「俺が小学六年生のとき、母親が家を出て行った。なんの予兆もなくある日突然、ばったりと。はっきりした理由も行き先も同行者の有無も、わからない。まぁ、ここまでなら、世間でよくある
緊張を和らげるために、背伸びをして息を大きく吐き出す。おそろしいほど効果はなかった。葉山は腕を組んだまま、こちらを凝視している。
「その一件で、父親が完全におかしくなってしまった。理不尽としか言いようのない理由で俺に八つ当たりするようになったし、飲めもしない酒を毎晩のように
飛行機が上空を通過し、重い轟音を響かせている。
俺は音が鳴り止むのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
「葉山。覚えてないか? 今から三年くらい前に市内で起こった放火事件。駅前の市立図書館が狙われただろう?」
「ああ、全国ニュースにもなったんだよな。よく覚えてるよ――って、まさか」
「そのまさかだ。犯人は俺の親父だ。逮捕されて、今は刑務所の中にいる」
告白がショッキングだったのか、葉山はすっかり目を丸くした。
「俺の母親は専業主婦で、明るいうちは図書館で過ごすのが日課だった。元々家庭をかえりみなかった母親にとっては、図書館だけが唯一気の休まる場所だったんだろう。そして親父は、母親の家出の理由は図書館にこそあると考えたんだ。それで犯行に及んだ」
俺は記憶をたどりながら、続ける。
「不幸中の幸いでけが人も死者も出なかったけれど、父親が放火で逮捕されたとなると、俺に対する世の中の目は途端に冷たくなった。自分で言うのもなんだけど、俺は子供の頃からそれなりに勉強ができて、わからない子には手取り足取り教えてあげてたりして、ちょっとした人気者だったんだ。
知っている人を見れば必ずきちんと挨拶もするから『よく出来た子』って近所の人には褒められてたりもした。でも事件以降、それこそ掌を返したように、人々は俺から離れていった」
忌まわしい思い出がよみがえり、刺すような痛みが胸を襲う。
「犯罪者の血は誰からも恐れられ、疎まれた。それまで仲良くしていた友達はもちろん、教師ですら俺とは距離を取りたがるようになった。まわりのひそひそ話は、いつだって俺を
だから俺はあの事件以降、やむなく一人でひっそりと生きてきたんだ。でもこのまま一生やさぐれて生きるつもりはない。人並みの――いや、人以上の幸せを手に入れるため、最底辺から足掻けるだけ足掻いてみるさ。居酒屋で働いて大学を目指すのも、その一環だ」
葉山は言いにくそうに口を開いた。
「その、住むところとか生活費は、どうしてるんだ?」
「さいわい持ち家の一軒家があるし、親父は逮捕されるまで不動産会社に勤めていてそこそこ貯蓄があったから、それを切り崩してなんとか生きてる」
「なんていうか」葉山は言葉を選ぶ。「月並みだが、その、大変だったんだな。人間不信になって誰とも関わろうとしなくなるのも無理はないか。なんだかオレの悩みは途端に贅沢に思えてきた」
葉山は恥じ入るように苦笑しながら、こめかみをぽりぽりかいた。
「まぁそう言うな。みんなそれぞれ背負っているものが違うんだ。俺には俺の苦悩があるように、おまえにはおまえの苦悩があるんだろう。どっちが軽い重いの話じゃない」
俺はそう応じると、右手にある0点の解答用紙を紙飛行機にして、葉山の元へ飛ばした。
「返すよ」
「おい、なんでだ?」
「俺はもう加害者側にだけはなりたくないんだ。もしおまえがこのことを口外したって、おまえの人生を破滅させるような真似はしない。いや、できない」
葉山はそれを聞くと足下に不時着した紙飛行機を拾い上げた。そして何かを決意したような眼差しでこちらへ歩みを進めてきた。
「よし、もう決まり! やっぱ神沢、おまえで間違いなかった。おまえはオレの本当の友達になれる人間だ。逸材だ! 思った通りいろいろ考えて生きてるんだな。おもしろいよ! あいつらとは全然違う! もう拒否権なんか与えないぞ。今日から俺たちはダチだ!」
「お、おい」葉山にがしっと肩を掴まれ、俺はたじろぐ。「そんな強引な……」
「神沢悠介。いいか、よく聞け。オレは長いあいだずっと本当の友達を欲していたわけだが、話を聞いていて思った。おまえにも必要なんだ、本当の友達。だから、このオレがなってやる。互いのために、それがベストな選択肢だ」
葉山の身の上話を聞き、怒りにまかせて無配慮な言葉を浴びせ、更に自分自身の境遇を打ち明ける中で、俺の対人警戒機能はいくぶん麻痺してしまったらしい。
何はともあれ、葉山のその言葉は俺の心を大きく揺さぶった。全く自分らしくないのだが、それを受けて感銘すら受けていた。
うれしいような、恥ずかしいような、こそばゆいような、不安なような。様々な思いが、浮かんでは消えていく。
ただ、この機を逃せば葉山がこだわるような「本物かどうか」は別にしても、“友達”なるものをもう一生得られないんじゃないかという気がしないでもなかった。
孤独な人生はある程度覚悟していたし、慣れっこだったけれども、心のどこかでは親しい友人を求めていたのは事実だ。
葉山太陽――大病院の御曹司にして人生の意味に悩めるドラマー、か。
「本当の友達なんて仰々しい間柄になれるかどうかはわからないけど、とりあえず、俺でよければ、話し相手くらいにならなってやる」そこでためしに俺は、微笑んでみた。「よろしく」
「ははっ、それ、笑顔のつもりかよ。硬いんだっつの」
「こ、これでも勇気出したんだぞ」
「よしっ、じゃ、オレのことは以降『太陽』って呼んでくれ、俺も『悠介』でいいよな、相棒」
彼は枯れた花さえももう一度咲かせてしまいそうな会心の笑みを見せて、言った。
♯ ♯ ♯
それからというもの、昼休みになると屋上に行ってパンをかじりながら葉山太陽と様々な議題で論を交わす日々が続いた。
テーマは身近な高校生活に関するものから政治的な色合いを含むものまで、実に多岐に渡った。
初めて太陽と話したときの第一印象は“典型的な世間知らずのお坊ちゃん”だった。しかし何度も顔を突き合わせて話すうちに、その印象は次第に薄れていった。
彼は世の中のいろんなことにアンテナを張り巡らし、きちんと自分の視座というものを持ってこの世界を見ていた。だから高校一年にしてはずいぶん視野が広かった。彼の口にする意見にはっとさせられることもあれば、自分の無知を痛感させられることもあった。
いつしか俺は葉山太陽という男をすっかり気に入ってしまっていた。
「悠介、これだけは譲れん。胸には男の夢が詰まっているんだ! 絶対に胸だ」
「いいや、脚だ。脚こそが男のロマンだ」
この日はどういうわけか「高校生活における自由とは」というテーマが巡り巡って、「女の子の一番魅力的な体の部位は胸か脚か」で我々は討論していた。
「脚はさ、なんつーか、評価の基準が一定だろ。太いより細いのが良いし、短いより長いのが良いんだろ? でも胸は違うな。大きいのはもちろんすばらしい。でも小さいのもそれはそれで味がある。形にだってこだわればそれぞれに魅力があってだな……」
「そんなことないぞ」俺は首を振って力説を始める。「細くて長ければ良い、というのはあまりにも浅はかだ。本当に美しい脚となるためにはある程度の肉付きが必要だし、長さだって上半身との兼ね合いが大事になってくる。制服の下に隠れている胸とは違って学校にいると
俺は異性の脚に対し、フェティシズムを持っている。こればかりは仕方がない。俺だって自分の趣向を自在に取ったり付けたりできるわけじゃない。
余談だが、高校に入るとたちまち女子のスカートの丈が高くなり、はからずもそわそわした日々を強いられていたりする。
「悲しいねぇ。直に見えないからこそ、あれやこれやと想像を掻き立てられるんだろ」太陽は細い目をして頭を指さした。「そしてそれを楽しむのが、男の
「何が男の嗜みだ」
「なんつーかさ、脚好きってムッツリっぽいんだよな。男が胸に惹かれるのは正当だけどよ」
「なんだよ、そのずいぶん自分に都合の良い論理は?」
「だって結局さ、究極的にはオレたちオスは自分の子を健康に産んでくれる相手を探しているわけだ。そしてヒトは他でもなく哺乳類だ。
まさか生物学的区分まで持ち出して胸の優位性を説こうとは。
「それで言うなら、脚だって健康的な身体かどうか見極めるための重要なバロメータだろうが」
「ふぅん」太陽はニヤニヤする。「本当に脚好きなのな、悠介」
「わ、悪いかよ」
「で、そんな脚フェチ悠介君が選ぶ1年H組のナンバー1美脚は誰よ?」
俺は自分のクラスの女子を一人一人思い浮かべた。答えはすぐに出た。前の席の柏木晴香だ。彼女は一級品の脚を持っている。肉付き、質感、長さ、血色、全てがハイグレードだ。俺がこれまで見てきた中で一番といってもいい。
だがそれを口にするのはやめておいた。俺が気にかけているのはあくまでも高瀬優里だ。面倒の種はできるかぎりまきたくはない。
「ノーコメント」と俺は無表情で言った。
「それでは」と太陽は楽しげに言った。「脚に限らず、悠介が気になっている女の子を答えてもらおうか」
「はぁ!? なんでそうなるんだよ。胸と脚の論争はどこにいった?」
「ははっ、今日のところは引き分けだ。いつか必ず、決着はつける。それよりほれ、誰かしらいるんだろ、若者よ」
まさかこいつ、と俺は身構えた。こいつは俺がいつも高瀬のことを眺めているのに気付いて言っているのか? と。
背中に悪寒が走った俺は、軽く
「なんで俺に気になっている人がいるなんて思うんだよ?」
「H組は1年のクラスの中でも指折りの美人揃いで知られている。健全な男子なら、お気に入りの女の子の一人や二人、いたっておかしくないだろう?」
どうやら高瀬のことを白状させるつもりで切り出した話ではないらしい。
「おい、健全な色男。それじゃあおまえにもいるってことだよな、お気に入り」
顔良し、性格良し、家柄良し。そんな葉山太陽は女子生徒にももちろん人気だ。聞くところによればなんでも数々のモテた逸話“葉山伝説”が存在する、らしい。
「言っておくが、オレは彼女は作らない主義なんだっての。フリーの方がよっぽど高校生活を満喫できるぜ」
「そんなセリフ、一度は言ってみたいね」
「さ、悠介。聞かせてみろって。何か力になれるかもしれん」
太陽は目を輝かせて俺に呼びかける。どうして人は他人の惚れた腫れたがこうも好きなのだろう。
さてどうしたものか。
揺るぎない事実として“未来の君”の占い以来、俺の心は高瀬優里一色に染まってしまっている。
俺の幸せを左右する運命の人――“未来の君”とは高瀬優里なのではないかとずっと思ってきたが、俺と彼女が接触する機会もきっかけもないまま、もうすぐ一ヶ月が過ぎ去ろうとしている。
この停滞した状況を打破するためには、いっそ太陽に全てを打ち明けるのも悪くないように思える。しかし――。
胸と脚の魅力で馬鹿馬鹿しく論を戦わせるほど打ち解けた間柄ではあるが、果たしてこの男に
言ってみればやはり「たかが占い」なのである。高瀬に限らず一人の女の子も俺に助けを求めてこないことを考えると、老占い師は青臭いガキをおちょくるため当てずっぽうをのたまった可能性だってもちろんあり得る。
それでも――。
高瀬の可憐な横顔を思い出すと胸が高鳴ってしまう自分がいるのはたしかだった。占いが当たってようが外れてようが、その“未来の君”が高瀬であろうがそうでなかろうが、彼女のことが気になって気になって仕方ないのが今の俺なのだ。
この男にすべてを話せば何かが動き出すかもしれない。あるいは葉山太陽という友人を得たことも、考えようによっては運命の導きなのかもしれない。
ならば――。
俺はあらぬ方向に波紋が発生するのを覚悟の上で、静かな湖面に石を投げ込むことにした。意を決して、あの不思議な夜の出来事を打ち明ける。
「うおおおっ!」ミミズでクロマグロが釣れたくらい、想像以上の食い付きだった。「そりゃすげぇな! ってか、なんでそんな面白いエピソードを今まで黙ってたんだよ、この野郎!」
「わ、悪い」
「それで、悠介を幸せに導くっていうその“未来の君”っていったい誰だ? 占い師のじいさんの言う通り、心当たりがあるんだろ?」
俺はゆっくりとうなずいた。
「誰なんだ?」太陽は前のめりになる。「悠介。まさかここまで話しておいて『やっぱやめた』はないよな? ほら、さぁ!」
「太陽、もう運命共同体だぞ」
「おう、どこまでも付き合うぜ」
俺は深呼吸してから
「きゃああああっ!」
空を裂くような甲高い声が屋上に響き渡った。
誰かがいる。俺と太陽しかいないはずの屋上に、女の子がいる。言わずもがな俺たちの関心は、声の正体へと向かう。
「あ、あれは!」太陽は給水コンテナの方を見やった。
彼の視線の先を見て、俺は、肝を冷やすことになった。そこにいたのは、つい今の今までその名前を述べようと頭でイメージしていた人物、高瀬優里だった。