「私は悠介のことを自分の子として愛していた」と母はまぶたをゆっくり持ち上げながら言う。彼女の瞳には、俺の呆れ顔が映ったはずだ。
「あなたは残酷な人だね」と俺は言った。「この期に及んで、こんなふざけたことを真顔で言えるんだから」
「嘘じゃないわ――」
俺は顔の前で大きく手を振り、母の発言を遮断した。
「
40℃近くの高熱が出て小学校を早退しても、日課だと吐き捨てて図書館へ行ってしまった彼女の後ろ姿を俺は今でも覚えている。その日のことを忘れたとは言わせない。
「当時の私は、母親になるには若すぎた」
「母親になるには若すぎた?」
「悠介の言う通り、お父さんとの結婚は私にとって不本意以外のなにものでもなかった。あの人と一つ屋根の下に暮らす日々の中では、自分の精神を正常に保つのに精一杯で、とても育児まで気が回らなかった。悠介が手の掛からない子供だったということに甘えていた部分もある。要するに私は、人間として、母親として、未熟だったの」
「精神を正常に保つため、毎日、図書館に通っていたというわけ?」
「平日の図書館だけが、苦悩から解放される場所だった」
「恭一と一緒に小説を
「そういう側面もあったでしょうね」と母ははにかみ気味に言って、すぐに表情をリセットした。「言い訳がましくなってしまうけれども、年をとるにつれて私は、『このままではいけない』と思うようになっていったのよ。お父さんは腐ることなく真面目に働いて私たちを
いつまでも過去に囚われず、この生活の中で希望を見出して、前向きに生きなきゃ。悠介も多感な時期に差し掛かる。これからは母親としてきちんと向き合う方法を模索しなくちゃ。そんな風に考えるようになった。けれどもその矢先――」
彼女はそこで言い
「悠介。人間はね、きれいなだけじゃ生きられない。どうしたって間違うし、汚れてしまう。私は母親としては失格だった。でもね、だからといってそれは、あなたを愛していなかった証にはならないのよ。私にとって悠介はこれまでもこれからも愛すべき存在。それが私の偽らざる心の声」
「そういうことだったのか、わかったよ母さん」と素直に納得できるわけがなかった。穏便に済ませるため、体裁を取り
俺が注意深く口を結んでいると、母が機嫌を取るような目つきをしてこう尋ねてきた。
「もしかして、あの子たちのことが、頭にあるの?」
「あの子たち。……双子のこと?」
「ええ」
「もちろん」と俺は答えた。
「あのね悠介。私はあの二人と同じだけ、あなたのことも愛している」
それを聞いた瞬間、俺の中を飢えた獣が縦横無尽に駆けめぐり、理性という理性を食い尽くした。
「何言ってるんだよ、あんた!」と俺は立ち上がって叫んだ。「馬鹿げた嘘で俺を
母は首を振った。
「悠介、お願い、聞いて。父親は違っても、あなたも私の子であることに変わりはないの」
俺も負けじと首を振った。
「庭の芝の上で転んだときに双子に見せたあんたの笑顔。素敵だったよ。屈託のない笑顔とはまさしくああいうのを言うんだと、ひとつ勉強になった。だけど俺は、あの百分の一の笑顔だって見せてもらったことがない! いくら母親であることに戸惑っていたとはいえ、俺が大切だったなら、微笑みかけることくらいできただろう!?」
「悠介、もうやめて」
母は懇願の眼差しで見上げてくる。しかし皮膚の下で獣はまだ暴れ回っている。
「あの双子と俺を同じだけ愛してる。へぇ。だったら『一年の半分は俺と生活してくれ』と頼んだら、聞き入れてくれる? あ、いやいや、向こうは二人だから、均等に一年を三分割して、四ヶ月でいいや。明日同じ飛行機であの街に帰って、母親の仕事をしてよ。夏になったらまた、
「それは――」
目を泳がせて言葉を探す母。回答をいつまでも待ってはいられない。
「できないんだよ、そんなこと」と俺は自信を持って断言した。「できるわけがない。あんたは俺を捨てることはできても、あの双子を捨てることはできないんだ。今の
意地悪なことを尋ねてすまなかった。慣れれば一人暮らしもそんなに悪くない。俺は今の悠々自適の生活をそれなりに気に入ってるんだ。今更一緒に暮らそうなんて本当はちっとも思ってないし、幼いあの子たちからあんたを引き離すほど俺は鬼畜じゃないから、どうか安心してよ。母親の
「悠介、お願い。どうか私の言葉を信じて」
横目には、柏木親子の姿が映った。俺と母の応酬が気になって、いつの間にか
「母さん、もう終わりにしよう」と俺は彼女を見下ろし言った。「心の声を聞かせてくれと頼んだ俺が馬鹿だった。そりゃあ俺だってあんたの言葉を信じて、温かい気持ちで帰途につきたかったさ。寒い富山まで来た甲斐があったな、と。残念ながらそれはもう無理だ。俺はあんたの『愛している』という言葉を受け入れることはできない」
そこで予想外のことが起こった。母の二つの瞳が、潤いで満たされたのだ。俺の頭はえらく混乱した。彼女は涙は女の武器と考えるような軽薄な人でもなければ、嘘泣きをするような青臭い人でもない。
母の端正な顔が崩れ、瞳から涙がこぼれ落ちるまで、時間はかからなかった。この人の泣き顔を見るのはこれが初めてだった。まさかこのようなかたちで涙の別れになろうとは、思いもしなかった。
俺は一度天を仰いでから隣の和室に視線を転じた。
すべての用件が終わったことを柏木に伝えようと口を開きかけたその時、文字通りドタバタと騒がしい足音が後方から、廊下から、聞こえてきた。廊下を蹴っているのは、どうやら
「ママをいじめるなっ!」
双子の男の子の方が、母に近づき吠えた。母を守るように大きく手を広げ、俺を睨み付ける。
「僕のママから離れろっ!」
――誕生を祝福されし子。
その女の人はまぎれもなく君の母親だ。君が正統、俺は異端。君が勇者、俺は外敵。そしてこれが君の運命、これが俺の運命だ。
母は笑顔をむりやり作り、小さな勇者を安心させようと試みた。しかし彼の心の炎は簡単に消えなかった。彼を駆り立てているのは、俺の中の悪しき獣を焼き殺す、正しい炎だ。
「帰れよ、悪い奴っ! ママを泣かせる悪い奴っ! 出て行け! このおうちから出て行けっ!」
彼は限られた
もう一つの足音の主は、柏木に狙いを定めていた。双子の女の子の方だ。見れば、手には銃のようなものを持っている。
「バカ!」と彼女は柏木に対して声を張る。「パパはこんなに赤くなかった! なんで叩くんだ! バカバカ!」
少女は勇敢にも柏木に銃口を向け、引き金を引いた。発射されたのは、水だった。
「ちょ、ちょっと!」
柏木は慌てて逃げ惑うも、少女は柏木を逃すまいと追い回す。恭一は止めない。少女は水鉄砲を撃ち続ける。小さな勇者たちに大きな拍手を。これがもし見世物ならそんなアナウンスがあってもおかしくない場面だった。
「あたし、足が痛いんだって! 走らせないでよ! わかったわかった! 帰るから! ごめんね!」
柏木は両手を挙げて降参しながら、こちらに目配せした。「もう行こう」ということだ。俺は無言でうなずいた。
見納めに母の顔を
「ママをいつまでも守ってやるんだぞ。これは男の約束だからな」