「柏木、おまえ、記憶が戻ったのか!?」
「そうみたい」
柏木は全身からありったけの陽気を放っていた。おかげで三月の北陸に今自分がいることを忘れそうになる。
「思い出しちゃったよ、あれもこれも、もう全部!」
彼女の担当の医師は、もう一生記憶が戻らない可能性にまで言及していた。実際、転落事故から三ヶ月が経っても部分的な回復さえ見られず、俺は“最悪の事態”を覚悟し始めていたところだった。
それだけに、嬉しい。肩の力が抜けた。
「久しぶりだね、悠介」
柏木の巨峰みたいな大きな目にも、見覚えのある厚かましさが戻っていた。
「『悠介君』って呼ばれる違和感も、最近はだいぶ
「なによ、記憶のないあたしの方が良かったって言いたいわけ?」
「そんなわけないだろ」本当、そんなわけない。「ところで、この数分の間にいったい何があったんだ? 記憶を呼び戻す、きっかけみたいなものがあったんだろう?」
「きっかけ。そうだねぇ、
「怒り?」
「悠介と有希子さんの会話を聞いてたら、腹が立って仕方なかったんだ」と彼女は言った。「そしてその怒りって、どことなくなつかしかったんだ。前にも同じ怒りを覚えた気がしたんだよね。そしてすぐに『気のせいじゃない』ってわかった。思い出したの。記憶をなくす前、悠介から夢まで奪った有希子さんに対して、自分がめちゃくちゃ腹を立てていたことを」
頭の中で疑問符が大量発生していた。
「そうは言うけど、おまえは俺の大学進学にはずっと反対の立場だったじゃないか」
「馬鹿ねぇ」と柏木は肩をすくめて言った。「あたし、心では、悠介が大学に行くことを応援してたんだよ」
「え?」
「だって悠介、大学の話をする時はいつも真剣なんだもん。真剣な男ってさ、女からするとやっぱり格好良いんだよ、うん。好きな人が本気で夢を追ってるのに、それを応援しないわけにはいかないでしょ」
「柏木……」
「ま、とにかく、その怒りが記憶の扉を開く鍵だったみたい」と彼女は続けた。それから人差し指を耳の上に当てて、解錠する仕草をした。「扉は開いて、次から次へと記憶が戻ってきた。悠介のことが好きだったこと。優里たちのこと。夏にバンドを組んだこと。秋に公園の土管の中でラーメン食べたこと。あはは。美味しかったよねぇ、あれ。またいつか外で出前呼んで、みんなで食べようね」
なんかもう、すごく騒がしい。夏祭りみたいだ。しかしこの騒がしさは、悪くない。全然悪くない。だから俺は「おかえり」と心からの思いを告げた。
「おかえりのキス、する?」
「いや、しないけど」
あうんの呼吸で返した。こういった下らない掛け合いも、久しぶりだ。
柏木はひとしきり笑うと、表情をきりっと引き締めた。
「悠介、待たせたね。そしておつかれさま。よく一人でがんばったじゃない。ここでバトンタッチ。少し休んでて」
俺と柏木の視線の
この人は俺たちのやり取りに一切口を挟まなかった。相づち一つ打たなかった。柏木の記憶が戻ったことを祝うこともしなければ、俺への好意をからかったりもしなかった。
なんだか特撮作品の悪役みたいだな、と俺は思った。変身中のヒーローには絶対攻撃を加えない、律儀なモンスターかよ、と。
柏木は自分の頬を数度叩いた。おそらく気合いを注入している。相手は強敵だ。ブランクもある。それでも俺に頼もしい笑みを寄越してから、攻撃を開始した。
「有希子さん。さっきから黙って聞いていれば、ずいぶん悠介に無神経なことを言ってくれたじゃないの! 悠介はね、こう見えても、本当にいろんなことをしっかり考えてるの。考えたうえで、大学に行きたいって言ってるんだよ!『十代のうちから働くのは嫌だし、とりあえず大学に行っとけ』っていうんじゃないんだから!」
母の表情にこれといった変化はない。柏木は続ける。
「悠介は頭だってあたしとは比べものにならないくらい良いんだ。たまに間の抜けたことも言うけど良いんだ! 哲学とか倫理学とかの難しい講義に出て、化石みたいなおじいちゃん教授の話を居眠りせずに聞いて、ちゃんと人生のためになることを吸収してくるんだから! ね?」
「え?」
柏木はちょっと自信が無かったようだ。いずれにせよ俺は肯定するしかない。
「あ、ああ。そうだな」
「だよね」彼女は満足そうな顔をした。「有希子さんさ、あなたよりあたしの方が、悠介のことをよっぽどわかってるんじゃないの? あ、しょうがないか。12年も一緒に暮らしていたって、悠介のことなんか、ちっともわかろうとしなかったんだもんね」
母の鼻がほんのわずかだが膨らんだ。要するに彼女は喧嘩を売られることに慣れていないのだ。特に柏木のように、真正面から竹槍一本で突進してくるような相手とやり合ったことなど一度もないのだろう。
柏木は唇を突き出した。
「ていうかさ、誰のせいで悠介が苦労してると思ってんの? 元を辿れば、有希子さん、あなたじゃない。あなたが家を出ていかなければ、悠介のお父さんは図書館に放火なんかしなかったし、悠介は普通の男子高校生として毎日を過ごすことができたんだよ!」
「だからそれは」母がようやく沈黙を解いた。「さっきも言った通り、あなたのお父さんを助けるために、やむを得なかったことなの。なにしろ彼の命は消えかかっていたのだから」
「はぁ?」柏木は挑発的な声を出す。「聞こえのいいことばっかり並べて、自分を正当化しないでよ。あなたの名前は
柏木はいったいどのような心境でそんな発言をしているのだろう? そう思うと俺は胸が痛んだ。母が
「それでもよかったの?」と母は柏木を
柏木はそこで何も喋れなくなった。
それを隙と取ったのか、母はなめらかに話し続けた。
「晴香ちゃん。あなた、悠介のことが好きなんだってね」
「大好きだよ」と柏木は返した。
「それじゃあ一つ質問をしてみようかしら」
母は俺の顔の
「あなたがもしも私の立場だったなら、どういう選択肢を取る? 私を晴香ちゃんに、恭一を悠介に置き換えて考えてみて。あなたは大好きな悠介を見殺しにするの?」
「しないよ!」と柏木は座卓を叩いて即答した。「子どもも捨てないし、悠介も助ける。みんながハッピーになる方法を考えて実行する!」
それを聞くと母は、まるで話にならないという風に手を振った。
「あのね、晴香ちゃん。人間が一人でできることなんて、あなたが思っている以上に限られているの。晴香ちゃんはまだ若いから、そうやって闇雲に理想を振りかざしていられるでしょうけど。あなたも私みたいに
母の言葉の端々には、愛した男の命を救うことを最優先に立ち回り、実際、その男と二人三脚で今を生きている自分に対する誇りのようなものが見え隠れしていた。
そして彼女は、“年増”と呼ばれたことに一定の不快感を覚えていたようだ。平均的な30代後半の女性と同じように。
未熟さを小馬鹿にされた柏木はムッとしたものの、すぐに言葉を返した。
「一人で無理なら、仲間と一緒にがんばるもん。あたしたちには、どんなピンチも乗り越えてきた心強い仲間がいるんだから。ね、悠介?」
俺はうなずきはしたが、複雑な心境でもあった。大人になっても例のメンバーと共に困難と闘っている姿はあまり想像したくなかった。いったいいつになったら、俺たちは明るい未来を手に入れられるのか。
俺と柏木は母の出方を待った。しかし彼女は――きっとそんなに
ほどなくして待ちくたびれたのか、「有希子さん」と柏木が声をかけた。「自分の行動を今でも後悔していないって、さっき言ったよね?」
「言ったわね」
「謝るつもりもない?」
「ないわ」
「謝ってよ」柏木は低い声で迫る。「あたしには謝らなくてもいい。あなたの言う通り、父親を助けられたのは事実みたいだから。でも、悠介にだけは謝ってよ」
何を言い出すんだ、と俺は思った。
「謝罪なんか要らないよ、別に」
「ダメ!」と柏木は一喝した。そして卓の対岸を睨み付けた。「有希子さん。悠介が一人でどれだけ大変な思いをしてきたかわかる? あなたが家を出て、お父さんが放火で逮捕されたことで、どこにも居場所がなくなっちゃったんだよ。そして孤独に
俺はその時目に映った色を欠いた風景を思い出し、唇を噛んだ。
「悠介はね、そこまで追い込まれていたんだよ。それでも中学校には通い続けた。それはどうしてだと思う?」
母は答えることができなかった。答える雰囲気もなかった。きっとそれが、柏木の
「あなたとの約束があったからに決まってるでしょうが!」と彼女は吠えるように言い、卓の中央あたりまで身を乗り出した。「あなた、小さい時の悠介に言ったんでしょう? 『大学生になるって私と約束ね』って! 悠介はその約束を守るため、生き地獄みたいな毎日をたった一人で耐えてきたんだよ! 悠介にとっては、大学を目指すことがそのまま生きることだったんだ! それなのにあなた、悠介の大学進学について、なんて言った? 諦めなさい? 考え直せ? 無謀? ふざけたこと言ってんじゃないよ、この冷徹女!」
母は何も言い返せなかった。
「もう一度言う。謝んなさいよ!」と柏木はまくし立てた。「あたしの父親の命を救ってくれたのは、認める。ありがとうね。――でも! 悠介を苦しめたのも事実なんだよ! 有希子さん、あなた、あたしのお母さんより人としてまともなんでしょ? “愛”を立派に語っちゃう人なんでしょ? 人生経験を積んで、世の中の道理をあたしよりわかってるんでしょ? だったらまず、悠介に『ごめんね』の一言くらい言ってやりなって! じゃなきゃ
母は明らかに困惑していた。黒目の動きは主体性を欠き、瞬きの回数は多くなっている。眉はねじ曲がり、肩は小さく震えていた。
ついにこの人の鉄仮面を剥がせるのか、と俺は思った。俺には見せることのなかった――柏木恭一と彼の子たちには見せていた――素顔をついに見せてくれるのか、と。
しかしその期待は呆気なく打ち破られた。この部屋と居間を遮る
その影は言った。
「おまえが謝る必要なんかねぇぞ、有希子! 今度はオレがおまえを守る番だ!」