早朝6時。ヨウマは目を覚まし、着替える。ランニングシャツにハーフパンツ。その格好で外に出て、曇り空の下に走り出す。
「よっ」
そう挨拶したキジマと並ぶ。
「おはよ。元気?」
「おう、最高さ」
他愛のない会話を交わしながら、まだ目の覚めていない街を駆け抜けていく。1時間。それが彼のルーティンだ。
帰ってきたらシャワーを浴びた後、深雪の用意したガーズ(バナナによく似たもの)とヨーグルト、ベーコンにトーストの朝食を食べる。飲み物はオレンジジュース。感謝の言葉は忘れない。
7時30分になると、優香が起きてくる。眠い眼を擦ってリビングにやってきた彼女は、
「おはよ~」
と言って伸びをする。
「ん、おはよ」
「お、おはようございます」
返ってくる挨拶を聞き流しながら、彼女は席に着く。白い無地の寝巻だ。
「ヨウマ、今日の予定は?」
マイブームが過ぎたのか、ヨウマへの呼称は元に戻っていた。
「特になし。一日家にいるよ」
「深雪ちゃんは?」
「ききょ、今日は買出しに行かなきゃです。ヨウマさん、その……」
「いいよ、ついてく」
深雪と優香の食事は、ヨウマのものからガーズを抜いたものだ。
ふと、優香は自分がどうしてこうも平穏な朝を迎えられたのか、気になってしまった。そして、以前似たような質問をしたことも思い出す。ヨウマ曰く、
「押しかけたりしたら親父がキレるからね、マスコミは手が出せないんだよ」
とのことだった。もしここがユーグラスの縄張りでなければ、ヨウマがジクーレンの息子でなければ、連日訪れる記者に精神が疲弊しただろう、ということを彼女は考える。運がよかった。畢竟、それに尽きるのだった。
「その買い物、私もついていっていい?」
彼女の相談に、ヨウマは無表情のまま少し驚いた。
「いいけど、どうしたの?」
「いや、なんでもないんだけど、ずっと家にいるのもさ」
「そっか」
短い返事をして、彼は食事に集中する。トーストには苺ジャムを塗る。それまで含めてのルーティンだ。一口かぶりついたところ、彼は、あ、という声を出した。
「いや、予定あるや」
「そうなの?」
「刀をメンテに持っていかなきゃいけないの忘れてた。優香も見に来る? ユーグラスの縄張りだし、危なくはないと思う」
「気になる。行くけど、どこまで?」
「クリムゾニウムの鉱山。親父がいるはずだから──どうしたの?」
優香は瞳を震わせていた。
「お父さん──」
「ああ……」
ヨウマの納得の息は、痛い沈黙の中に響いた。
「お花、買っていこっか」
その提案に、彼女は頷いた。
◆
用事を済ませるのは、早い方がいい。その信念の下、ヨウマと優香はすぐに出かけた。冬治に連絡を取り、車を回してもらう。ヨウマも知らなかったことだが、冬治はユーグラスの社員としてコゥラを刻まれていたのだった。
開いたばかりの花屋に寄って、ニェーズの間で弔いの花とされるシェーヴェという青い花を買った。花屋の婆は暗い面持ちの優香を見て、
「大事な方が亡くなられたのですか?」
と尋ねた。
「ええ、父が」
「それはお辛いでしょうが、そう下ばかり向いていてはより苦しくなるだけにございます。思い切って上を御覧なさい。気持ちもいくらか晴れるでしょう」
「……ありがとうございます」
会話を切り捨てて、彼女は背を向けた。
「大丈夫?」
彼女は首を縦に振った。
「上、見るから」
その瞳には涙があった。それがヨウマには苦しい。胸の中に何かがつっかえて出てこないような感覚が彼を襲う。どうかその雫が零れないことを願った。理由もはっきりしないまま、彼は情動に支配された。
静かなまま、二人は車に戻る。
「どうなさいました?」
冬治の質問に、優香は
「なんでもない」
と返した。そういうわけではないだろうに、という反駁はせずに、彼は車を走らせた。
道中、慰霊碑の前で停まる。そこには出渕俊二が凶弾に斃れたことが記されていた。黙ったまま、彼女は花を捧げる。冥福を祈る気持ちは、その場の誰も共有していた。
◆
フロンティア7のクリムゾニウム鉱山は、結界の外にある。居住区の更に外に住む、ユーグラスに属さないニェーズが出入りするからだ。地球人が来てからは地球で使われる魔道兵器のエネルギー源として需要が拡大し、鉱山労働者はかなり増加した。しかし、それでもなお、フロンティア7周辺に眠る鉱床の表面をひっかいた程度しか採掘できていないという。
閑話休題。彼らは鉱山の麓にある
「そこ、そう、2個先のとこ」
ヨウマは後部座席から身を乗り出して指示を飛ばす。その通りに車は停まった。黒壁の2階建てだ。庇の日陰から3メートルの巨人がのっそりと立ち上がるのが見える。
「来たか、ヨウマと……出渕の娘さんもか」
「見学に来ちゃいました」
「まあいい。ヨウマ、刀を出せ」
彼はぬっと手を差し出す。その掌にヨウマは刀を渡した。
「随分と使い込んだな」
刀を抜いて、彼は言った。黒い刀身をいくら見てもヨウマには何もわからないが、親父が言うならそうなのだろうと納得した。
「わかるものなのですか?」
ヨウマと同じ感想を抱いて、優香が問う。
「この刀は俺のケサンを宿らせることで強化してある。使えば使うほどそれが薄れて、やがてただの金属になる。ゴス・キルモラで見れば、その強化の残り具合がわかるというわけだ」
彼女はヨウマに、
「ケサンとかゴス・キルモラとかって何?」
と囁いた。
「ケサンはヘッセを使うための力のこと。ゴス・キルモラはそれが感じられるようになる感覚のこと」
「ありがと」
ジクーレンは刀を奥に持っていく。土間だけの1階の最奥に、彼の仕事場があった。炉に火はなく、そしてそこに熾そうという動作もなかった。
ヨウマの、というよりもニェーズの武具は
その原料となるのがクリムゾニウムだ。赤く、表面で炎が揺らめくように見えるそれは、職人の意志の力に反応して様々な姿に変わる。ジクーレンが鍛えたものは、ヨウマの持つそれのように妖しい黒となる。
しかし、それだけではない。息子のために特別な思いを込めたその刀は、その息子以外に握られることを拒むようになった。刀身も美しく、彼はそれをオーンサガンと名付けた。
3カ月に一度、ジクーレンは刀をしかと握り、自らのケサンを分け与える。息子を守ってくれるように、確かな願いを込める。研ぐことはない。ケサンによってコーティングされているような状態なため、欠けたり鈍ったりすることはないのだ。
鎬筋を撫でる。そうすることで、ケサンが刃を覆っていく。白い輝きが、指に沿って放たれる。その瞳は深い慈愛の色を見せていた。ヒィーン、という電気自動車の音が反響する。店の前を通る人々の喧騒。その空間には一種の神聖さがあった。
「あの、ジクーレンさん」
刀を置いた彼に、優香が話しかける。
「どうして日本刀なんですか?」
「20年ほど前の総督、
ジクーレンはオーンサガンを鞘に納めながら言う。
「それから、ヨウマが武器を持つ時期と、ちょうど日本刀を打つ時期が来たのとが重なってな。それで、ヨウマには打ち刀をくれてやったわけだ」
「ヨウマの他にお子さんは?」
「あと半年で産まれる」
「え!」
口を覆う優香。それを見て、彼は微笑んだ──ように見えたが、微小すぎる口角の動きを見抜けはしなかった。
「男の子ですか? 女の子ですか?」
「女だ」
「え~! お祝いさせてくださいね!」
「勝手にするといい」
突き放すような言い方をしてしまうのが、ジクーレンだった。
「あれ、ヨウマじゃん」
突然に声が後ろから聞こえてきて、二人は振り返った。そこには人参が真ん中にプリントされたTシャツを着ているグリンサがいた。
「メンテ?」
グリンサによる問いかけに、ヨウマは
「そうだよ。グリンサも?」
と答えた。
「うん。団長、お願いできる?」
「今日は駄目だ。これ以上はケサンを使いすぎる」
「ちえっ。じゃあ明日また来るから、予定空けといてよね」
「ああ、待っておく」
言いながら、ジクーレンは刀をヨウマに返した。
「ありがとね」
「無理はするなよ」
「そうも言ってられないよ。ニーサオビンカに完全に目をつけられちゃったみたいだし」
彼の大きな手が、ヨウマの頭に乗せられる。
「ニーサオビンカは他のメンバーと協調しない傾向にある」
手を離さないままジクーレンは語る。
「人数が少ない故、任務を割り振ると自然単独行動になる。無論、手駒を使うことはあるが、動向を気取られないよう少人数になるのがほとんどだ。うまく他人を使えよ」
「うん、わかった」
「それではな。体には気を付けるんだぞ」
「じゃあね、親父も元気で」
手を振って去る二人を見ながら、ジクーレンは己の内奥を見つめていた。息子を死地に送り出すことが、親の務めなのか。戦士の生き様に口を出さないことが、親としての役割なのか。板挟みになりながら、彼は掌を眺めた。そして、握った。
「ヨウマは納得してると思うよ」
「そうか」
返事をしながら彼は奥の戸を開く。
「店仕舞いだ。気を付けて帰れよ」
「はいはい。また今度ね」
◆
雨が降っていた。優香は林檎のジュースを片手に持ちながら、車の中から空を見ていた。
「一つ、いい?」
彼女は隣のヨウマに問うた。
「何?」
「戦うのって、怖くない?」
「正直言うとさ」
ヨウマは一度言葉を切った。
「死ぬのは、嫌だよ。でも、親父には育ててもらった分の恩を返さなきゃいけない。それなら、僕は戦える。自分で決めたことだしね」
「……すごいや。私なら、怖くて動けなくなると思う」
「後は、なんていうか、そんなに負ける気もしないしね。グリンサがしっかり仕込んでくれたから」
「グリンサ?」
「親父のとこであったニェーズ。僕の師匠」
「そのヒトも七幹部?」
「そうだよ」
「もしかして、人脈あるタイプ?」
「勝手にそうなっただけだよ。親父がいい先生をつけたがるからさ」
責めているわけでもないのに言い訳じみたことを言う彼を見て、クスリ、優香は笑った。
「お父さん、ヨウマのこと好きなんだ」
「はっきり言わないけど、少なくとも嫌われてはいないよ」
二人を乗せて、車は進んでいく。驟雨は、過ぎ去った。