『未来の君に、さよなら』は、高校生の少年“ぼく”が主人公の恋愛小説だった。
ある日の夜、街で占い師に呼び止められたぼくは、こう告げられる。
「もしもあなたが幸せな未来を望むならば、強い運命の絆で結ばれた“未来の君”と共に生きていかねばならない」と。
ぼくは人間が嫌いで仕方なかった。自宅が葬儀屋を営んでいたことが理由で、まわりから「死神」と蔑まれてきたからだ。
しかし占いとはいえ、自らの幸せが一人の異性に
“ぼく”は不幸がちな少年時代を過ごしてきたせいもあってか、幸せになることを人一倍希求していたのだ。
「“未来の君”はあなたのすぐ近くにいる」占い師はそうも言っていた。ぼくは勇気を出して、クラスメイトたちと積極的に関わるようになっていく。
そうした高校生活を過ごす中で、彼の心は、二人の女の子の間で激しく揺れることになる。
一人はぼくと同じく大学進学を夢見る聡明な優等生で、もう一人は明るい笑顔が持ち味の元気な娘だ。元気な娘の家は小さなフラワーショップを経営していた。そこはぼくの実家の取引先でもあり、親同士は旧知の仲だった。
彼女たちは共に、ぼくに対して決して小さくない好意を抱いていた。そして彼にとって何がもっとも幸せなのか、両者にはそれぞれの考えがあった。
優等生が「大学に行くこと」だと論理的に主張すれば、花屋の娘は、「実家の葬儀屋を継ぐこと」だと感情的に力説した。
二人のいずれかが“未来の君”であることは明白で、ぼくはどちらの意見を道しるべにして幸せを目指すべきか、言い換えるならば、どちらの女の子と共に生きていくべきか、悩みに悩み抜く日々を送った。
そして彼は、高校卒業を前にして、一つの決断を下すことになる。
「ぼくは、自分の気持ちに嘘はつけない。
物語は彼のそんな台詞で締めくくられていた。
いや、〈終〉も〈完〉もないので、実際のところはどうなのかわからない。もしかしたら続きがあるのかもしれない。しかしこの先のページが存在しない以上、読者としては、ここでひとまず現実に戻ってくる必要があった。
絶えず聞こえていた筆記音がぱたりと止んだ。俺が『未来の君に、さよなら』を読んでいる間、高瀬は持参してきた英語の問題集を解いていたのだ。
時刻を確認する。通読するのに2時間かかった。120回以上目を
「高瀬の言う通りだった」と俺は言った。「これは俺が読んでおかなきゃいけなかった小説だ」
「そうでしょ?」
高瀬は問題集を閉じて、簡単な首のストレッチを行った。
「私たちの関係に、似ていなくもない」
「似ていなくもない」と俺は声の抑揚をおさえて繰り返した。
それどころかそっくりじゃないか、というのが本音だったけれど、彼女の心情を汲み取れば、それを口にはできなかった。なにしろ作中で優等生のぼくに対する恋心は、たしかなものとして描かれているのだ。
「ぼくは、俺だろ?」
「優等生は、私でしょ?」高瀬は発言をためらうでもない。
「花屋の娘は、柏木だ」
「葉山君や月島さんらしき人はいなかったね」
「ああ、言われてみれば」
ふいに、どういうわけか、ちゃんこ鍋をした際の月島の言葉が思い出された。
「親、運命、物語。そういうのって、重たいじゃない」とはじまった、あの台詞だ。「『そんなもん全部捨て去っていつでも逃げておいで』って言ってあげるのが、私の役割なんだろうね」
月島の黒々とした啓示的な瞳には、果たしてどれほど先の未来まで見えているのだろう?
いずれにせよ、今の俺は、目の前の現実から逃げ出すわけにはいかない。
「それでね、神沢君。柏木恭一さんは、どうしてこんな予言書みたいな小説を20年前に書けたんだと思う?」
予言書とは言い得て妙だ、と俺は感心した。一分ほど考える時間をもらってから、見解を口にする。
「もっとも着目すべきは、やっぱり作品内における“未来の君”というキーワードだろう。なんせ俺にとっての“未来の君”と語句それ自体はおろか、意味内容、背景に至るまで、驚くほど一致しているわけだから。似通っているとかじゃない、100%同質だ。こんなのは、いくらなんでも偶然では片付けられない。つまり柏木恭一本人か、あるいは彼の周辺の誰かが、俺と同じ提言を同じ占い師に受けていたということになる。20年前、この街で」
「実際の体験から着想を得て、小説を執筆した」と高瀬はまとめるように言った。
「そうだろうな」と俺は言った。「でも、それだと、なぜ予言めいたことが書かれているのかまでは、説明できない。すべての謎を解明するには、作者に直接尋ねるしかない」
短い沈黙のあとで、高瀬は口を開いた。
「実はね、私、この作品を書き直したいと思っているんだ」
「書き直す?」
「そう。書き直して、賞に応募するの」
「なんでまた」
「『小説を書いてみる』って秋に宣言して以来、いろんな物語のアイデアが頭に浮かぶんだけど、実際に書き始めてみると、その後が全然続かなくて」
「タカセヤ西町店で働いていた頃、たしか吉崎アゲハともそんな話をしていたよな?」
「今思うと、すごい人を相手に相談してたってことだよね」
ちなみに吉崎アゲハが描いて寄越した例の俺と高瀬の似顔絵は、鳴桜高校の秘密基地でヒカリゴケなどと一緒に飾られている。
高瀬はわざわざ冬休み中の学校に忍び込んで、それを置いてきたのだ。要するにこの冬の“冒険の証”ということなのだろう。
「私には、0から何かを生み出す才能がないみたい」高瀬は苦笑する。「ボツの連続で、ほとほと自分が嫌になっていたところにこの小説を見つけて、読んで、心の中にそれまで感じたことのない強い思いが生まれていることに気づいたんだ。使命感と言ってもいい」
「『未来の君に、さよなら』は私がリライトしなければいけない」
そんな風に俺が代弁をすると、高瀬は力強くうなずいた。
「0から1を生み出す能力はなくても、今ある1を、8とか9にはできる能力は備わっていると思うんだ。えっと、この小説を『1』って言っちゃうと、柏木恭一さんに失礼なんだけど」
「自信があるんだ?」
「ある」と彼女は言い切る。「柏木恭一さんは難しい言葉を使いすぎだから、もう少し易しい言葉に置き換えて、まずは全体をなめらかに。次に、明るいエピソードをいくつか追加して、なんとなく漂っている暗い印象を打ち消す。そして、言うまでもないことだけど、優等生の娘と花屋の娘、どちらが『未来の君』なのか明記しなきゃいけない。そして最後に“ぼく”がどちらの女の子を選ぶのかもね」
高瀬版『未来の君に、さよなら』では主人公がいったいどんな結末を辿ることになるのか、興味を引かれる反面読むのが怖くもあるが、今はそれよりも別のことが胸に引っ掛かっていた。
「俺は自分の母親を連れて逃げた男が書いた小説の力を借りて、大学へ行くことになるかもしれないわけか……」
「そういうのは、面白くないの?」
「かたちにこだわるのは、生産的ではないと自覚している」
「仕返しだと思えばいいじゃない。痛快でしょ。夢を奪った男から、夢を取り返すんだよ!」
「高瀬の
「私、がんばるから」と才女は意気込んだ。「ただ、ひとつだけ問題があってね」
「問題?」
「仕返しとはいっても、書き直すには、やっぱり作者である柏木恭一さんの許可が必要だと思うんだ。著作権とか、モラルとか、いろいろあるわけで。でも当の本人に会えないんじゃ、交渉のしようがないよね」
「いや、会うんだ」と俺は反射的に答えていた。
「えっ!?」
とうとう高瀬にも、富山行きの件を話さなければいけない時が来たみたいだ。罪を告白するようで気が重いが、ここは腹をくくるしかない。
「柏木恭一と俺の母親は今、富山県の
高瀬は表情を変えなかった。それでも素早い手つきで髪を
「神沢君と晴香の二人きりで、富山に行くの?」
「思っていた以上に柏木の足の回復が早いから、3月には行くつもりでいる。柏木が記憶を取り戻すための
「そうなんだ」高瀬はうつむいた。そしてもう一度髪を梳いた。
「もうこうなったら、思い切って高瀬も富山に行くか?」と俺は言ってみた。「『未来の君に、さよなら』について知りたいことがあれば、直接柏木の親父に尋ねるチャンスでもある」
「私はいいや」と高瀬は顔を上げて答えた。「私の代理は神沢君にお願いするよ。これは神沢君と晴香の旅なんだよ。ただ、節度は守ってね」
「……はい?」
「……富山に行くってことは、日帰りじゃとても無理だよね」
「そう、だね」
事実、二ヶ月以内に光速級の乗り物が開発されない限り、一泊二日の計画である。
「ということは、どこかで泊まるんだ」
耳たぶを触る。これといった意味はない。要するに俺は、動揺している。
「晴香ともし何かあったら、私は気付かなくても、月島さんは絶対気付くんだからね」
「わ、わかってるよ」舌がうまく回らない。
「冗談はこのくらいにして」高瀬は悪戯っぽく笑った。それから言った。「神沢君。晴香をどうか助けてあげて。お願いします。晴香は私にとって、大事な友達なの。このままずっと記憶が無いなんて、寂しすぎるから」
俺は背筋を伸ばして、強くうなずいた。
「春には、みんなで花見に行こう。もちろん俺たちのよく知る柏木も一緒だ」
「春が来るのを楽しみにしてる」
高瀬に高校生活二度目の春を見せてあげられることを、俺は誇らしく感じていた。
♯ ♯ ♯
思いも寄らぬかたちで、富山へ行く目的が一つ増えることとなった。
柏木恭一が俺の母・有希子の批評を受けて書いた『未来の君に、さよなら』。
それをリライトして賞に応募する許可を取り付け、そのうえ、この書物にちりばめられた謎を解き明かさなくてはいけない。たとえどのような真相がそこから導き出されようとも。
俺は二ヶ月後、自分を捨てた母親に会いに行く。
4年ぶりの再会となる。
この旅の果てに、いったい何が待っているのだろう。
北陸の雪は、俺の目にどう映るのだろうか。