勢いよく襖が開け放たれ、恭一が現れた。
戻ってきた彼の外見には二つの変化が確認できた。頭には白いタオルが新たに巻かれ、両の目は真っ赤に腫れている。
長年連れ添った配偶者がもうこの世にいないことを知り、男泣きする彼の姿がどうしたって思い浮かんだ。そしてタオルは何かしらの決意の証なのだろう。
恭一は俺と柏木を排他的な目で睨みつけると、肩を怒らせて母の隣まで進み、そこに腰を下ろした。
「お子さんらよぉ。途中から戸の向こうで話は聞かせてもらったぜ。数にものを言わせて、か弱いレディを追い詰めるなんざ、あまり感心できねぇな。こっからはフェアに二対二でやり合おうや」
「立ち聞きしてたんだ」柏木は煙たそうに眉をひそめた。
「おう、晴香。記憶が戻ったって言うじゃねぇか。良かったなぁ。今から赤飯でも炊いてやっか?」
「そんなもん要らないよ、馬鹿親父!」
「そうかいそうかい」
豪快に笑って娘の攻撃をあしらうと彼は、乾いた咳払いをひとつしてから俺を見た。
「ところで兄ちゃん。おまえさんの好きな食いもんは何だ?」
「は? なんだよ急に」
「あまり難しく考えんな。なにかひとつくらいあるだろうよ。明日地球が滅びるとしたら何を食う? ほら、最後の晩さんってやつだ」
母親の幸せそうな笑顔を見ただけで戻してしまう俺のデリケートな消化器が、滅びの日を前にしてきちんと機能してくれるとは思えないが、とりあえず思い付いた一品を答えることにした。
「お茶漬けだ。
「おまえ」恭一は吹き出しそうになる。「本当に高校一年生かよ。いくらなんでも渋すぎるだろ。まぁいい。茶漬けだな」
謎の問いかけは続いた。
「体のどこかに病気はあるか?」
「これといって、ない」
「それじゃ、
格好をつける場面でもない。「いいや」と俺は正直に告白した。
「つまんねぇな、チェリーかよ。オレがおまえさんくらいの頃は、そりゃもう、馬鹿のひとつ覚えみたいにやりまくりだったけどなぁ。心臓の担当医からドクターストップがかかったのは良い思い出だ」
「ちょっと」と、これは、母が尖った声で不快感を示した。しかしその頬はたちまち紅潮していく。なるほど、と俺は思った。恭一のやりまくりの相手は、この人しかいないのだ。
恭一は言った。「てことは、寂しく一人でマスをかく毎日ってわけだな」
「勝手に決めつけるな」と俺が返すと、彼は馴れ馴れしい笑みを浮かべて深くうなずいた。「男同士だ、わかってる」という風に。
「兄ちゃんよ、いったいオレが何を言いたいかというとだな。好物の茶漬けを食ってうまいと感じられて、体のどこにも痛いところがなくて、マスをかいて良い気持ちになれりゃ、それで人生上々じゃねぇかってことなんだよ。たしかにおまえさんの苦労の元凶は有希子かもしれん。でも、その有希子がおまえを産まなきゃ、どんな喜びも味わうことができなかったんだぜ? 違うか?」
ひどく極端な見解に聞こえるが、一理あるので返す言葉がない。恭一は得意になるでもなく、
「苦労のない人生なんて、ねぇんだ。どいつの人生にも同じように必ず苦労はやってくる。程度と時期の問題だ。どれだけのもんがいつ来るか、違いはそれだけだ。なぁ兄ちゃんよ、考えようによっちゃ、良かったんじゃねぇか? 中学の時にどでかいのを体験しておいて。若いうちの苦労は大人になってから必ず活きるぞ。必ず」
そこで彼は横に顔を向けた。
「そう考えていくとよ、有希子。おまえはこいつに謝るどころか、むしろ感謝されなきゃいけないくらいだよなぁ?」
母はそれに対し首を縦には振らなかった。横にも振らなかった。口元がわずかに動きかけたところで、柏木の怒りが再燃した。
「ごまかすな! それらしいことを言って、きれいにまとめたつもり? 全然納得いかない! 感謝とか、論外! どうしても自分たちの非を認めたくないみたいだけど、あなたたちのやったことは絶対に間違ってるんだから!」
「どこがどう間違ってるんだよ?」恭一は落ち着いている。
「家族を捨てて元恋人と一緒にどこかに逃げるなんて、正しいわけがないでしょ!」
「正しくないから間違ってるってか?」
「そうだよ。どう考えたって、あなたたちの生き方は間違ってる!」
「どう考えたって?」
恭一は一旦言葉を切り、休日の朝にヒゲの剃り残しを探すように
「晴香。そいつは何も考えてないから出た台詞だな。おまえももうガキじゃねぇんだ。オムツはとっくに取れてんだろ? だったら、もっといろんな角度から物事を見られるようにならなきゃいけないぜ。
完全に間違ってる生き方なんてないし、完全に正しい生き方もないんだ。あってたまるか、そんなもん。ある意味どいつも正しいし、どいつも間違ってる。100点の善人もいなけりゃ、0点の悪人もいねぇ。それが世の中ってもんだ。人の世ってもんだ。光があるから影があるし、昼があるから夜があるんだ。
ただひとつ忘れちゃいけねぇのは――どんな奴も絶対に忘れちゃいけねぇのは――オレたちはどれだけ不条理な人生を神様に割り当てられようと、可能な限り生き続けなきゃいけねぇってことだ」
そこで恭一の顔から
「それだけに、夏子が自分で命を絶っちまったっていうのが、オレは無念でならん。どんなかたちであれ、夏子には生きていてほしかった」
「何言ってんの、今更」とだけ柏木はつぶやいた。誰のせいでそうなった、と責めないのは、事の真相を知ったからか、それとも、父の声から誠実さが溢れ出ていたのを感じ取ったからか。
「夏子がオレとおまえに隠れて何をしていたか、有希子から聞いたんだろ?」
柏木はうなずいた。
「それでもオレは、夏子に感謝してるんだ。本当だぞ。裏で何をやろうが、12年ものあいだ、オレとおまえを
「話が
「わかってる!」父親も苛立っている。「仕方ねぇ、話を戻すか。晴香。とにかくだな、人間にはいろんな面があるんだよ。悪い面だけを見て、その人間を知った気になるな!」
柏木は黙っていた。黙ったまま長い髪を
「オレは有希子に謝らせることだけはさせないぞ。なぜなら、ここでは、過去のことを持ち出すのは
ふと母の顔を見れば、一度は
どうやら俺は、この二人の絆の強さを見せつけられているようだ。それこそ、世界一の名刀をもってしても断ち切れぬ、強い絆を。