「あの人……」とだけ柏木はつぶやき、手を髪の中に突っ込んでかき乱した。もうなにがなんだかわからなくなっているのだ。
「結果的に恭一は説き伏せられた」
俺がそう相づちを打つと、母は控え目にうなずいた。そして「殴ったのが効いたみたい」と言ってはにかんだ。
「仕方なかったの。『オレはもう死んだっていいんだ』なんて捨て鉢になって言うから。私が誰かをぶつなんて、後にも先にもあの一度だけでしょうね」
座卓の上に捨て置かれたままの氷のうが目に留まった。もうほとんど氷は溶けていた。暴力的な傾向を持たない女とその息子に揃って殴られるとは、恭一も俺に負けず劣らず、なかなか奇妙なすごろくの盤上を歩んでいる。
「私と恭一は慎重にあの街を離れる準備を始めたわ」と母は言った。「絶対に夏子さんに悟られるわけにはいかなかった。なにしろ相手は、気に食わない人間のカバンに仔猫の死骸を入れ、旦那を家に閉じ込めておくために手術を受けさせない人なのだから。計画がばれたら、
ここまで聞けば、なぜ彼らが離婚という手続きを踏まなかったか合点がいく。母が調査で得たという数々の証拠を武器にすれば、夏子さんと恭一を別れさせることはさほど難しくなかったはずだ。
しかし問題はその後だ。
母の夏子さんに対する警戒は決して過剰なものではないだろう。精神的に参っている柏木の手前言葉を濁したみたいだが、母は本当はこう言いたかったのではないか。
「殺されるかもしれない――」
幼い子どもに別れを告げず雲隠れするのが、彼らに残された唯一の選択肢だったのだ。
「それから先はすべてがうまく運んだわ」と母はほっとした表情で言った。「この富山は、恭一の手術を執刀できる外科医がいる場所の一つだった。夏子さんもそう簡単には追ってこられないでしょうしね。働き手が足りなくて困っていた、高齢のご夫婦が経営されている農場があって、私と恭一はそこで住み込みで働き始めた。とは言っても、心臓に爆弾を抱えた恭一は家の中で雑務をこなしていただけだけど。ご夫婦はとても温かい人たちで、事情を説明すると、
体内の時限爆弾が取り除かれた恭一はその後、料理の腕を活かして農場で採れた食材からパンやデザートを作り、母と共にそれらを近場の道の駅などに売り込みに行ったという。
味は申し分なかったし、見た目も独創性に優れていた。評判は口コミやインターネットを介して北陸一帯に広がり、一年を待たず老夫婦に手術費用を全額返済することが叶った。
その後独立。
人里離れた地に頃合いの住居(つまりこの愛の巣だ)を見つけ、移り住み、今に至る。
恭一の製品の売れ行きは今も順調で、トヨタのハイブリッドカーやグランドピアノを購入できるほどの潤沢な収入が家族四人を支えている。
「これならお店を出せるよ」と娘(晴香)に言われたのが嬉しくて恭一はこつこつ料理の腕を磨いていたらしいから、なんとも皮肉なものだ。いろんな意味で。
双子を妊娠し産んだ話を丸ごと省いたのは、母なりの気遣いだろうか?
「あっという間の4年だったわ」と母は言った。「恭一の製品の販路を確保するために、下げたくない頭も下げたし、罵倒や嘲笑を受けてもぐっと耐えた。私はアレルギー持ちのうえに虚弱体質だから、農作業なんかてんで向かないのだけど、とにかく必死で働いた。すべては意味のある苦労だった。彼をもう一度失うことに比べれば、どんな苦労もたかが知れていた」
もう一度、と言う時、母の声が震えたような気がした。恭一は恵まれた男だ。彼女は続けた。
「恭一なんか、今は生きていられることが当たり前になっちゃって、一日に二箱もタバコを吸う始末。調子に乗ってるのよ。まったく、頭に来るわ。もっと命を大事にしなさいよね。誰が助けてあげたと思ってるのよ」
俺は喋ることができなかった。柏木もできなかった。母は自信みなぎる眼差しを柏木に向けた。
「晴香ちゃん、あなたのお母さんの想いは、果たして愛と呼べるものだったかしら? 私は違うと思う。本当に恭一を愛していたのなら、生かそうとしなくちゃ。彼女にはその能力と義務がありながら、放棄したの。捻れた独占欲に心を占められて。もし私と再会していなければ、恭一は今頃生きていないわ。あなた、記憶はなくても、物事の分別くらいはつくのでしょう? 私と夏子さん、人としてまともなのは、どっち?」
意地悪な人だ、と俺は思った。正しいしまともだが、意地悪だ。なにもわざわざそんな聞き方をしなくたっていいじゃないか。
柏木は当然ながら答えに
「まぁいいわ」と母は語尾に余裕を
柏木は卓に
いずれにせよ、夏子さんに関する話はここで一区切りとなりそうだ。俺は卓上の遺書を手に取り、バッグに戻した。
しばらく重い沈黙が流れた後で、「高校は楽しい?」と母が当たり障りのないことを聞いてきた。当たり障りのないという日本語の使い方をなかなか覚えられない外国人にこのシーンを見せてあげたいくらいだった。
依然として恭一は部屋に戻ってこないし、柏木は隣で顔をふさいでいる。
「それなりに」と俺は最悪な部類の言葉を返した。
「
「進学校だから仕方ない。自分で望んで入った高校だし、文句なんか言っていられない」
「進路はもう決めてるの?」
「大学に進もうと思っている」
「お父さんは、賛同してくれているの?」
「父さんは家にいないよ」俺は事実を告げる。「父さんは今、刑務所にいる」
「そう」
あまりに母が落ち着いているので、俺は面食らってしまった。
「どういう理由でそんな馬鹿げた場所に父さんがいるのか気にならないわけ?」
「どういう理由でそんな馬鹿げた場所にいるの?」
やりきれず、自分のひざを平手で叩いた。
「あんたが家を出たショックで、図書館に放火したんだ」
「そう」
俺が溜め息を吐いていると、母が続けて喋った。早口だ。
「ちょっと待って、悠介。お父さんがいないのに、どうやって生活しているの?」
「父さんの貯金を切り崩している。あとは、居酒屋のバイト」
「それじゃあ、大学に行くなんて、難しいでしょう?」
「難しいよ」と俺は強がらず答えた。「今のままだと、国立大学でも一年しか在籍できないことになる」
「あのね悠介。悪いことは言わないから、大学なんか諦めなさい」
「大学に行くのが俺のただ一つの夢なんだ。そう簡単には諦められない」
母の表情がやや険しくなった。彼女は地に足がついていない若者が大嫌いなのだ。
「いくらなんでも無謀すぎるわ。世間知らずもいいところよ。一年で大学を中退して何が残るのよ?」
「なんと言われようと、俺は大学を目指す」
「今の時代、大学を出たとしても将来
「いやだね。だいたい、あんたにそんなことを言われる筋合いはない」
そう口にしたものの、実は俺は、母の勢いに呑まれつつあった。
もちろん体は大きくないし声量も小さいのだが、
だから俺は、どうしても強い態度に出ることができない。言いたいこともある。怒鳴りたい気持ちもある。しかしそれらを表に出せない。飛行機に乗っている時は、それはもうタフで勇敢な自分を思い描いていたのに。
「悠介は昔から」と言って母は優しく微笑んだ。「ちょっと人とは違うところがあった。友達なんか要らないと平気で言ったり、お誕生会に誘われても
「うるさいんだよ、
母への反論を頭で組み立てていた俺の耳に、そんな言葉が飛び込んできた。そのせいで、まとまりかけていた言葉が方々に散った。
その声がした右側を見る。
「晴香ちゃん、あのね」と年増と呼ばれた女は苦笑して言った。しかし柏木はそれを「あのね、じゃない」とすぐさま遮った。
「有希子さんって、意外にたいしたことないよね。自分のことを棚に上げて偉そうにベラベラ好き勝手喋っちゃってさぁ。なーんか、いかにも年を取った面倒臭い女って感じ。あはは、こうはなりたくないね」
母は俺に視線を向けてきた。「どうなってるの?」とでも言いたいのだろう。
柏木は大きな深呼吸をし、冬眠から目覚めたみたいな豪快な背伸びをした。そして俺の顔を見て、景気よく一度手を叩いた。
「いつまでそんなしょげた顔してんのよ、情けない! さぁて。ここからエンジン全開で反撃に打って出るよ。準備はいい?