俺と柏木は
閑散とした車内にはどことなく気味の悪い静けさが漂っていて、間違ってあの世にでも向かうバスに乗ってしまったのではないかと疑いもしたけれど、もちろんそんなわけはなかった。
道路標識はいたって冷静に市の中心部が近付いていることを告げていたし、バックミラーに映る顔を見るかぎり運転手は生気を持った真っ当な人間だった。
すっかり陽は落ち、雪が夜空に舞い始めていた。北陸で迎える、最初で最後の夜だ。
俺たちはあの家を出て以来、ひとことも口をきいていなかった。示し合わせることなく自然とそうなった。無理もない。おびただしい量の情報が二人の頭に流入してきたばかりなのだ。心だってささくれ立っている。頭の中を整理し、心を落ち着かせる段階を踏む必要があった。
そういう意味では、スマホの電子音もサラリーマンのいびきも年寄りの愚痴もないローカルバスの車内は、まずまずの環境だった。
柏木は俺の隣で窓枠に肘をついて外を眺めている。いや、正確には何も見ていないんだろうと思う。ただそういう姿勢をとっているだけだ。その目に富山の夜の風景は映っていない。
彼女のジーンズやセーターには、依然としていくつもの染みが残っていた。水鉄砲で武装した双子の女の子によってもたらされたものだ。
寒いのだろう。行きでは脱いでいた厚手のコートを今は羽織っている。どこかで着替えたらどうだ、と提案しようかとも思ったが、本当に着替えたかったらそうしているはずだ。柏木なりに、あの家であの子に水鉄砲で撃たれた意味というものを考えたかったのかもしれない。象徴であるそれらの染みをまといながら。
なにはともあれ、俺は母親との、柏木は父親との対面を終えた。
バスはまもなく終点に到着しようとしている。今夜はこの地で宿を取らねばならない。俺は運賃を確認すると、立ち上がって網棚から二人分の荷物を降ろし、柏木の横顔に声をかけた。
「さあ、行こうか」
土曜の夜とはいえ今の時期は観光シーズンではないし、これといった地域の祭事もないことから「予約を入れずとも一泊くらいなんとかなるだろう」と高を
宿探しは難航した。思いのほかホテルの数自体が少なく、どこも満室で、計四人のフロント係に申し訳なさそうな顔をさせてしまった。降雪の中を足を引き摺りながらさまよい歩くことに対して、柏木は一切の文句を言わなかった。
俺がほっと安堵の息を漏らしたのは、午後8時過ぎのことだ。
ダメ元で入ってみた旅館で、ようやく空き部屋を確保できたのだ。中心街からやや離れたところに佇む、古めかしい宿だった。
旅館の向かいの歩道では、時間と性欲を持て余した二人組の若い男たちが道行く異性に片っ端から声をかけていた。誰も相手にしなかった。雪は激しくなりそうだった。どこの街にも馬鹿はいる。
八つ当たりのつもりなのか、彼らは宿に入る俺たちを道路越しに冷やかしてきた。「今夜はお楽しみですか」と一人が言った。「やり終わったらその女を貸してくれよ」ともう一人が言った。そして二人はげらげら笑った。死ねよ、と俺は思った。こんなどうしようもない連中にも父親と母親がいると思うと、無性に殴り飛ばしてやりたくなった。
夕食をどうするか受付で問われたが、柏木が無言で首を横に振るので、要りませんと代表して答えた。俺も食欲なんてまるでなかった。
「当宿は新鮮な山の幸を使った料理が自慢なんですよ」と向こうが空気を読まずに粘りを見せてきたので、「今度来たときに」と返し、諦めてもらった。今度なんかないことはその場にいる誰もがわかっていた。
丸々と
畳をところどころ黒く変色させているタバコの焦げ跡が嫌でも目につき、四半世紀のあいだ換気を
俺は旅行雑誌の編集者ではないけれど、客に料理をしつこく勧める以前にやるべきことがあるように思えた。もっとも、どのような不満も飲み込まねばならない。凍死の|
仲居は押し入れから布団を出して、慣れた所作で畳の上に敷き始めた。
余計な気を利かせて「一人分でもいいですかね」とかなんとか言い出されたら面倒だったが、彼女はきちんと二人分を隣り合わせに敷いた。
仕事を終えると仲居は巨体を揺らしてそそくさと部屋から出て行った。あとには、舞い上がった
「悪かったな、無駄に歩かせて」
何から話すべきか迷った後で、俺はそう言った。
「馬鹿だよねぇ、悠介は」
久々に聞く柏木の声は、耳を癒す。
「お宿の予約を取っておくのは、旅のキホンでしょうが」
弁解することにした。
「正直に言うと、もしかしたらと思ったんだよ。俺たちはそれぞれの親と和解して、『今晩はここに泊まっていけ』なんて展開になるかもしれない、って」
「ないない」柏木は笑って手を振る。
「ないよなぁ」つられて俺も笑う。自分の愚かさを笑う。
二人の笑い声が止んでしまうと、部屋には感傷的な雰囲気が漂っていた。何かを喋らないとそのムードに呑まれてしまいそうだった。
「負けたな」
「負けちゃったね」
「完敗だった」
「うん」と柏木は同意した。「でもさ、悠介はがんばったよ。本当によくがんばったよ。ここまであたしのことを連れてきてくれた。馬鹿親父のことを殴ってくれたし、記憶だって取り戻してくれた。あの二人に言わなきゃいけないこと、ちゃんと言えた」
話しながら柏木はゆっくりと体を寄せてくる。彼女は「えらいえらい」とささやいて、俺の頭を優しく撫でた。
限界だった。
朝からずっと張り詰めていた気持ちが、そこでぷっつり切れた。糸が|
「ごめん」と俺は声を詰まらせながらも言った。「みっともない。誰にも泣き顔を見せずにこの旅を終えようと決めていたのに」
「格好つけんな」と柏木は言った。「好きなだけ泣きなよ。あたしの目なんか気にしてどうすんの。あの家で泣かなかったの、悠介だけだもんね。あたしも馬鹿親父も双子も、最後には有希子さんでさえ泣いたのにさ」
「母親の涙は、予想外だった」
「ああ見えて、有希子さんも格好つける人なんだよ。悠介とよく似てる。血は争えないんだね」
血は争えない。昼間に何度それを、柏木父娘に痛感させられたことか。
「おまえたち親子にだけは、言われたくねぇよ」
柏木の笑顔が
「もうなにがなんだかわかんなくなっちまった」
格好つけんな、と彼女が言うから、弱音を吐かせてもらう。
「なにが正しくてなにが間違ってんのか。これまで俺が信じてきたもの、怒ってきたものはいったいなんだったのか。親とはなにか、子とはなにか、家族とはなにか。俺はなんのために産まれてきたのか。わかんねぇよ、なにもかも」
言い終わらないうちに、全身を温もりが包んでいた。柏木が抱擁してくれたのだと遅れて気が付く。俺たちの身長差は10cmもない。だから、彼女の肩や髪が俺の涙を受け止めた。
「だいじょうぶ」と何度も言って柏木は俺をなだめてくる。せっかくおさまりかけていた感情の暴走が再燃した。俺は泣きじゃくっていた。
柏木は強く俺を抱きしめた。背骨が痛いくらいだった。
「悠介の涙が
俺は彼女のその言葉に甘えることにした。
俺の涙が尽きるのが先か、それとも雪が降り止むのが先か、それは誰にもわかりそうになかった。