「来ましたね」
警備会社本部の一室で、作務衣に白仮面という出で立ちのナピが嗄れた声で言う。背丈は約250センチ。開かれた扉の前には、ヨウマとキジマがいた。
「何の用?」
と問いながら、ヨウマは後ろ手で扉を閉める。
「スパイがニーサオビンカの動向を掴みました」
椅子の上から、彼は言う。その左手には青い鞘の剣。
ヨウマたちは何も言わずに適当な椅子に腰掛けた。
「次に動くのはイータイ。第2席です」
「狙いは?」
「不明です。しかし、出渕優香を確保することが目的である可能性が高いと捜査部は見ています。結界の破壊を試みるかもしれません」
「やばいじゃん」
「ええ、やばいです。全結界術師に加えてスペシャリストのイルケも動かして強化に当たりますが、我々はそれに並行してイータイの逮捕ないし殺害を目指します」
「俺たちだけでなんとかなりますかね」
不安を示すキジマを、ヨウマは見上げた。
「警備会社の人員は逼迫しています。大規模な動員は不可能なのです」
「それはわかりますが……」
「ゴーウェントと対峙した際の報告には目を通しました。私とあなた方であればきっと勝てますよ」
声音は機械的で、仮面の下にあるはずの感情を感じさせない。その楽観的とさえ思える見通しをする面がどんなものなのか、キジマは気になった。
「本来はもう一人いるのですが──」
そこまで言ったところで、扉が乱暴に開かれた。
「ごめーん!」
グリンサだ。今日は真っ赤なTシャツを着ていた。
「バス逃しちゃって」
「あなたは時間にルーズすぎる。もっとしゃんとしなさい」
「うるさいなあ。私の親じゃないんだからさあ」
彼女は露骨に苛ついていた。
「いいですか、時間を守るということは人間関係の根幹を成すものです。したがって──」
「そういうのいいから、仕事の話しようよ」
ヨウマが見かねて遮った。
「コホン。そうですね、私ともあろう者が取り乱しました」
グリンサがヨウマの隣に座ったのを見て、ナピは空気を吸い込んだ。
「とにかく、我々は捜査部と連携してイータイを追い詰め、その野望を砕かねばなりません。夜明けのタルカによるテロも起こっている今、ニーサオビンカを叩くことは非常に効果的であり、そして何より、総督の遺児をお守りするという使命があります」
話が長いなあ──なんてことをヨウマは思った。
「そういやさ」
なんとなく退屈になって、彼は口を開いた。
「スパイって誰なの?」
「私も知らされておりません。団長とオパラと他ごく少数の間のみに共有されていることだと思います」
「ま、信じるしかないってこと。私らはやることバッチリやってみせようじゃん」
グリンサは笑顔を浮かべながらヨウマの肩を突いた。僅かな不信を抱きながら、親父のやることなら──と受け入れて、彼は黙った。
「でも、七幹部は二人回してくれるんですね」
キジマが言う。ナピは静かに頷いた。
「イータイと呼ばれるニーサオビンカは少なくとも300年前から記録されています。そこにどういう仕掛けがあるのかはわかりませんが、何が起きてもいいようにグリンサを無理を言って回してもらいました」
「そういうこと。またよろしくね~」
「その絡繰、ナピさんはどのように予想していますか?」
「単に襲名制、という可能性はありますが……オビンカ含め、ニェーズの寿命は地球人の2倍ほど、長くて200年です。300年を生きるには、何かしらの外法に手を染めるよりありません」
ヨウマは化け物を想像した。腕が5本も6本もあったり、口がいくつもあったり、髪の毛が蛇だったり。少し面白くなったが、笑顔は表れなかった。
「しかし、やらねばなりません。我々の成果如何によってはニーサオビンカの勢いを大きく削ぐことになるはずですからね」
「まずはどうするの?」
問いかけるヨウマに、ナピは抑揚のない声で答える。
「スパイがイータイの動きを捉えています。明後日の夜、手下との会合を開くようです」
「数は?」
「5人と見られています。あちらも動きを気取られたくはありませんからね、必要最低限の人数で動くはずです」
「そこを叩く、ってことね」
グリンサの言葉を聞いて、ナピが頷いた。
「それでイータイを排除できればよし、そうでなくとも手下を斃せればよし。焦らず参りましょう」
立ち上がるナピ。他の3人もそれに合わせて立った。
「使命を、果たしましょう」
◆
出渕優香は、ソファの上に倒れていた。
「あ゛ーー」
声にならない音を出す。
「どうしたの?」
ヨウマが大きなバッグの中身を点検しながら問う。
「二日目」
「なんの?」
「生理」
「ああ……」
彼は小さな声を出した。深雪との共同生活の中で、そういうものがあるのだということは知っていた。
「僕はしばらく帰ってこないけど、大丈夫?」
「いたってどうしようもないでしょ」
「そんな言い方ないじゃん」
あわあわと、深雪が頭をヨウマに向けては優香に向けてを繰り返す。
「ごめん、気にしないで」
優香のその言葉を最後に、如何ともしがたい沈黙が3人を拘束した。深雪は泣きそうな顔をしている。ヨウマは微かに不快感を表情に出すが、それを振り切って
「ま、いいけどさ」
とだけ言った。
「深雪、行ってくる」
「は、はい。けけけ、怪我はしないで、くださいね」
「うん、気を付ける」
バタン、扉の閉じる音。残された深雪はおろおろしながら優香に近づいた。
「おっ、お薬、いりますか?」
「飲んだ」
心底苦しそうな、地獄の亡霊に足首を掴まれたような声で彼女は答える。
「そそ、そうですか……」
すごすごと深雪は引き下がる。何も言わないまま、シンクに溜まった洗い物に手を付ける。ジャーという水の流れる音と、カチャカチャと食器の擦れる音だけがそこにあった。
「テ、テレビでも見てたら気も紛れるんじゃないですか?」
「そうだね、そうする」
優香は気怠げに手を伸ばし、テーブルの上のコントローラーのボタンを押した。ワイドショーだ。下らない個人攻撃を繰り返す構成。厭になって、10分もせずに彼女はテレビを消した。
「う゛ー、お腹痛い……」
呟く。
「深雪ちゃんは、いいよね」
「な、何がですか?」
「そうやって恩返しができて。私、家事なんて全然わかんないし、何もできないよ」
「ぜ、全然教えますよ、一緒にしますか? あ、でも、今日は厳しいですね……すみません」
一人で勝手にシュンとなる深雪を見て、優香はまた少し苛ついた。普段はかわいらしく見える所作も、今の彼女にしてみれば精神をいやに刺激するだけだ。そういう自分に気づいて、更に気分が悪くなる。負のループ。
「ここ、今度、病院行きましょう。お薬、出してもらえるかもしれませんし」
「ヨウちゃんもキジマさんも帰ってこないのに?」
「な、何も今日明日で行こうって話じゃないです。色々終わって、時間があるときに行けばいいじゃないですか」
深雪の方もあまりにネガネガとされるのが頭に来ていた。女として、その苦しみの一端を理解することはできる。しかし、それが如何ほどのものなのかは、想像してもしきれない。
「深雪ちゃんは軽いの?」
「軽い、ってヨウマさんのお母さんに言われました。に、ニェーズの生理は、地球人より、軽いらしいんですけど」
「いいなあ」
ニェーズにも生理があるんだ、という疑問すらわかないまま、優香はそれを受け入れる。考える間もなく当然のことだ。ニェーズの身体構造は地球人のそれとほぼ一致している。唯一違うのは、甲殻を発生させる魔術的器官が存在することだ。
「あ、あの、いいですか?」
怯え気味に深雪が言う。
「何?」
「よよ、ヨウマさんのこと、どう思ってますか? わ、私から、取ったりしませんか?」
「会った時も言ってたね、それ。ヨウちゃんは深雪ちゃんを捨てたりしないと思うよ」
「う、うへへ……」
安堵なのか不安なのかわからない受け答えだった。
「深雪ちゃんはヨウちゃんのこと、好きなの?」
「そそそ、そんな烏滸がましいこと……でも、一緒にいたい、です」
ソファの上から重い頭を持ち上げて、優香は深雪の顔をじっと見つめる。
「ど、どうしました?」
「……なんでもない」
彼女は顔を伏せた。頬にある傷のことがふと気になったのだ。しかし尋ねない。いつかのように無慮のまま心に踏み込めば、無駄なダメージを与えるだけとわかっているからだ。盗み聞いたわけではないが、深雪にとって父がトラウマであることは聞いてしまった。虐待の影。それがあの傷なのだろうとは推測できた。
一つ、謎がある。何が深雪の父を凶行に走らせたのか。考えたところで詮無きこととは承知の上だが、平然と誰かを傷つける存在がいるとは思いたくなかった。
顔も名前もわからない他人にそのような願いを持つことは愚かしいのか、彼女は思考する。結論としては馬鹿らしい、ということになったのだが、思いのやる先もなく、手を目の上に置いた。
あの傷ができた時、深雪はどういう心持だったのだろう、と彼女は思う。簡単な想像をすれば、恐怖に満ちていたのだろう。しかし、親が子に痛みを植え付ける異常な環境において、普通な感情が発生するかは疑わしい。
畢竟、自分は何も知らぬ子供でしかない。ヨウマのように身を立てる力もなければ、深雪のように誰かに尽くすに足る技術もない。ただこうして無為に日々を過ごすのみ。
(嫌だな、こういうの)
何を嫌悪しているのか、はっきりとした答えは浮かばないままそう思った。
勉強も、思うように進まない。課題の大部分は自宅が立ち入り禁止になったことで置き去りのままだ。たまたま鞄に入っていたものだけでも手を付けようとするが、それもうまくいかない。得体の知れない不吉な塊が彼女の集中を妨げる。そこに生理が重なる。彼女の気分は底も底だった。
「せ、生理でイライラするときは大豆が、いいらしいです。な、なので、よく似たコイタの豆腐を使ってグラタンにしようと思うんですが……どうですか?」
「ありがと。いいと思う」
「うへへ……」
深雪はスマートフォンにメモを残す。
気遣われている。それが恥ずかしくて、優香は窓の外を見た。どんよりと、黒い雲が空を隠していた。