかさが、押し当てられる弾力性に富んだ二つの乳房の生命力が、初夏に咲く花の蜜を思わせる甘く
ちょっとでも自分を律することを
浴衣をまとった二つの体は、猫に追われたネズミが隠れる余地が無いほど密着している。俺の下半身の異変を柏木が知るのは、もはや時間の問題だった(口に出さないだけで、もうとっくに気付いているのかもしれないけど)。
「あの子たち、きっと幸せに生きていくよね」
それが泣き終えた柏木の第一声だったので、俺はひとまず安堵した。というか、彼女は自分の布団に戻る気はさらさらないらしい。
「あの子たち――双子のことか?」
「うん」
俺は彼女とは異なる見方を持っていた。
「そう簡単にはいかないと思うけど」
「え?」
「あの子たちは、少なくとも俺らみたいな惨めな思いをすることはないだろう。そして、両親の愛情をたっぷり受けて育っていく。そういう観点では、幸せだと言えるかもしれない。ただ――」
「ただ?」
「成長していく彼らの前に、大きく立ちはだかるものがある。それは、社会制度だ。どういうことかというと、あの子たちは、戸籍を作れないんだよ」
「コセキがないのが、何か問題なの?」
「大問題だ」と俺は言った。柏木はこういう分野の話にはめっぽう|
「平たく言えば、戸籍がないと、『存在しない者』として扱われることになるんだよ。それが何を意味するか、わかるか?」
「難しいことはわからない」と柏木は鼻声で答えた。
「存在しないのだから、学校に通えない。健康保険証が作れない。運転免許証が取れない。選挙権がない。アパートを借りられない。結婚ができない。就職だって難しい。彼らがこの先
「ないないないないない。それじゃ、なにもできないじゃん」
俺はうなずいた。
「自治体によっては柔軟に救済措置をとるところも最近はあるらしいけど、それにしても現行法のままでは、あの双子はとても多くの制約を受けながら生きていくことになる。彼らもまた、ある意味では犠牲者なんだよ」
「もしかしたら、双子には、あたしたちよりつらい未来が待っているかもしれないんだ」
「そういうことだ」
「あたしの親父と有希子さん、そうなるのをわかっていて、子どもを作ったのかな」
話の流れ上仕方ないとはいえ、柏木にはもう少し状況に即した物言いというものを心掛けてほしかった。
とにかく、平静を装って喋る。
「あの二人は、初恋に燃える少年少女がそのまま年をとってしまったような男女だけど、決して幼稚じゃない。社会の仕組みはそこらへんの大人以上に理解している。となれば、計画的な妊娠であり、覚悟の上の出産だったはずだ。それこそ恭一は、どんな困難からもあの子たちを守ってやるんだろうさ。最愛の
柏木は気怠そうに息を吐き出した。
「なんていうか、みんな、うまく生きられないもんなんだね」
同感だった。本当だよな、とささやいてから俺は、時間の経過と共にまとまりつつある考えを彼女に聞いてもらうことにした。
「今ならばこう思えるんだけどさ、きっと、誰も悪くないんだよ。おまえの両親も、俺の両親も。みんな自分が信じる幸せに必死で手を伸ばしただけなんだ。俺たちや、他の誰かと同じように」
頭では再び、母の発言が再生されていた。「きれいなだけじゃ生きられない」と彼女は自己弁護した。その言葉はあるいは、俺の父や柏木の母・夏子さんの汚名をそそぐ意味合いまでも含んでいたのかもしれない。
「誰も悪くない」と俺は自分に言い聞かせるように繰り返した。「あの人たちを責めるのはもうよそう。この世の中は、十代の俺たちが思っている以上に厳しい世界なんだろう。生きることと幸せを追及すること。そのどちらも両立させるのは、大人になると途端に難しくなっちまうんだ」
そこで「そうだね」と相づちを打った柏木は、なぜか苦しそうだった。俺は何事かと思い、顎を引く。笑うのを必死で堪えている彼女と目が合う。
「だめだよ、悠介。あたしもう我慢できない!」
柏木は身を
「あのさ、これだけ股間をビンビンに膨らませておきながら、よくこんな真面目な話ができるよね。感心するよ。なになに『みんな自分が信じる幸せに必死で手を伸ばしただけなんだ』だっけ? 悠介なんか、
「おまえな……」
体全体が熱くなってきた。柏木の背中から両手を離し、腰を後ろへ引く。
「あたしが悲しみの涙に暮れているそばで欲情していた、不謹慎野郎め」
「おまえはさ、自分がどれだけ色気をまき散らしているか、わかってないんだよ」
反則だ、と心で訴えもした。
「誰も悪くない」
柏木は急に同情の視線を寄越してくる。
「うんうん、実にその通り。したがって、悠介も悪くない。しょうがないもんな、男子は」
俺が何も言えないでいると、彼女は調子に乗りすぎたと反省したのか、気まずそうに顔の前で両手を合わせた。
「ごめんごめん。笑ったのは謝る。ただね、悠介の話はちゃんと全部聞いてたよ。理解もした。『誰も悪くない』っていうの、なんとなくあたしも感じ始めてたんだ。そうだよね。誰かを憎みながら生きてくのって、すごくつらいことだもん。なんかもう、わだかまりはないや。本当だよ? 思いきり泣いて笑ったら、スッキリした。人間ってすごいね」
「それならいいけどさ」と俺は、浴衣だから
おのずと二人は無言のまま、枕の上で顔を見合わせることになる。相も変わらず柏木は、瓶に詰めたら高く売れそうな良い香りをぷんぷん放ち、それによって俺の勃起は揺るぎのないものになっていた。
にらめっこをしていたわけではないけれど、先に表情を崩したのは柏木の方だった。口元に妖しい笑みが浮かぶ。その瞬間、聞き覚えのあるサイレンが意識のどこか遠くから鳴り響き始めた。じりじりじり。じりじりじり。
まずいぞ、と俺は思った。
なぜならそれは、例の、一季節に一度は発令される対柏木専用警報だったから。
まもなく彼女の口から、俺の度肝を抜くとんでもない言葉が飛び出すのだ。今の状況を考えれば、警報器の誤作動であることを祈るしかなかった。しかし、的中率100%を誇る警報の
「悠介。ひとつになってみる?」