話は長くなった。当然だ。
柏木が記憶を失った理由を説明するには、彼女が高校の屋上の
一人の人間の4年にわたる戦いを言葉にして語るのはそう簡単じゃない。アサガオの育て方を解説するのとはわけが違う。それでも俺はなるたけ丁寧に、主観を排して話をした。それが可能なのは――柏木の代弁をしてやれるのは――世界で俺ただ一人だけだ。
恭一は終始、神妙な顔つきで俺の声に耳を傾けていた。時にまぶたを閉じ、時に唇を噛んで。
「そういうわけで晴香は去年の12月、誤って屋上から転落し、記憶を失ってしまったんだ」
俺が話を終えて深呼吸すると、恭一は患部を冷やしていた氷のうを卓上に放り投げて立ち上がった。
「どこに行くの?」と母が聞いた。
「タバコ持ってくる」
「だめよ。禁煙するって誓ったばっかりじゃない」
舌打ちしながらも、恭一は諦めて再度あぐらをかいた。そして言った。
「なるほどな。それがオレが兄ちゃんに殴られた第二の理由ってわけかい。ちきしょう、こいつは面白くねぇな。おい晴香。どういうわけでおまえは『生きていること』が怖くなっちまったんだ。父さんに聞かせてみろ。おまえの口から」
「それこそが、あんたが殴られた三つめの理由だ」と俺は言ってやった。「柏木、どうする?」
「わたしが言う」と彼女は少し考えてから答えた。そしてテーブル越しに二人を睨んだ。「お母さん、死んだんだよ。あんたらがわたしのお母さんを殺したんだ」
「デタラメ言うなよ」
長い沈黙の後で恭一が発したのは、そんなどうしようもない言葉だった。平静を装ってはいるが、動揺は
「デタラメなんかじゃない!」と柏木はすかさず言い返した。「4年前、アナタが有希子さんと一緒に逃げた直後、うちの台所で首を吊って自殺したんだよ!」
「自殺――」恭一の声は消え入る。
「死んだの死んだの死んだの! もうこの世にはいないんだよ、お母さんは! 返してよ、わたしのお母さんをっ!」
何かを言いかけた恭一だったが、途中で絶句した。そして力なくうつむいた。
これが自分を困らせるための悪趣味な作り話でも茶番劇でもないことを、ようやく理解したらしい。
俺はいずみさんから預かっていた柏木の母親の手紙をバッグから取り出し、それを無言で恭一の前に差し出した。「あなたをいつでもそばで見守っています」という娘への言葉で結ばれていた、例の遺書だ。
恭一はのそりと顔を上げ、卓上の便せんを手に取った。表情の変化は、遺書を読み進めてすぐに起こった。広い眉間はしわで満ち、口元は大きく歪んだ。
「私はあなたのお父さんのことを愛していました」
その一文に心を揺さぶられたのか、と俺なりに推し量った。俺は富山に来るまでに、何度も遺書を読み返して、内容を一言一句暗記していた。
恭一は便せんを閉じ、それをそっと座卓の上に置いた。それから「すまねぇ」とつぶやいて立ち上がった。「ちょっくら席を外すわ。外の空気を吸ってくる」
母は今回ばかりは恭一の行動を止めなかった。理由も尋ねなかった。
♯ ♯ ♯
無表情の雛人形たちに見つめられているのは、あまり良い気分とはいえなかった。
しかしそれよりも不愉快だったのは、目の前の女が雛人形と同じく能面をいまだに崩さないことだ。
「よくもまぁ、さっきからそうやって涼しい顔をしていられるよね」と俺は言った。「あんたらの身勝手きわまりない行動によって、多くの人間が人生を狂わされた。彼女と彼女の母親は、その代表的な犠牲者だよ。そして今あんたは、恭一を失った母子の
母はすげなく耳たぶを数秒触ってから、喉の調子を整えた。
「私がここで取り乱して謝罪なり反省なりをすれば、晴香ちゃんは救われるの? もしくは
「開き直る気?」と柏木がなかば呆れて言った。
「そうじゃないわ」と母は即座に返した。一対二の数的不利をものともしていなかった。「結論から言ってしまえば、私は、自分のとった選択が間違っているとは思っていないし、少しだって後悔はしていないの。だから開き直るという表現は正しくないのよ」
柏木は言葉を失った。きっと彼女にとってはあまりに想定外の返答だったのだ。
「ごめんな柏木」と謝らずにはいられなかった。「俺たちが会いに来たのは、こういう人なんだよ。幸せな4年間を過ごしたことで少しは変わったかと思ったけど、何も変わってなかった。俺はまだ免疫があるからいいけど、おまえは驚いちゃったよな」
母は俺の嫌味を当然のように聞き流すと、卓上の遺書に視線を移した。
「私が読んでもいいのかしら?」
柏木はぶっきらぼうに「どうぞ」と許可した。
母は相変わらず表情ひとつ変えず遺書の文面を目で追った。やがて便せんを卓上に静かに戻してから、柏木の顔を見た。
「夏子さんが自ら命を絶ったことは本当に残念だし、それによって晴香ちゃんが苦労してきたのは気の毒だと思うわ。それでも私は、ごめんね、自分の行動を反省するつもりはないの。だって私には、そうするより他に、あなたのお父さんを救う
「わたしのお父さんを……救う?」
「そうよ。晴香ちゃん。きっと今のあなたに必要なのは、私の涙でも謝罪でもない。ただ一つ、真実を知ること」
「なんだよ、真実って」
俺だって無関係というわけではない。
「いいわ」
そこでようやく、母の表情が少し和らいだ。
「あなたたちに教えてあげる。なぜ私と恭一が何もかもを捨てるようなかたちで富山までやって来たのか。二人はそれを知るべきよね」
知るべきだ、と俺は頭でそれを認めた。俺と柏木は知らなきゃいけない。