「お父さん、幸せそうだ」と柏木は涙を手で拭って言った。「すごくいい顔してる。わたしたちと過ごしたクリスマスでもあんな顔してなかった。家出して、正解だったんだな」
芝の上の柏木恭一は、二人の子どもと一緒になって俺の母に手を差し伸べ、立ち上がらせていた。小柄な女一人くらい立ち上がらせるのなら自分の力だけで充分だろうに、敢えて二人の子どもに協力を求めたようだ。彼らは一家なのだ。
握りっぱなしだった右手の拳にわずかに残っていた雪の中立的な冷たさが、俺の神経を研ぎ澄まさせた。怒りをぶつけるべき相手は決まった。
「先に謝っとく」と俺は言った。「柏木。記憶をなくす前のおまえが言っていた大仕事、俺が奪っちまうわ」
俺は立ち上がり、芝の上の大男をじっと見つめた。
木の陰から飛び出しさえすれば、俺と柏木恭一の間を
柏木は何かを小さく喋ったようだったが、聞き取ることはできなかった。たとえ聞き取ることができたとしても、どんな言葉も返すつもりはなかったけれど。
それでも俺は、柏木の肩にそっと左手を置いた。健康的な骨格とは裏腹に、弱々しい肩だった。まるで今にも彼女が消えてしまうんじゃないかと心配するほどだった。そして震えている。
つられてこちらまで泣いてしまいそうだった。
しかし俺は必死に歯を食いしばってそれを
柏木の悲痛な泣き声は、幸せの真っ只中にある初対面の人間を殴るという蛮行のスタートを切るには充分な号砲だった。俺は雪面を強く蹴り、駆け出した。
屋根の上で羽を休めていたスズメたちが地震を察知したみたいに飛び立っていった。そこでようやく自分が叫んでいることに気が付いた。「あ」とも「お」ともつかない野性的な声を放ち続けていた。柏木恭一との距離がみるみる縮まっていく。
ついに
思いも寄らぬ事が起きたのはその直後だ。にわかに筋肉の一部が
「返り討ちにされたらどうするんだ」
この期に及んで、そんな危惧が俺の中に生まれていた。
相手は自分より20㎝近くも身長が高い、成熟した大人の男だ。
日夜ストリートファイトに明け暮れているわけでも、武道を習得しているわけでもない16歳の少年の攻撃を受け流すことなど、その気になれば造作もないはずだ。そのうえ彼には、彼のそばには、守るべき者たちがいる。俺への反撃は、正真正銘の正当防衛となる。
しかしながら、自分に向かってくる俺を認識した柏木恭一が見せたのは、
「ああ、この人はすべてを悟っているんだ」と俺は思った。俺の正体はもちろん、近くに成長した娘がいることも、数秒後に自分が殴られることも。
その証拠に彼の口元にはほのかな笑みが浮かんだ。俺の見間違いなんかじゃない。「よく来たな」と歓迎されているような気さえした。筋肉の緊張が解けた。この男に勇気をもらってどうするんだ。自分が嫌になる。そしてついに、彼の前に到達する。
俺は右手を一旦後ろに大きく引き、高い位置にある柏木恭一の左頬目がけて拳をひと思いに振り抜いた。
静かな山村の昼間にはちっともそぐわない、鈍く暴力的な音が響き渡る。
人を殴るのは、これが初めてだった。
やはり彼は、反撃を試みることはおろか、どんな防御行動もとらなかった。
「パパ!」といよいよ声を張り上げたのは、母だ。普段から恭一のことをその二文字で呼んでいるらしい。彼女は俺を止めるよりも恭一の心配を優先した。そして彼は口を開いた。
「かまわねぇ! 有希子!
俺は眼下にいる男を最低でもあと二発は殴らなければいけなかった。柏木ならば間違いなくそうしていたからだ。すなわち、彼女自身の分と天国の母親の分だ。この男はあと二回殴られなければいけない。
「よく似てるぜ」と柏木恭一が血色の良い歯茎を見せて言った。「オマエ、有希子にそっくりじゃねぇか。怒ると鬼みたいに怖い顔になるところなんか、特にな」
「うるせぇんだよクソ野郎!」
気付いた時には、拳を再度恭一の頬にめり込ませていた。人を小馬鹿にしたような表情と言い草が、俺から冷静さを奪っていた。
彼は顔を横に向けて、口から唾を吐き出した。そこにはいくらか血が混じっていた。にもかかわらず、「いいぞ」とわけのわからないことを言い、俺の目を見上げてきた。
「その調子だ。いつかこんな日が来ると思ってたぜ、
「俺の名前を気安く呼ぶんじゃねぇ!」
叫びながら、三度目の攻撃を食らわせた。ありふれた名前であっても、俺にとっては、両親が共同で与えてくれた数少ないものの一つなのだ。かけがえのないものなのだ。
「悠介君、もういいよ」と柏木は背後で言った。その声のおかげで、俺の体は呪術が解けたみたいにすっと軽くなった。恭一の体から起き上がり、斜め後方へと退く。おのずと、父と娘が対面を果たすことになる。
柏木はもう泣いていなかった。「お父さん」
「よぉ、晴香」
恭一は体を起こし、頭を振った。目の焦点が合わないらしい。ちきしょう、と吐き捨てるように言ってから、娘への言葉を続けた。薄笑いを浮かべている。
「ほらな、オレが予測していた通り、すんげぇ良いオンナになったじゃねぇか。これはオレのDNAが仕事したな。ははっ、感謝しろよ、晴香」
「うっさいよ」とだけ柏木は返した。記憶をなくす前の彼女なら、もうとっくに豪快な蹴りをかましているに違いない。
というか、父の姿さえも、記憶を取り戻す
この場にいる六人の中で、今何が起こっているのかうまく理解できていないのは、双子の子どもたちだろう。彼らははかったように同じタイミングで泣き始めてしまった。
母は自分が今とるべき行動を決めあぐねているようだった。
しかしこういう時はやはり、最も自分にとって大切な存在を守ろうとするものなのだ。彼女は二人の子を抱き寄せ、優しい言葉をかけると、そのまま数歩後ずさった。俺という脅威からを子たちを遠ざけるように。
自然な選択だ、と俺は感心した。
母が――いや、神沢有希子が――俺に向けてきた眼差しには、警戒と恐れが混在していた。どう前向きに解釈しても、自らが腹を痛めて産んだ子を見る目ではなかった。どちらかと言えば、不死身の悪魔でも見ている目と表現した方が正しかった。しかし俺は、不死身でも悪魔でもなかった。彼女によって限りある命を与えられた生身の人間だった。
そんな目で見ないでくれよ、と俺は切実に思った。
このようにして俺と柏木は、4年の歳月を経てついに再会を果たした。それぞれの