簡単に答えを返せるわけがなかった。そして母もそんな俺の胸中を察しているようだった。「こっちを選びなさい」と命じることもなければ、「早く何か言いなさい」と催促してくることもなかった。
俺は重力に逆らうのをやめて肩を落とし、首を左右に振れるだけ振った。「回答不可能」の意だ。
予想もしなかったかたちで、そして予想もしなかった人物によって、“未来の君”の正体が
いきさつはどうあれ、それは手放しで喜ぶべきなのだと思う。
なにしろずっと探し求めていた、幸せな未来へとつながる扉の鍵を入手したも同然なのだから。
あとはさっさと解錠し、扉を開け、道なりに進んでいけばいい。きっと俺を待っているのは、ささやかではあっても、輝きを放つたしかな光だ。
けれども俺は、少しも前向きな気持ちになれなかった。力が、意欲が、まったく湧いてこない。これでは、鍵穴の位置を確認することすらままならない。
それもそのはずだった。今この心を占めているのは、柏木が“未来の君”であるという事実ではなく、高瀬が“未来の君”ではないという事実なのだから。
「高瀬」
無意識に呼び慣れたその名を口にしている。彼女の耳に届くわけがないのに。
この先俺はいったい、どうすればいいのだろう?
今度君に会うとき、俺はどんな顔をすればいいのだろう?
そして俺たちの未来は、どこへ行くのだろう?
気付けば母は『未来の君に、さよなら』を適当に斜め読みしていた。
ページを小気味良くめくるその指使いに、高瀬のたおやかな姿が重なる。
それがきっかけとなって、俺ははっと我に返った。思い悩むことはいつでもできるが、今この時しかできないことがある。正月に
「母さん、突然で悪いけど、頼みがあるんだ」
彼女は無言で首をわずかに傾けた。話してみて、ということらしい。
「実は、この作品を書き直す許可が欲しくて」
「書き直す? 悠介が?」
「いや、さっきから話に出ている、直行さんの娘だ」
「悠介が想いを寄せる優等生」と母はわざわざ言い換えた。
「
「直行くんの娘さんは、小説家志望なの?」
「そういうわけじゃない」
事情を説明しなければ、と思うと、どうしても照れてしまう。
「俺のためなんだ。彼女は新人賞を取って、その副賞の賞金を、俺の大学資金にするつもりでいる」
「まぁ」
母は感嘆の声を上げると、持っていた冊子をテーブルに置き、微笑みを見せた。
「それこそ、小説みたいなお話ね。素敵じゃない」
「男としては情けなくもあるけど」それを言うと高瀬は怒るけど。
「面白いものだわ」と母はつぶやき、目を細めた。「高校時代の直行くんは、『“小説”なんて言葉を聞いただけで
そこで彼女は思い出したように小さく手を叩き、子煩悩なお父さんになってそう、と愉快そうに推測を口にしたので、「大正解」と俺は答えた。
女の尻と白球を追っていた直行くんも今や、立派な社長であり、娘思いの父親だ。
母は眉をきれいに曲げた。心なしか、5歳くらい若返っていた。
「書き直してもいいわよ。許可しない理由が見当たらないもの」
「
隣の和室から恭一の涙声が聞こえてくる。娘の晴香に、何かを熱心に
「いいのよ」と母はためらわず言った。「今はそれどころじゃないし、そもそも彼は小説に未練がないの。もしも今になって『やっぱりオレは小説で
俺は深くうなずき、母から冊子を受け取った。どうしたって、本来の質量以上の重みが両手にのしかかる。
♯ ♯ ♯
『未来の君に、さよなら』関連の話が終わってしまうと、ねじを巻き戻したみたいに、居間には再び重い空気が降りてきた。喉がからからに渇いていた。なにか飲み物が欲しかったけれど、母にそれを要求できるほど、俺たちの心の距離は縮まってはいなかった。
それにだいたい、いくら水を飲んだところで
最終バスが来る時間は、着実に近付いている。
舌にまとわりつく粘り気の強い唾液を飲み下し、俺は口を開いた。
「母さん。これがこの旅の最後の目的になる。どうか、あなたの心の声を聞かせてほしいんだ」
「
「母さん。振り返れば俺は、これまでにあなたの心の声というものを一度だって聞いたことがないんだ。俺の呼びかけに対するあなたの受け答えはいつだって事務的で、閉塞的で、必要最低限の言葉で構成されていた。まるで人工知能を搭載した人形と話しているみたいだった。
『明日は参観日なんだ』『行けない』、『晩ごはんは何?』『後でわかる』、『算数のテストで100点をとったよ』『そう』こんな感じで。
俺はけっこう辛抱強くあなたの胸元にボールを投げ込み続けたけれど、まともに返ってくるボールは結局一球たりともなかった。全球、行方不明だ。投げるボールがついに尽きかけたところで、あなたは家を出て行った。それが4年前のことだ」
試しに少し待ってみたが、母はどんな相づちも打たなかった。
「本音を言う。俺は母親であるあなたに褒めてほしかったし、叱ってほしかった。だから脇目もふらず勉強をがんばったし、あなたが大事にしていた花瓶を
「それで、私にどうしろと言うの?」
「今この状況で
彼女は少し考えてから小さく一度うなずいた。
「
「雨宿り」
母はその一語を念入りに吟味する。
「そっちの方がなんだか風情があるわね」
「そりゃどうも」と俺はにべもなく言った。作家・川岸小雪と話す時間はもうとっくに終わっている。
「どっちにしても、不本意な歩みの道中で俺という子が産まれた。それに変わりはないはずだ。そこで尋ねたい。母さん。あなたという人にとって、俺はいったいどういう存在だったんだろう?」
母は深く顎を引き、真正面を、16年前に産んだ子の目を、じっと見つめてくる。
「私にそれを言わせるの?」白黒の無声映画ならば、そんな字幕が入りそうな場面だ。言わせるんだよ、と俺は時計を見て気負う。
「俺と晴香は間もなくここを去る。もう二度と富山の土を踏むことはないだろう。もしかしたら晴香は来るかもしれないけど、少なくとも俺は来ない。だから今この時がおそらく、俺とあなたが顔を見合わせて話をする最後の機会になる。厄介な質問だとは思うよ。でもさ、
母は静かに目をつむった。そしてそのままの状態で口を開いた。
「愛すべき、存在」
俺は耳を疑った。思わず笑い出しそうになる。