この日の柔道場は、窓を全開にしても闘気と熱気であふれていた。
二面の畳のコートの上にはそれぞれ、土俵際の線と、中央の日本の仕切り線が黒いテープで作られたマットがしかれて、簡易的な相撲場を作り出していた。
私は仕切り線の片方に腰を落として、そんきょをしたまま小さく息をつく。
向かいの仕切り線では、ユリがウォームアップのように四股を踏む。
ぶっちゃけ、めちゃくちゃ分が悪かった。
今日は朝から一日かけてクラスマッチという名のちょっとした体育祭だった。
体育会での開会式を済ませたら、あとはそれぞれの競技テーブルに合わせて試合が行われていく。
その中で私の参加する大相撲はと言えば、この柔道場で一日がかりの取り組みが行われるというわけだ。
大相撲のリーグは六つ。
それぞれ総当たりで行うので、競技場が二面あったとしても、一日がかりの日程だ。
程よくほかの競技が終わった夕方に優勝決定戦となるので、見世物としてはちょうどいいタイムスケジュールになるけれど。
そんな優勝決定戦に絡む気のない私はというと、ユリとの約束である勝ち越しを目指して自分のリーグで力をふるっているわけだ。
リーグ内の取り組みは六回なので、勝ち越しには四勝が必要となる。
相方である優勝候補横綱のレスリング部部長さんとの稽古で多少なり自信をつけた私は、基本のまわし取りからの寄り切り相撲で勝ち星を拾いつつ、ここまで三勝一敗の好成績だった。
勝ち越しまであと一勝――というところだけど、残りの後二戦が問題だ。
片方は優勝候補のもう一人の横綱である柔道部の部長さん。
そしてもうひとりは、アヤセの職権乱用で同じリーグに放り込まれた、前場所勝ち越し成績を収めているユリである。
「星、ちゃんと約束通り頑張ってるね! あたしはうれしいよー」
ユリは、少し得意げになって鼻の下をこする。
まるで「ワシが育てた……」と言わんばかりだが、私を育てたのは二回の稽古を積んでくれた相方だ。
そこは勘違いしないでほしい。
「問題はあと一勝なんだけどね」
「まだ二戦あるんでしょ? いけるいける」
「もう一戦は横綱相手だってわかって言ってる?」
流石に横綱に勝てるわけがない。
それはもうひとりの横綱と稽古をしていたのだから、嫌でも予想がつく。
「じゃあ、あたしに勝たなきゃだね」
「そういうこと」
それでなんとなく、気が満ちたような気がした。
立ち合いの練習はしっかりできたわけではないけど、レスリングで闘いなれてる相方と繰り返し取り組むことで、ほかの選手とやる分にはずいぶんと楽というか、動きがのろく見えていた。
きっと、重いコートを脱いだら体が軽く感じる的な、そういうやつ。
「はっけよい!」
行司の掛け声で互いに見合い、呼吸が重なる。張り詰めた空気の中で、ほとんど同時に、吸って、吐いて、吸って――そして、体は真正面同士でぶつかった。
胸からどんと。
普段なら嬉しいばかりだろうけど、今はそのやわらかい感触を楽しんでるような余裕はない。
残念すぎる。
ぶつかった衝撃は互いに同じはずなのに、私のほうだけ弾かれたみたいに半歩後ずさった。
相方と稽古していた時と同じで、体幹に差がありすぎる。
ただぶつかった感触では、部長さんのそれが根をはった大木のような印象なのに対して、ユリのそれは地面に深く打ち込まれた杭のようだった。
細いけど強靭な芯があるよう。
「そいっ!」
こちらの体勢が崩れたのをいいことに、ユリはすぐさま肩をどついてくる。
相撲で言えば張り手。
衝撃で相手のリズムを崩しながら、まわしを取らせない間合いを維持されると、こっちとしては弱ったことになる。
だけど、こういう定番のパターンは初めからある程度想定はできるわけで、そのための稽古も多少積んでいる。
張り手のために突き出された相手の手に合わせて、自分の手で、はじく。
素人の張り手なら、剣道の竹刀よりも体感速度は遅い。
合わせるのはわけじゃない。
私は、ユリの腕を大きくはじくと、一気に間合いを詰めた。
もう一度彼女の胸元に、今度は全身でぶつかる。
それでも彼女の芯はぶれない。
これがチア部の体幹か。
だとしても、ようやくまわしを掴むことができた。
ユリも合わせるように私のまわしを取る。
問題はここからだ。
私が覚えた相撲は基本的に持久戦だけど、ユリ相手に持久戦で勝てる気はしない。
こいつの底なしの体力は、京都で十分見せつけられている。
今は気をうかがうしかない。
どこかで一手、ユリを出し抜ける瞬間を。
ユリは、まわしを取った手で、私の体を左右にゆさぶってくる。
重心をずらして、ちょっとでもよろけたらそのまま一気に仕掛けてくるつもりだろう。
ここが耐えどころだ。
私は、ユリに抱き着く勢いで全力でしがみつく。
両手で相手のまわしの後ろを掴む、不格好な形だけれど、倒されるよりはマシだ。
そして掴む杭が頑丈であればあるほど、私の安全も保障される。
ユリもそれを理解してか、左右に揺らすのをやめて、まわしをぐっと持ち上げた。
吊り上げ。
まわしごと体を持ち上げられた私は、そのままつま先立ちになってしまう。
足の裏の接地面が狭まるのは、それだけ重心が不安定になるということ。
踏ん張りが利かなくなった私を、ユリは一気に土俵際まで追いやった。
これはちょっと辛い。
身を返すにも、踏ん張りがきかないんじゃどうしようもないし、土俵際での競り合いはそれほど稽古を積んでいない。
素人相撲ならたいてい立ち合いで勝負の大半が決まるから、少ない時間の中で、力を入れたのはその部分だった。
とにかく、腰さえ落とせれば……ここは私の苦手な、根性の問題なのかもしれない。
せめてもの抵抗で、うずくまるように体を丸める。
そろそろ踏ん張りも限界だ。
息が苦しい。
深呼吸をしたい。
けど、今息を吸ったら力が散漫になる。
人間の体ってのは、基本的に息を吐くときに強くなって、吸うときには弱まるものだ。
ここまでかな――諦めかけたとき、なんでか部長さんの声が頭に響いた。
真っ白でつやつやしたな笑顔つきで。
「あと一回! 限界を超えて! 頑張るあなたは美しい!」
いや……そんなこと言ってないかも。
いつだかテレビで見たボディビルジムのインストラクタ-の言葉か何かが混じってるような気がする。
それでもなんだか、ちょっと笑えて、元気が出た。
私はユリにしがみついたまま、彼女の脇の下に頭を突っ込む。
そのまま首で脇を、肩で胸を、ユリの体ごとかちあげるように、ぐんと体をのけ反らせる。
「うえっ!?」
ユリの、変な驚きの声が頭上からこぼれたような気がした。
ここまで来たらあとは根性、力任せ。
逆に吊り上げ返して、てこの原理でぶん投げる。
真後ろに。
自分ごと。
私が唯一教えてもらった博打技。
決まり手「居反り」の変則型。
周りを囲っていた観客の誰かが、その正式名称を叫んだような気がした。
「ノーザンライト・スープレックスだああああ!!」
ズドン――と私とユリは、土俵際でもつれるように倒れこんでいた。
仰向けにぶっ倒れて、私はようやくひとつ息を吸った。
深く、深く、大きな息。
一分にも満たない取り組みだったろうけど、ずいぶん長いこと呼吸をしていなかったように感じられた。
それから弾かれたように起き上がって、行司の采配を見る。
軍配は私の方に上がっていた。
「っしゃオラァ!」
思わず下品なガッツポーズがこぼれた。
私はすぐに取りつくろって、咳ばらいをする。
剣道なら勝利取り消しになるところだ。
でも、それくらい気分が高まってたのは確かだと思う。
「すっごーい! 今のなに!? よくわかんないけど、気づいたら倒れてた!」
ずんと背中に重みを感じる。
遅れて起き上がったユリが、背中から抱き着いてきていた。
私は振り払う力も残ってなくて、後ろから回された彼女の手に、ただ撫でるように触れる。
「起死回生の必殺技……かな」
ぶっちゃけ決まると思ってなかったけど。
うまくいった理由を挙げるとしたら、きっと相手が油断していたからだろう。
私がこの手を使ってくるとは、夢にも思うまい。
「約束通り勝ち越しだから。これで全部チャラね」
「もちろんだよー! 何か頑張ったご褒美あげなきゃだね」
「ご褒美って――」
言いかけたところで、頬に柔らかくて湿った感触が触れた。
一瞬何事かわからなかったけど、驚いて振り返った瞬間、目と鼻の先にあった彼女の顔と向かい合う。
私は咄嗟に頬を手で覆った。
ユリが満面の笑みを浮かべる。
「ご褒美は女神のキッス……なんちて」
「は……えっ?」
ぽたりと、何かが畳の上にシミを作った。
あれ……これ、もしかして血?
それがどこからやってきたのかを確認する間もなく、私は畳の上にぶっ倒れる。
「あれ、ちょっと、星? 鼻血やばくない? もしかして、さっきので頭打った!?」
視界の端で、ユリが慌てふためくのが見えたような気がする。
そのあと保健室のベッドで目が覚めた私にとって、それは夢みたいで、実際どこまでがホントの出来事なのか今でもよくわかっていない。
少なくとも、そのあと不戦勝になった横綱との取り組みを除いても、ちゃんと勝ち越しをしていたという事実だけを除いて。