むき出しの配管と、直視するにはまぶしいくらいの照明が、目の前をくるくる回っていた。
今日の体育もクラスマッチの練習時間になって、私は何度目かわからない青天井を味わう。
「狩谷さん、だいぶ手が残るようになってきたね! あと呼吸を合わせるのがうまい!」
相方にして今場所の番付横綱であるレスリング部の部長さんは、ジムのトレーナーみたいな前向きの誉め言葉を次々と口にしながら、私が起き上がるのを手伝ってくれた。
差し出された大きくてゴツイ彼女の手を取ると、寝転んでいた体が一気に直立の状態までひっぱりあげられる。
すごい力だな。
そりゃ、真っ向勝負でかなうわけがない。
「もったいないことをしたなあ。負けん気もあるし、それを知ってたら、一年のころからレスリング部に勧誘したのに」
「されても流石に入ってなかったと思うよ」
高校では部活を頑張るつもりはなかったし。
やる気がないというのと、やる時間がないというのと、ふたつの意味で。
「わからないよ。もしかしたらレスリングの魅力に目覚めていたかも。狩谷さん、できなかったことができるようになるのは好きでしょう」
「それはまあ、そう」
「だろうね。最初に大相撲に抜擢された時より、ずいぶんと真剣に取り組むようになったから」
それはまあ、いろいろな要因というものがあるのだけれど。
でも、多少なり相撲という競技そのものを面白いかもと思い始めた気持ちはあるので、一概に否定はできない。
「でも、横綱には全く歯が立たないな」
「横綱は負けないから横綱というからね」
さらりと意識の高いことを言って、彼女はひとつ四股を踏んだ。
「狩谷さんの今回の目標は?」
「勝ち越し」
「じゃあ四勝か。うーん、頑張れなくはなさそうだけど」
クラスマッチの相撲競技は、もちろん普通の大相撲とは違う、変則的なシステムになっている。
参加者は三学年七組から各二名ずつ。
総勢四二名。
これを七人ずつ六つのリーグに分けて、その中で総当たり戦を行う。
このリーグ戦での一勝ごとにクラスマッチの勝ち点が入るため、たくさん勝てれば勝てるだけ、大きなポイントを獲得できるルールになっている。
だから、基本的な目標は勝ち越し。リーグ内で勝ち越しをすれば、ほかの競技で表彰台に立ったくらいのポイントが入るからだ。
大相撲が設立してすぐにメインタイトルみたいな扱いになっている理由がこれである。
それとは別に勝数最多二名、同率が複数いる場合は最大四名で決勝戦を行って、優勝すればさらに追加の点が入る。
この二名の選出はどのリーグからとか一切関係ない個人の戦績で決まるが、だいたいリーグ全勝が二~三名出るので、それが決勝進出の目安になっている。
ちなみに、もし最大四人の決勝枠に同率が六人も七人もいた場合、そこは公平にじゃんけんで枠を決定するルールだ。
だから勝率を食い合わないように、どこのクラスもたいてい本命が一人と、賑やかしが一人という布陣になるというわけだった。
私はその賑やかしだから、決勝へ進むことは期待されてない。
勝ち越しできれば御の字というくらいの温度感である。
「勝ち越しを目指すには、何か決め手がひとつ欲しいかもなあ。得意な決まり手でもいいし、得意な形とかでもいいし」
「そういう専門的なところは全然わかんないんだけど」
「まわしを離さない狩谷さんのやりかたなら、寄り切りが一番手っ取り早いとは思うんだけどね。とにかく全身で相手を押して、土俵の外に出すやつ」
「それは相撲中継で聞いたことある」
実況がよく口にする決まり手。
寄り切りと、あと押し出しとか?
「狩谷さん、体格は普通よりは良いくらいだから、素直な寄り切りでも五分五分は戦えるんじゃないかな」
「五分五分ね」
十分なんだろうけど、勝ち越しを目指すにはちょっとだけ不安が残る。
でも投げ技って見るからに技術が必要そうだし、足をひっかける掛け技は自分からバランスを崩しに行くようなものなので、とにかくしがみついてしぶとく残る今の形とはちょっとかみ合わない。
「あとは、どうしても勝ちたいとき用の必殺技をひとつくらい覚えてみる?」
「必殺技……? あんまり凝ったのは、今日明日じゃ習得が難しいと思うけど」
「じゃあ、言い方を変えよう。博打技だ」
博打って……なんだろう。
言葉の響きだけでちょっと怖いんだけど。
「私が試しにやってみるから、狩谷さんとりあえず受けてみて」
「ええ……」
ちょっと気が引けつつも、なし崩しに立ち合いの形をとる。
腰を下ろして、にらみ合い、どちらからともなくはっけよい。
すると、部長さんはそれまでの真正面からぶつかり合う横綱相撲のそれではなく、腰を落としたまま、地面を水平に這うみたいに、私の腰に組み付いた。
あ、これ、レスリングのやつだ。
彼女は、力をためるように腰を落とす。
何が何だかわからないうちに、次の瞬間――私の視界で天と地がひっくり返っていた。
たぶん投げられたんだと、感覚的には分かった。でもその過程が全くわからない。
とりあえず感じたのは「あ、これ死んだかも」という命の危機だけ。
きっと時間にすればコンマ数秒の浮遊感を味わった末に、私は背中からリングマットの上に叩きつけられていた。
「うはっ……!」
私は生きてるのを確かめるみたいに、大きく深呼吸をする。
大丈夫、死んでない。
辺りを見渡すと、私のすぐ隣で、同じように倒れた姿の部長さんが、ごろんと転がりながら起き上がるのが見えた。
「こんな感じなんだけど」
「ごめん、全然わかんなかった」
自分の体をぺたぺたとまさぐる。
衝撃はあったけど思ったより痛みはない。
きっと、彼女が投げるのが上手いからだろうなと思った。
「これ、プロレス技じゃないの?」
「そうだけど、ちゃんと大相撲の決まり手にもある。珍しい技だけど」
「マジ?」
「そもそも、押し出すか転ばせれば勝ちってルールなんだから、決まり手に沿った技を繰り出さなきゃいけないってこともないしね」
そう言われてしまったらそうなんだけど。
実際に昔の横綱とか、それまでなかった大胆な技を披露して、それがあとから決まり手に追加される――なんてことがあるそうだし。
「どうかな。狩谷さんは下半身もしっかりしてるし、たぶんやってやれないことはないと思うけど」
すぐには返事を出せずに、私はちょっと押し黙った。
こういう格闘技界に身を置いたことがない人間にとっては、なんというか、殺人技を覚えるくらいの思い切りが必要だった。
でも背に腹は代えられないので、私は決心して頷いた。
「よろしくお願いします」
「よしきた。じゃあ、練習用のマットでもう少しゆっくり、ひとつひとつ教えてあげよう」
部長さんは、まぶしく光る白い歯を見せて笑った。
この手の人種は笑顔で厳しい壁を越えさせようとしてくるのがちょっと怖いけど、今はそれに立ち向かわなきゃいけない時のようだ。