それを聞いた柏木の動きといったら、俺の目が追いつかないほど迅速だった。
気付いた時にはすでに、恭一が着ているスウェットが水浸しになっていた。彼は卓上に自分が残していた氷のうを、激昂した娘に投げつけられたのだ。
そのようにやっと状況を把握したと思ったら、もう柏木のしなやかな体は卓上にあった。彼女は座卓を踏み越え、対岸の父親につかみかかった。
「ふざけるな! なにが道草だ! どこまであたしたちのことを馬鹿にすれば気が済むんだ、この野郎!」
「うるせぇわ! 人生なんて一度っきりなんだ。次もやり直しもねぇんだ! 誰に文句を言われようと、幸せに生きたモンが勝ちなんだよ! 思うままの生き方を望んで何が悪い!」
柏木は強引に恭一を押し倒す。彼女の背中からは、今にも湯気が立ち上りそうだ。
「道草とわかっていて、なんで子どもを作った!? 愛し通せないなら、無責任に子どもなんか作るなよっ!」
「誰が『愛してない』なんて言った!? オレはおまえも母さんも愛していた! いや、今だってそうだ! おまえたちを忘れたことなんか、
「嘘つけ!」
「嘘じゃねぇ!」
「あんたが愛とか言うな!」
「言うわ! オレが愛してると言ったら、それは愛なんだ!」
「ああっ!」柏木は激しく髪の毛を
恭一はぐっと体を起こし、骨張ったいかつい手を娘の肩に乗せた。
「晴香! オレが伝えたいことがまだわかんねぇのか! 悔しかったら、とことん生きてみやがれ! 生き続けて幸せになって、見返してみろよオレを! てめぇが心に思い描く未来へ向けて、道草なんか食わないように、真剣に、必死に、毎日を生きるんだよ! そうしたら、『生きていることが恐い』なんて、愚にも付かないことは思わなくなるはずだ! 人間ってのはな、産まれただけで、生きているだけで、価値があるんだよ!」
幼少期から死と隣り合わせで生きることを余儀なくされ、青春期に未来を一旦奪われた30代後半の男の言葉は、決して小さくない説得力を伴って俺の鼓膜を震わせた。無論、感情的には聞き流したいところではあった。気付けば俺は静かに舌打ちしていた。
「うるさいうるさいうるさい!」
柏木は肩に置かれた手を素早く払いのけると、そのままの勢いで父親に平手打ちした。俺が代理を果たさなくても、結局恭一は殴られる定めだったらしい。
「何しやがる! 親に手を上げるなんざ、最低の娘だ、おまえは!」
それからは、“取っ組み合い”と呼ぶにふさわしい大喧嘩が繰り広げられた。俺はその様子を座卓越しに眺めながら、「やっぱりこの二人は親子なんだな」と冷静に感じ入っていた。
彼らの似ている点は枚挙にいとまがない。
器用に見えて不器用で、図太いようで繊細で、何も考えていないようで実はいろんなことを考えている。
喜怒哀楽が激しく、考えるより行動が先で、ひとたび心に火がついたなら、まわりの迷惑なんか
柏木恭一の血はたしかに晴香へと受け継がれている。どんなにいがみ合おうとも、彼らはれっきとした父と娘だ。
そんな親子の激闘は、
もうとことん気が済むまでやり合えばいいと純粋に思ったし、そもそも「やめろ」と言ったところで聞き入れてもらえるわけがない。下手をすれば、とばっちりを食らう可能性だってある。
そして何よりも大きかったのは、雨あられと飛んでくる晴香の攻撃をあの手この手で防御し続ける恭一の顔には、娘の成長に対する素朴な喜びと、怒りを我が身で受け止めようという
それはどんな顔かと問われれば、まぎれもなく父親の顔だった。もっと的確に言うならば、母親を亡くした娘を持つ父親のそれだった。
もしかしたら、と俺は思う。もしかしたら、彼らは理解し合えるのかもしれないな、と。
もちろんそれは、今日一日だけでは無理だろう。どうしたって深い溝を埋めるための長い時間が必要とされる。
どんなに事がうまく運んでも、互いの苦悩を共有するかのような熱い抱擁を交わす瞬間は、最終のバスが来るまでには訪れないはずだ。
それでもきっと柏木は、自分の未来にとって有益な収穫を父から得て、この旅を終えるに違いない。
なにしろ元々仲の良かった親子なのだ。
さて。
そうなると、問題は俺である。
俺は視線を正面へとゆっくり動かした。
相変わらず
俺との12年間の日々を、恭一同様、道草と捉えているであろうこの女。
替えのきかない無二の幸せを噛みしめながら今を生きているはずのこの女。
この女の
これまで自分がこの女に対し
だがそれは勘違いだった。原因はむしろ俺の中にこそあったのだ。
この人が芝の上で双子に見せた、底抜けに明るい笑顔がまぶたに焼き付いていたせいもあるだろう。心のどこかには、聖域を侵してしまったような罪悪感すらあった。
それでは、言いたいことも言えるわけがない。言いたいことは山ほどある。
自信を取り戻させてくれたのは、柏木だった。あるいは――世の中は皮肉に満ちていると痛感してしまうけれど――恭一だった。
俺は神沢有希子の息子だ。
そう、自分に言い聞かせる。気後れする必要もないし、
思い返せば、この一年は闘いの連続でもあった。
春以降、多くの困難が目の前に立ちふさがり、それらを俺は、仲間の力を借りながらもどうにか乗り越えて来た。
そしてこの女との対決は、おそらく一年の最後の闘いになるだろう。
俺は一人で挑まねばならない。ある意味、最強の敵に。しかし今ならば、一人でだって互角以上に渡り合えるはずだ。何も臆することはない。俺だって、この人の
「母さん」と俺は静かに声をかけた。「ふたりきりで話せないかな?」