第39話 小さな勇者たちに大きな拍手を 1


 神沢有希子と柏木恭一は富山に逃げ延びてから、とても多くのことを確認し合ったのだと思う。


 残してきた者たちがどうなろうとも、すべてを捨てて遁走とんそうしたのを後悔しないこと。


 二人は運命の糸で結ばれた男女であり、遠回りはしたけれども、元のさやに収まったこれからが本来の人生であること。


 授かった双子の子どもたちを何があっても育て、愛し抜くこと。


 誰に後ろ指をさされようとも決してくじけないこと。堂々と、生きること。


 恭一の手術が成功してもなお、二人の前には、考えるべき案件が数え切れないほど横たわっていたはずだ。それでも彼らは、ひとつひとつの命題に対し実直に向き合い、話し合い、認識を共有することで、揺るぎなき連帯感を獲得したのだろう。


 その強固なパートナーシップは、この人里離れた地に築いた幸せを脅かす外的要因を迎え撃つ際などには、見えざる無敵の盾と変わる。


 とりわけ、置き去りにしてきた子どもが成長して、自分たちを問い詰めに来るような場合には。


 俺と母は、和室で火花を散らす柏木親子をそのままにして、隣のリビングにやってきた。生活感あふれる、広く明るいリビングだ。「家族の団らん」という言葉が真っ先に頭に浮かぶ。


 俺たちはどちらから言い出すでもなく、中央に置かれていたテーブルを挟んで向かい合った。俺と彼女の間には、いつだって互いをさえぎる何かしらのものがある。現実的にしろ、比喩的にしろ。


「まず、見てほしいものがあるんだ」と俺は腕時計を見てから口早に言った。最終バスまでそれほど多くの時間は残されていなかった。悠長にたわいのない話をしている余裕はない。

「これに見覚えはあるよね?」


 バッグから一冊の冊子を取り出し、テーブルの上に置く。川岸小雪かわぎしこゆき作『未来の君に、さよなら』だ。


 それを手に取った母は、久しぶりに開いた文庫本の中からしおり代わりに使っていた恋人の写真を見つけたかのように目を細めた。

「どうしたの、これ」


「ある人の書斎にあったんだ」と俺は臆せず告げた。「母さんの高校の同級生だった直行なおゆきさん。もちろんその名前は知ってるよね?」


「ええ」


「ただの同級生じゃないことも、俺はすでに把握している」

 それを聞くと、少し頬を染めるから、母もやはり女だ。

「あなたのことをずっと想い続けていた人だ。恭一あいつ がいたから、その想いは結局実ることがなかったけれど」


 彼女はうんともすんとも言わなかった。俺は続けた。


「この作品の著者名である川岸小雪――これは、恭一のペンネームだ。“かわぎし・こゆき”という七文字を並べ替えると“かしわぎ・ゆきこ”になることからもわかるように、高校時代、あなたたちは一心同体となって小説を生み出し続けていた。恭一が執筆し、あなたが批評を与える役回りだ」


 その合間に二人が抱き合って愛を深めていたことに疑いの余地はない。いや、抱き合うのがメインで小説はおまけだったのかもしれないけど。


「いろんなことを調べたのね」と母は機械的な声で言った。


「まあね」と俺も無愛想に返した。「直行さんの書斎からは、他にも完成された作品がいくつか見つかっている。いずれも著者は川岸小雪だ。これは俺の推測になるんだけども、恭一は、あなたとの仲の良さを見せつける目的で、直行さんに小説を送りつけたんじゃないのかな。つまり、『オレたちはこれだけ多くの時間を共に過ごしているんだ』と恋敵こいがたきに誇示する意味合いで」


 母は何かを喋ったけれど、同時に隣の和室から恭一の怒鳴り声が響いたせいで、聞き取ることができなかった。母は顔をしかめ、「その通りよ」と、今度は大きな声を出してくれた。


 彼女は大声を出すことが苦手で、大声を出す人間が大嫌いだった。それなのに恭一に心を奪われているのだから、女はわからない。きっと一生わからない。


「やっぱりね」と俺は言った。

「悠介は、直行くんと交流があるのね」


「奇妙なえんがあって。そしてその縁こそが、これからの話のポイントになるんだ」

 俺は一度深呼吸してから、母が持っている冊子に目をやった。

「『未来の君に、さよなら』がどういう物語か、覚えてる?」


「もちろん」冊子が母の手によってぱらぱらとめくられる。「男の子の恋心が、二人の女の子の間で揺れ動くの」


「優等生と花屋の娘」


 母はうなずく。

「物語の鍵を握るのは、ある占い。『幸せな未来を望むならば、強い運命の絆で結ばれた“未来の君”と共に生きていかねばならない』」


「占われたのはいいけれど、主人公は、どちらの女の子が“未来の君”なのかわからない」

「ええ。優等生の娘と一緒に大学に進学するべきか、花屋の娘の言う通り実家の葬儀屋を継ぐべきか、苦悩する日々を送る」


「ねぇ母さん」と俺は姿勢を正して呼びかけた。「この小説の内容が、今の俺を取り巻く状況と酷似こくじしていると言ったら、笑わないで信じてくれるかな?」


 母は無表情のくせして俺の表情を読む。いずれにせよ、嘘やはったりの気配は嗅ぎ取れないはずだ。

「信じるわ」


「ありがとう」時間がないから助かる。「高校に上がったばかりの頃、俺も、主人公の〈ぼく〉とまったく同じように占われたんだよ。幸せになりたいなら“未来の君”と生きろ、と」


「そして、〈ぼく〉と同じように、その候補が何人かいるのね? 悠介にとって大切な女の子が」


 俺はうなずいた。

「一人は、今隣で、父親に対して怒り狂っている柏木晴香。そしてもう一人が、直行さんの娘なんだ」


 正確には月島もそのうちの一人だが、彼女の名前をここで挙げると、話ややこしくなってしまう。母は彼女のことを知らなければ、月島家に縁もゆかりもない。


「悠介が好きなのは――」

「直行さんの娘だ」と俺は正直に答えた。


「優等生が直行くんの娘さんで、花屋の娘が晴香ちゃん。そう、置き換えられる」


「置き換えられる」と俺は認めた。「ねぇ。どうして恭一あいつは、こんな予言書めいた小説を20年近くも前に書くことができたんだろう? 彼はさっき、“未来の君”という言葉を確かに口にした。そこから察するに、あの人も、俺と同じように占われたんじゃないの?」


 母は冊子を置き、それから思いがけない言葉を口にした。

「こういうことだったのね」


 俺は目を瞬くことしかできない。――こういうことだったのね?


「悠介が出逢ったのは、どんな占い師?」と彼女は尋ねてきた。


「全身を黒のマントで覆った、怪しいとしか言いようがない老人だ」と俺は混乱しながらも答えた。「怪しかったけど、いざ話してみると物腰は柔らかく、言葉遣いがやけに丁寧だったのを覚えてる」


「月の光が明るい夜の出来事」

「不気味な夜だった」


「占われたのは恭一だけじゃない。私もなのよ」母はそう言った。「今でも忘れないわ。あれは高校二年生になったばかりの春。恭一の家で晩ごはんのすき焼きをごちそうになって、帰る道すがらのことだった。私は大丈夫と断ったのに、彼は私を家まで送ると言って聞かなかった。月が照らす夜道を歩いている私たちの前に、その人は現れた。そう、悠介が会ったのと同じ、黒いマントを羽織った占い師よ。彼は私たちを呼び止め『運命が見える』と言った」


「“未来の君”」と俺は相づちを打った。


「ええ。『あなたがたは強い絆で結ばれた二人です。幸せを望むなら、決して離れてはいけません』。彼のその言葉は、若くて不安定な私たちの胸に響く何かを含んでいた。占い師はそれから、恭一に対し、私のことを大切にしなさいと助言したの。『この女性こそ、あなた様の“未来の君”です』と」


「なるほど。その日の占いから着想を得て、恭一はこの小説を執筆したんだね?」


「違うわ」

「え?」


「私が『こういうことだったのね』と言ったのは、長年私の中に居座っていた、大きな謎が解けたから。あの夜以来、私は――そして恭一も――『未来の君に、さよなら』を書かなきゃいけなかった理由がずっとわからなかったの。でも、今日になって、ようやくその理由がわかった」

「書かなきゃいけなかった? いったい、どういうこと?」


 母は再び冊子を手に取り、深いため息をついた。そして言った。

「その占い師なのよ。この小説を書くように命じたのは」