「驚かせてごめんなさい!」と高瀬は言った。そして給水コンテナの陰から気まずそうに出てきた。「大きい蜂に刺されそうになって、つい叫び声を」
毒々しい黄色いスズメバチが何事もなかったように飛び立っていった。高瀬は髪を手で整えたり、スカートの裾を直したり、ひたすらあたふたしている。
「ごめんなさい。えっと、ごめんなさい。とにかく、ごめんなさい」
高瀬は低姿勢で謝り続けた。鈍い俺はその理由がすぐにはわからなかったが、太陽はピンときたようだ。
「高瀬さん。
なるほど、そういうことか――と納得している場合では、どうやらない。
「あのね……」高瀬は口ごもった。「最初から」
「最初からっていうことはつまり……」
太陽がつばを飲み込む音が、俺にも聞こえる。
「うん。高校の自由がどうあるべきかっていう話から、なぜか胸と脚の好みの話、それと神沢君に運命の人がいるっていう話も、全部、聴いちゃった。本当に、ごめんなさい!」
俺の頭の中は放水車で白の絵の具を撒き散らしたみたいに真っ白になった。
太陽は言った。
「高瀬さん。その口ぶりと慌てようはどうやら、今日が
「あのね、本当のこと話すね。私は風紀委員なんだけど、ここ最近昼休みに屋上へ行っている生徒がいるから、注意するようにって委員会から言われていたの」
「校則違反だっけか、屋上」と太陽は言った。
風紀委員はうなずいた。「それで、最初に注意しに来たのが、このあいだ。最初は葉山君と神沢君、喧嘩してるのかと思っちゃった」
「ちょっと待てよ、高瀬さん。『喧嘩してるかと思った』ってことは……」
俺と太陽はどちらからともなく顔を見合わせる。
「そうなの! 今日の話だけじゃなくて、二人の屋上でのやりとりは全部聞いてるの。もう、本当に謝るしかないね。ごめんなさい」
「ということは」とつぶやいて太陽は唇を噛んだ。俺に裏口入学を打ち明けたことを思い出しているらしい。「オレがこの高校に入った経緯も聞いちゃったんだ?」
高瀬は後ろめたそうに首肯した。
太陽は頭を抱えた。
「オレが本当は人生に悩んでること、表向きは仲良くしている連中を友達だと思ってないこと、そして悠介が人間不信になった理由、高校に黙って居酒屋でバイトしてること、それからそれから、悠介がムッツリスケベの脚フェチ野郎だってことも全部だな?」
「最後のは神沢君に悪いよ」と高瀬は苦笑いしながら言った。俺は礼のひとつでも言おうかと思ったが、彼女はすぐに言葉を継いだ。
「最初はね! 本当に二人を注意するつもりで屋上に来たの! でもそんな私に気がつかないくらい、二人は真剣に何かを言い合っていた。私はなんだか怖くなっちゃって、そこの給水コンテナの陰に隠れたの。落ち着いたら注意する気でね。
そうしたら……その、すごく、聴き入っちゃったんだよね、二人の会話に。どっちも大きな問題を抱えていて、ぶつかり合って、それでも最後は理解し合った。正直、すごいって思った。自分と同じ歳なのに、こんなに考えて生きている人たちがいるんだ、って。
次の日の昼休みからは風紀委員としてじゃなく、私個人としてここに来るようになった。またそこに隠れれば二人の話を聞けると思って。そして気づけば給水コンテナの陰で聞き耳を立てるのが日課になってた。どの話もとても興味深かった。本当だよ? 胸とか脚とかの話だけはちょっと別だけど」
俺は太陽を肘で小突いた。
太陽も俺を肘で小突いた。
「それでね、いきなりだけど、二人にお願いがあるの!」
高瀬の瞳には強い決心のようなものが宿っていた。その凛とした眼差しもとても気高く美しく、俺の胸はざわめきたつ。
彼女は言った。「私も、二人の仲間に入れてください」
「俺たちの」と俺は言った。
「仲間」と太陽は言った。「高瀬さん。どうしてだ?」
「私ね、この高校生活で
高瀬は俺と太陽の顔をしっかりと見据えて続ける。
「この人たちと一緒にいれば、私はそれを変えられるかもしれない。そんな予感が芽生え始めた。それは日を追うごとに強くなっていった。だからお願い。私を仲間に入れて」
俺は教室での高瀬を思い返して首をかしげた。彼女は男女問わず多くの生徒と友好的な関係を築いているし、毎日笑顔を絶やさず過ごしている。授業中の態度も良く教師からの信頼も厚い。絵に描いたような優等生だ。
「
「そうだよ」太陽はうなずく。「高瀬さん、すごくいろいろ頑張ってるじゃん。何も変える必要なんてないよ」
「変えなきゃだめなの!」彼女は我を忘れたように声を荒らげた。そしてはっと我に返った。「ご、ごめんなさい、つい……」
俺と太陽は再び顔を見合わせた。聞きたいことはひとつだった。俺が代表してそれを尋ねた。
「高瀬。もしよければ、どうしても変えたい“あること”ってのはなんなのか、具体的に教えてくれないかな?」
彼女はじっくり時間をかけて考えた。そして答えた。
「なんて言えばいいのか難しいんだけど、ひとことで言えば、
「未来」と俺は目を剥いて繰り返した。
すると高瀬が太陽には目もくれず、こちらに近づいてきた。そして言った。
「二人のなかでも特に神沢君。どうしてかはわからないけれど、きみと一緒にいると、なんだか未来を変えられるような気がするの」
それを聞いて俺の体内には電撃が走った。そして老占い師の言葉が脳内で次々とよみがえった。
「あなた様ときわめて強い運命の絆で結ばれているお方がおりまする」
――はじめは何事かと思ったよ。〈運命〉だなんて。
「運命の糸が必ずやあなた様と“未来の君”を引き合わせることでしょう。どうやらこの女性も御仁のように今現在、自らの未来に生じた困難に頭を悩ませている様子でございますな。そしてその解決のため、そう遠くない将来にあなた様に助けを求めて来ることになりましょう」
――まったく、本当に来やがったよ。きちんと未来に困難を抱えてさ。
「あなた様はもうすでに“未来の君”に出会っております。心当たりがおありなのでは?」
――彼女を一目見たその時から、俺は運命に導かれていたのかもしれない。
思えばあの占いにおいては〈運命〉はもちろんだが〈未来〉もそれと双璧をなすほど、重要なキーワードだった。
高瀬は何らかの理由で、現状のままだと訪れる未来を変えなきゃという思いをその胸に秘めていた。そしてその未来とは、決して望ましいものではないのだろう。
俺の〈未来〉と“未来の君”の〈未来〉。
どちらも今のままでは、暗闇が支配する世界なのだろう。だが二人が出会うことで、そして手を取り合うことでその闇は晴れ、光の射す一つの同じ〈未来〉へ歩んでいけるのではないか?
高瀬は
――おそらく間違いない。
高瀬優里は俺の“未来の君”だ。
「未来を変えたい、か」と太陽は茶化すことなく言った。「高瀬さんにこうして頼まれちゃ、断るわけにはいかねぇよな、悠介?」
もちろん俺は迷わずうなずいた。
「それじゃ私も仲間ね」と高瀬はすがすがしい笑顔で言った。それから時計を見て慌てた。「いっけない。私、日直の仕事があるんだった。先に教室に戻るね」
高瀬は制服のスカートをひらひらさせながら、屋上の入り口へとどことなく楽しげに小走りで向かった。しかし途中で何かに気が付いたようで、足を止めこちらへ向き返った。
「忘れるところだった。神沢君、葉山君。これは風紀委員として注意します。屋上への立ち入りは校則で禁止されています。もうここへ来るのはやめてください。いいですね」
彼女は戯けたようにかしこまった声でそう言うと、手を振って今度こそ去っていった。
「いやぁ、驚いたなぁ」と太陽は俺の肩に手を置いて言った。「まさかあの優等生の高瀬さんがオレたちに仲間入りしたかったとはな。それにしても悠介よ。『神沢君。きみと一緒にいると、なんだか未来を変えられるような気がするの』だってよ。あの高嶺の花の高瀬さんにそんなこと言われて、おまえさん、惚れちまったんじゃねぇか?」
高瀬が姿が見えなくなった今でも俺の胸は激しくざわめいていた。
「おい悠介。なんとか言いやがれこの野郎。可愛かったな、高瀬さん」
「彼女なんだ」と俺は立ち尽くして言った。
「は?」
「俺の運命の人――“未来の君”は、彼女、高瀬優里なんだ」
♯ ♯ ♯
その日の夜。
俺は自室のベッドに寝っ転がり、カーテンを開け放った窓からぼんやり外を見上げていた。
月はあの占いの夜と同じく、歪みない美しい円形をこれ見よがしに誇示するかのように、空に浮かんでいる。
今日は大変な一日だった。居酒屋のアルバイト中もいつもに増して高瀬のことが頭から離れず、いくつかヘマをしてしまった。
「運命、か」
受け取りようによってはどうとでも取れるその言葉を俺は頭の中でこねくり回す。
「俺にはどんな運命が待ち受けているんだろう?」
運命とは、言うなれば、物語、と置き換えてもよいかもしれない。
「俺の物語……」
それは喜劇か、それとも悲劇か。
どれだけの登場人物が現れて、去っていくのだろう?
俺が主人公だとすれば、ヒロインは誰なのだろう?
高瀬優里だと信じていいのだろうか?
そして最後はハッピーエンドで締めくくることができるのだろうか?
それとも――。
俺は目を閉じると、自分の過去を回想し、未来を想像するよう努めた。しかし過去が思った以上に重く、意識をうまく未来に接続できない。
起き上がって、頭を数度振る。
「これまでは糞みたいな15年間だった。でもこれからの1年は、そして3年は……」
過去はもう変えられないが、こんな俺でもまだ、未来はどうにでも変えられる。その機会が与えられている。悲劇ではなく喜劇に、バッドエンドではなくハッピーエンドにしなきゃいけない。
中学生にして母も父も失い、親戚にも見放され、特別な才能もなければ、これといった特技さえなく、金銭的な危機を常にはらみ、おまけに強い人間不信を抱えている。そんな俺が幸せを手にするなんて誰が思うだろう?
面白いじゃないか、と俺は思った。
太陽に宣言した通り、足掻けるだけ足掻いてやるさ。俺をここまで追い詰めた連中を見返すような、誰も見たことがないハッピーエンドを手に入れてやる。
俺は窓越しに見える月に手を伸ばし、そんな決意を胸に刻みつけた。