第36話 限りある命を与えられた生身の人間 1


 3月3日、俺と柏木は富山空港に降り立った。そして県西部へと向かうバスを何本か乗り替え、南砺市に入った。それから福野ふくの庁舎前という停留所で路線バスに乗り、一路、市の南側を目指した。


 葉山病院を退院した柏木は、記憶は戻らないものの松葉杖に頼らなくても自力で歩けるようになっていた。クリスマスの頃はベッドで絶対安静の身であったことを考えれば、驚異的な回復の早さと言っても過言ではなかった。


 目標のバス停で降りた俺たちを迎えたのは、大自然の風景だった。


 大小さまざまな山がそびえ、ゆるやかな流れの小川が何本かあり、空気は今作られたみたいにとても澄み切っていた。どことなく懐かしい匂いを、時折風が運んでくる。


 依然として多くの雪を残してはいるが、もう数ヶ月後には、サンドイッチでも持ってピクニックに訪れたくなるほど風光明媚な場所に様変わりしているはずだ。


 もっとも数ヶ月後であろうと数年後であろうと、俺がここに来ることはおそらくもう二度とないのだから、たしかめようがないけれども。


「わたしたちの親は、本当にこんなところで暮らしているの?」

 柏木は両手を大きく広げ、首を捻った。まるで無人島じゃないの、とでも言いたげだ。実際、周囲に人の気配はない。


「そのはずだ」

 そう返したものの、俺も急に自信が持てなくなって、集めた資料に今一度目を通してみた。しかし何度見ても、あらゆる情報がこの地に彼らが辿り着いたことを裏付けている。顔を上げ、そのはずだ、と今度は硬い声で繰り返した。


「それにしても、おまえの勘は見事に当たっていたんだな」

 柏木の歩調に合わせて道なりに進みながら、俺は感嘆の声を発した。

「俺たちの住む街より南で西で、東京でも都市部でもない。日本海側でなおかつ山の近く。冬にはどかっと雪が降る。すごい。完璧じゃないか」


「褒められても、わたしは覚えてないんだけどね」


「そうなんだよな」と言って俺は密かに拳を握りしめた。これは彼女に記憶を取り戻させるための旅でもある。


 さいわいなことに道は舗装されていた。通行人とは出会わなかったが、20分ほどのあいだに5台の車が俺と柏木のそばを徐行運転で走り去っていった。


 そのどれかに俺たちの親が乗っている可能性も当然あり、息を呑んだりもしたが、いずれの車両の運転手も我々とは縁もゆかりもない老人だった。


 そうしてしばらく歩き続けていると、道路から奥まったところ、約50メートル先に佇む一件の民家が目に留まった。


 俺は立ち止まって手元の資料を確認すると、深呼吸をひとつした。瞑想にも似た、静かで奥行きのある深呼吸だった。精神が落ち着くのを待って、口を開いた。


「あの家だ。あの家に、俺の母親とおまえの父親は住んでいる」


 柏木は口を強く結んで目をしばたたいた。


「行こう」と俺が言うと、彼女も「行こう」と勇敢に続いた。そして二人は歩みを再開した。


 家屋自体はこぢんまりとしているものの、彼らが所有していると思われる土地はなかなか広大だった。雪で覆われた畑があり、ビニールハウス群があり、鶏小屋があった。おまけに小ぶりなサイズの山羊までいる。


「本当に農業やってるんだ」

 柏木はそわそわした様子で視線を八方にやった。

「かなり本格的だね」


「ここで生産した食材を加工販売して、生計を立てているわけか」


 車庫には二台の車が仲良く並んで置かれている。トヨタのハイブリッドカーとピックアップトラック。どちらも比較的新しい型だ。なるほど、やはりそれなりに彼らのふところは潤っているらしい。


 家が近付くにしたがい、俺たちの四本の足は、おのずと動きが鈍くなっていた。


 それもそのはずだった。


 トマトで山盛りになったバスケットを持った中年の男女が、数秒後にもビニールハウスから現れるかもしれないのだ。そしてその男女には、俺たちとのあいだに確かな血のつながりがあるのだ。


 柏木に対し「大丈夫か?」と声を掛けてみると、彼女は平手で俺の尻を叩いてきた。


「大丈夫じゃなくたって、ここまで来たら、手ぶらで帰るわけにはいかないでしょ!」


「それもそうだな」と俺は言った。柏木の言う通りだ。進むしか、ない。


 玄関のドアに動きがあったのは、それからほどなくしてのことだった。二度三度、押して引いてが繰り返された。


 誰かが外に出ようとしている。その誰かは家族が後から来るのを待っている。そのような状況が予想できる。


 俺と柏木はアイコンタクトで意思疎通し、近くにあった大木の陰に身を隠した。いよいよだ、と激しい動悸を感じながら俺は思った。


 先に顔を見せるのは母か、それとも、柏木恭一か。首を伸ばし、玄関の様子を刮目かつもくする。


 どちらも不正解だとわかるのに、それほど時間はかからなかった。ドアを開けて飛び出してきたのは、大人ではなく、幼い子どもたちだった。二人いる。三歳くらいの男の子と女の子。きっと、双子だ。


「4年」と無意識に俺の口は動いていた。


 4年男女が寝食を共にすれば、子どもの一人や二人できていたとしても、なんら不思議ではない。その男女が互いを強く想い合っているなら、なおさらだ。


 そんなことはちょっと考えれば思い付きそうなものなのに、俺は今の今までその可能性に気づかなかった。要するに、蒙昧だった。


 しかし、この件に関してだけは蒙昧で良かったのかもしれない。


 自分を捨てて消えた母が、他のところで、他の子に対し惜しみない愛情を注いでいる。


 もしそんな想像と共にこの4年間を生きてきたならば、俺の精神はとっくに崩壊していたんじゃないだろうか?


「やっぱりな」と柏木が隣でつぶやき、小さく舌打ちをした。「子ども、いると思った」


 彼女は目の前の状況にそれほど驚いていないらしい。


 俺はこめかみに痛みを覚えながらも再び視線を玄関先に転じた。


 三月にしてはやや薄着の子どもたちの呼びかけと手招きに応じて、家の中から、一人の大人が軽やかな身のこなしで現れた。女だ。


 まさしくその人・・・に会うためにこんな場所まで来たはずなのに、どういうわけか俺の心は、その人が俺の探していた女ではないことを望んでいた。


 しかし現実はそうは都合良く動いてはくれない。子どもたちの元へ駆け出した美しい女は、俺をこの世に産んだ人だった。


「悠介君」柏木の声は重さを帯びる。「間違いないんだね? あれが有希子さんなんだよね?」


 気付けば歯が震えていた。これでは口頭でまともに答えられそうにない。俺は黙って彼女に対しうなずいた。


 母に続いて戸口から現れた飾り気のない男に、俺たちの視線は集中した。長身で筋肉質の大男だ。


「お父さんだ」と柏木は抑揚のない声で言った。


 腹立たしいことに、実物の柏木恭一は、インターネットの画像よりも数段ハンサムに見える。


 マクベス役を任される劇団員みたいに目鼻立ちはくっきりしているし、耳全体を覆うほどの長髪は決して不潔ではなく、彼の男らしさを二割ほど上昇させていた。


 見れば、二人の子どもはそれぞれ三輪車をどこからか引っ張り出して来て、両親・・に早く近くに来るよう催促している。


 今日のこの時間は、三輪車の練習をする約束をしていたらしい。


 子どもたちの積極的な姿勢に、あるいは健全な成長に、母と柏木恭一は顔を見合わせ目を細める。それからすぐに彼らは、我が子の求めに応じて歩き出した。


 雪がきれいに除かれて芝が見えている一角があり、そこで練習は始まった。男の子を母が、女の子を柏木恭一が後ろからサポートする。


 女の子・恭一組はするすると走り出したのだが、母は三輪車の不規則な動きに付いていくことができず、間抜けな格好で芝の上に倒れ込んでしまった。


 母の転倒を受け、先行していた女の子と恭一が慌てて反転し、戻ってくる。男の子も三輪車から降りて、彼らに続く。


 一家いっかだ、と俺は木の幹に身を預けながら思った。彼らは正真正銘の一家だ。


 母は顔をくしゃくしゃにして、ただ無邪気に笑っていた。その笑顔はこれ以上ないくらい安らぎに満ちていた。暖かな午後の陽光が顔を照らし、そこに彩りを添えていた。


 俺は記憶をたどってみた。もちろん彼女のそんな表情はどこにも見つからなかった。


「12年」と今度は体の芯から声がした。


 12年、神沢有希子という人と一緒に過ごした俺の記憶にないものを、にいる彼女にほんの数分で見せられてしまった。


 耳に馴染まない母の笑い声が、俺の周囲の空気までをも震わせている。


 乱れはじめた呼吸を落ち着かせるために軽く息を吐き出したその時、突然、何かが体の奥底からせり上がってくる感覚に襲われた。


 俺は思わずうめいて、たまらずその場にひざをついた。


 口から溢れ出るもので、美しい北陸の白雪が汚れる。嘔吐の見本と言うべき、完璧な嘔吐だった。


「悠介君!?」柏木はしゃがんだ。

「すまん、汚いもんを見せちまって」


「いや、それはいいけどね」

 彼女は散らばった反吐へどから目を逸らしつつ、俺の背中を優しくさすってくれる。ありがたい反面、自分が情けない。


 俺はそこで強引に笑みを浮かべた。

「ははっ、慣れない飛行機とバス移動で酔っちゃったかな」


 嘘だった。この嘔吐の本質はそんな簡単なものではない。もっとややこしいものだ。体と心が拒絶しているのだ。母の笑顔を。目の前の現実を。俺にはそれがわかる。そして柏木だって嘘に気付いているんだろう。彼女は何度も小さくうなずいて、いたわりの眼差しを送ってきた。「全部わかってるから」という風に。


 消化器の不快感が解消されていくにつれ、今度はその空白を埋めるようにどこからか怒りが込み上げてきた。


 俺は四つん這いのまま右の拳を強く握り、地面目がけて振り下ろした。加減をしたつもりはなかったけど、雪がクッションになったおかげで、拳が痛むことはなかった。


 心で自嘲する自分がいた。「やり場のない怒りだな」


 しかしほどなくしてから俺は、いや待てよ、と思い直すことになった。


「ぐすん」という鼻をすする音を耳にしたのだ。顔を上げる。柏木は芝の上の仲睦まじい一家を見ていた。そして彼女の二つの大きな瞳には、涙が浮かんでいた。


 俺を気遣ってはいるものの、辛いのは柏木も同じだ。あるいは俺以上なのだ。


 あの一見無害そうな男は、彼女をこの世に放ったまではいいが、その後に多くのものを奪ってきたわけだ。生きる意味を奪い、自らの足で歩く喜びを奪い、前を向きはじめた日々の記憶を奪い、そして最愛の母を奪った。


 ――怒りのやり場は、ないわけじゃない。