母はまず優しい口調で柏木に質問をした。
「晴香ちゃん。あなたが育った柏木家は、あなたの目から見て、いったいどんな家庭だった?」
「わたし、悠介君みたいに手短に話せないよ? 思い出しながらでもいい?」
「かまわないわ」と母は言った。「あなたの言葉で話して」
一拍間を置いてから、柏木は話し始めた。
「うちは普通の家とはちょっと違って、お父さんが家事をして、お母さんが仕事をしていた。お父さんは重い病気だったから、心臓の。でも料理が上手で、わたしのリクエストに応じて美味しいお菓子を作ってくれた。ケーキとか、パイとか、そういうの。人前で発作が出るのを嫌がってたから、ほとんど外出はしなかったな」
母は卓の上で指を組んだ。「続けて」
「お母さんは市役所勤務。総務課って言ってたかな。けっこう活動的な人で、仕事が休みの日には、知り合いが運営してる学童保育施設のお手伝いをしていた。無償で。『子どもはやっぱりかわいい』って日曜の夜にはよく言ってた」
実は俺は、柏木の声に耳を傾けつつ、ひそかに母の顔を注視していた。
恐ろしかったのは、「子どもはやっぱりかわいい」と聞いた母の喉が、くつくつと小刻みに動いたことだった。この人はどういうわけか笑うのを堪えているのだ。
「両親の仲は良くなかったし、裕福でもなかったけど、お父さんもお母さんもわたしのことは大事にしてくれたと思う。放課後になったらお父さんは笑顔で遊んでくれたし、お母さんは夜遅くまで学校の宿題に付き合ってくれた。あたしにとってあの家庭は、大切な場所だった」
柏木が言い終えるのを見届けてから母は声をかけた。
「晴香ちゃん。お父さんの心臓の病気が、手術を要するほど深刻だったというのは、知っていた?」
当然、という風に柏木は大きくうなずいた。
「でも心臓病の中でもかなり特殊なものらしくて、保険が効かない高額な手術だから、お母さん、『私の
母は俺と柏木の間にある狭い空間をじっと見つめていた。語るべき言葉を選別しているように俺には見えた。彼女は言った。
「夏子さんの収入で、充分に手術は可能だったとしたら?」
「えっ?」柏木の声は裏返る。「どういうこと?」
「晴香ちゃん、いい? よく聞いてね。あなたのお母さんは、長いあいだ収入を少ないように見せかけて、恭一に手術を受けさせないようにしていたの」
柏木はすぐさま声を荒らげた。
「嘘だ! 何のためにそんなひどいことをしなきゃいけないの!? 仲が良くなかったと言っても、お父さんがお母さんのことを避けていただけで、お母さんはお父さんのことを好きだったんだよ? 遺書にも書いてあったでしょ? 『愛していました』って!」
「恭一への強い想いが夏子さんの中にあったのは認めるわ」と母は少しも
「なんで!?」
「夏子さんは、恭一を家に閉じ込めておくことで、自分の心を満たしていたの」
母の感情を殺した語り口が、俺の腕に鳥肌を立てた。正直、怖い、と思った。
「手術が成功して病気が完治すれば、恭一はきっと何かしらの仕事を始めたでしょう。晴香ちゃんがある程度大きくなるまでは、もしかしたら専業主夫を続けたかもしれない。そうだとしても、家の外に出る機会が手術前より多くなるのは、確実よね。……恭一はほら、魅力的な男だから。職場や外出先で自分以外の女が彼に寄りつくことを、夏子さんは恐れたのよ。あるいは――」そこで母は一旦口を閉じ、遺書に
遺書にはたしか、こうあった。
「私は何年かかってもお父さんの心に触れることはできませんでした。あまりにも大きな壁が、彼の心の前に存在していたからです」
“壁”とは、疑いの余地なく母のことを指しているのだろう。
夏子さんは恭一や母の高校時代のクラスメイトでもあったと、誰かが以前話していた(確かいずみさんだ)。
そうであるならば、恭一が母と相思相愛の青春時代を過ごしていたことを夏子さんが知らないわけがない。
母は言った。「夏子さんは独占欲の強い人だったの」
「ちょっといいかな」
俺が口を開いた。頭に浮かんだ疑問を解消しておきたかった。
「夏子さんは収入が少ないように偽っていたと言うけれど、それって、実践するのはそんなに簡単なことじゃないよな? だって、給与明細とか、預金通帳とか、バレそうな要素はいくらでもあるだろ?」
「夏子さんは自らの世界を守るために行動を徹底していたの」と母は言った。「晴香ちゃん。お母さんは市役所の総務課で具体的にどんな仕事をしていたか、聞いたことは?」
「あるよ」と柏木は素直に答えた。「えっと、市役所の職員さんの給料を――あっ」
「毎月、給料日前は忙しいと言っていたでしょう?」
柏木はばつが悪そうに「言ってた」と返した。
「夏子さんの市役所での職務は、給与計算と給与明細の作成。家族向けの、嘘の給与明細を一部作成することなんて、お茶の子さいさいよ」
柏木は何も言えなかった。もちろん俺も何も言えなかった。
「それだけじゃない」と母は続けた。「手元や銀行にお金を残さないためにどうするか。夏子さんが選んだ方法は、実際の給料と家族に申告していた給料の差額分をわざと浪費することだった。知り合いが運営してる学童保育施設のお手伝いをする休日? あはは、とんでもない。彼女が休日に励んでいたのは、
「そこまでして……」俺は思わず心の声が漏れた。
「はっきり言って、正気の沙汰じゃないわ。一人の男を自分の目の届く場所に置いておくためだけに、彼女はこんな手の込んだ真似をしていたのだから。十年以上も。どう考えたって、その先に待っているのは破滅か、それに近いものでしょうに」
「
柏木は頭が混乱しているようなので、俺が尋ねた。
「彼は落ちこぼれではあっても、決して馬鹿ではないもの」
再び母の喉がくつくつ鳴った。
「もちろん彼はおかしいと思ってはいた。でもそれを口に出すことはできなかった。なぜならあの人は、女が稼いだお金で生き長らえている自分を良しとしていなかったから。夏子さんが『手術はできない』と言えば、手術はできないのだと割り切るしかなかったのよ。ただ、底知れぬ恐怖は感じていたでしょうね。恭一が夏子さんのことを避けているように晴香ちゃんが感じたのは、無理もないわ」
「全部嘘だ」と柏木は俺にだけ聞こえる声で言った。しかしどうやら、母の話は事実として彼女の中で着実に浸透の度合いを強めているようだった。
母が言っていることは筋が通っているし、なにより即興でこんな作り話ができるとも思えない。
俺は無言のまま柏木に同情した。彼女はいまや戦友でもあるのだ。
「夏子さんが恐れていたことは、現実のものとなった」と母は続けた。「私と恭一は再び会ってしまった。4年前、あなたたちの街の病院で。私はてっきり、彼はもう手術を終え、健康的な日々を送っているものだとばかり思っていた。でも実際は違った。違ったからそうやって病院に来て、対症療法的な無意味な治療を受けていた。聞けば、彼は夏子さんと結婚したと言うじゃない。私は、裏に何かあるんじゃないかとすぐに感じた。黒々とした、何かが」
「なんでわたしのお母さんをそうやって悪者にするの? わたしの知ってるお母さんはそんな人じゃない! 一生懸命働いて、勉強を教えてくれて、優しくて、職場ではみんなに慕われている人だった! なによ、黒々した何かって!」
「あなたは真実を知らない」と母は柏木の訴えを一蹴した。「だいぶ前の話になるけどね、私と恭一と夏子さんは高校時代、同じクラスだった。夏子さんは恭一と交際している私を目の
今でも私ははっきり覚えてる。高三の春、季節外れの大雨の日、下校しようとカバンを手に取った時のことを。やけに重いなと思った。するとそこには、仔猫の死骸が入っていた。無惨にもはらわたが引き出されていたわ。うちは葬儀屋を営んでいたのでね、それは嫌がらせとしてはとても有意義だった。私は感心したわ。あなたのお母さんのおぞましいほどの黒さにね」
「仔猫の死骸? 夏子さんがそんなことを?」
俺は遺書の清らかな筆跡を思い出していた。
「彼女自身は手を汚さなかった。表向きは教師受けの良い優等生だもの。取り巻きをうまく使ったのよ」
柏木が何かを言いかけたが、「話を戻すわね」と母はそれを
「4年前、恭一と再会した私は、夏子さんの行動を密かに調べてみることにした。探偵を雇うまでもなく、あっさり真相は明らかになったわ。十年近くも家族を
逃避行を立案・主導したのは柏木恭一ではなく母だったのだ。俺は胸がざわめくのを感じながら、話の続きを待った。
「晴香ちゃん。あなたのお父さんの名誉のために言うけど、彼は私の提案をなかなか受け入れなかったのよ。『晴香を残して逃げるわけにはいかない』って。でもこの時、もうすでに彼の心臓は限界を迎えていたの。いつ命が尽きても不思議ではなかったし、生き続けるためには一日でも早い手術が必要だった。まさしく時間との闘いだった。私は彼を放っておくことだけはできなかった。助けたかった。だって一度は本気で愛した人だから」