「占い師が『未来の君に、さよなら』を書くよう、命じた?」
母の昔語りは続く。
「私との相性の良さを占われてすっかり上機嫌になった恭一は、これから自分がどんな小説を書くべきなのか、占い師に尋ねたの。ちょうどあの頃は、『文学の歴史をオレが塗り替える』と息巻いて新人賞に送り出した作品が二次選考であっけなく落選して、やる気もプライドもどん底まで沈んでいたから。私の励ましも受け付けないくらいに」
「占い師は悩める少年の問いかけに答えたんだね?」
「彼はとても長いあいだ
「そう言われたら、書くしかないよな」
「占い師は、かなり具体的な話を始めた。主人公は人間不信を抱えた不器用な少年。そんな彼が高校生活で出会うのは、静かで聡明な少女と、元気が売りのにぎやかな少女。彼女たちは少年に対し、それぞれが思う、幸せな未来を提示する。そんな具合に」
「それはもうほとんど、『未来の君に、さよなら』だ」
母はうなずくと、持っていた冊子を持ち上げ、顔に近づけた。
「この小説を一本の木に例えるならば、占い師の助言が
母の実家も葬儀屋だった。十代前半の彼女の前に敷かれた道も、平坦なものではなかったようだ。十代前半に限ったことじゃないけど。俺は耳をすます。
「葬儀屋とつながりがあるということで、にぎやかな少女の実家はお花屋さんに決まった。花屋は、彼女の明るいイメージにもちょうどぴったりだった。一方、静かな少女は、優等生として物語に組み込まれることになる。賢く思いやりのある優等生。少年が人間不信を克服するには、自信を持たせることが必要と考えて、彼に対し一緒に難関大学を目指そうと提案する。――そのように恭一は、占い師の言葉に忠実に、小説を書き進めていった」
母の声が突然くぐもった点に、俺は注意を払わなければいけなかった。
彼女は言う。「ただ一点を除いては」
「ただ一点を除いては」俺は思わず、繰り返している。「それはつまり、占い師のアドバイスが反映されていないところが作中にあるということ?」
母は俺から視線を外した。それから口を動かした。
「占い師は、主人公の少年を幸せな未来に導く運命の人、つまり、“未来の君”がどちらの少女であるか、実は
心臓が早鐘を打つ。意識が遠のいていく。しまいには心臓は止まり、意識は途絶えた。ような気がした。だから慌てて頬を叩いた。俺は生きていた。生きていたけど、母の目に映るのは、きっと死んだような顔だ。
――占い師は“未来の君”がどちらの少女であるか明言していた?
「この作品の結末は、悠介も覚えているでしょ?」
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「『未来の君に、さよなら』という題の通り、主人公は“未来の君”に別れを告げ、もう一方の女の子と共に歩む決断をする。でも結局、どちらの娘が“未来の君”なのか明かされないまま、物語は終わってしまう」
「恭一はね、占い師に聞いて、それを知っていたのよ。にもかかわらず、そんな曖昧な結末にしてしまった」
「どうして?」
隣の和室では、恭一が相も変わらず吠えていた。やはり娘も吠えていた。母は閉じられた
「彼は何事にも白黒つけたがる性格なのに、小説となると人が変わったように灰色決着を好むの。よく言えば『読者の想像力を刺激する、開放的な作風』、悪く言えば『後味の悪い、すっきりしない作風』というところよね。ま、私も含め、後者に感じる読者が圧倒的に多いから、小説書きとしては鳴かず飛ばずの日々が続いたわけだけど」
「占い師が月の夜に用意したのは、主人公が“未来の君”と生きる結末だった?」
「ええ」と母はしっかりした声で答えた。「少年は、“未来の君”と手を取り合って、どんな困難も乗り越えていくのです。そう、占い師は話を締めくくった。でも小説の執筆が終盤に差し掛かった頃、恭一はいきなりこんなことを言い出したの。『このままじゃ、なんかつまらないな。この少年は“未来の君”を選ばないぞ。いっそのこと、別れさせてしまおう。そうだ、タイトルは、未来の君に、さよならだ』悪い癖がまた出た、と私はその時思った」
俺は黙って母の言葉を待った。
「最後の最後で占い師の言いつけを
「それから20年が経過した今、その疑問はついに解消されたわけだね。俺の登場をもって」
母は口元を緩めて、手中の冊子に目を落とした。
「まったく、とんだ勘違いよ。これは一人の若者が名声を獲得するための恋愛小説なんかじゃない。存在それ自体が、占い師が悠介に宛てた、ひとつの大きなメッセージだったのね。恭一は、単に、占い師の伝言を託されていただけだった」
俺は思わず卓に肘を突き、額に手を当てた。一方母は髪をかき上げ、そのままの状態でこちらの様子をうかがっていた。
彼女が次に言いたいことはわかる。「どうする、悠介、この先を話す?」だいたい、そんな感じだ。明らかに気を遣わせてしまっている。それは俺の望むところではない。頭を整理し、口を開く。
「占い師は、優等生と花屋の娘、どちらが主人公の“未来の君”であるか、明言していた。そして恭一がそれを聞いたということは、著者・
母はしっかり一度うなずいた。
「言い換えるならば、俺の“未来の君”が直行さんの娘なのかそれとも柏木なのか、母さんは知っているということだ」
「知っているわ」と彼女は断言した。「占い師はせっかく悠介に答えを教えてあげていたのにね。恭一がメッセンジャーの務めを
俺の胸はいつしか、高瀬と柏木がこの一年で聞かせてくれた数え切れないほどの多くの言葉で埋め尽くされていた。
「私、大学に行きたいの」と言った高瀬を思い出す。
「好きだぞ、未来の旦那さん!」と言った柏木を思い出す。
「私を大学に行かせるっていうあの約束、なかったことにしていいからね」と言った高瀬を思い出す。
「親はね、子を捨てちゃだめなんだ!」と言った柏木を思い出す。
「人を想うってことは、大きな何かを背負うっていうことなんだよ」と言った高瀬を思い出す。
「愛って、何?」と言った柏木を思い出す。
「一生忘れることのない、最高のメリークリスマスです!」と言った高瀬を思い出す。
「悠介にとっては、大学を目指すことがそのまま生きることだったんだ!」と言った柏木を思い出す。
どちらかは“未来の君”で、どちらかは“未来の君”ではない。
それはとっくにわかっていたことだけど、いざ耳にするとなると、怖じ気づく自分がいる。しかしどう考えてみても、俺が取るべき選択肢は一つしかなかった。残された時間もさほどなかった。だから、深呼吸し、母の瞳を覗き込んだ。
「母さん。教えてほしい。占い師は、優等生と花屋の娘、どちらが少年の“未来の君”だと言ったの?」
凍て付くような無慈悲な時間がひとしきり流れた後で、母はそれに答えた。
「占い師が“未来の君”だと言ったのは、花屋の娘よ。どうするの、悠介。晴香ちゃんと生きていく? それとも、恭一の考え通り、彼女に別れを告げるの?」