β28を刺し殺し、その血を浴びた男は____否、もはやそれは男ですらなくなったのか。
性転換?
否、だ。
進の目の前のやつの姿は人間という質量を裕に超越しているし、そもそもこんな形のものを人間とは言わない。
……それは、形だけならば《|土人形《ゴーレム》》に似たものだった。
身長は約四メートル、肌は何か黒いもので覆われている。
それに直に触れてはいけない、と進の本能が警報を発していた。
半歩、進は体を後ろに下げる。
(なんなんだ、こいつは?)
まさか実はこれが人間の本来の姿なんです、なんて言わないだろうし。
かといって、これがやつの望まなかった姿だとも思えない。
まるで、鬼にならないかと誘われてしまったような。
ゾクリ、と背中を駆け抜けた悪寒が、全身を支配した。
「ボォォォォ……」
船の汽笛のような音が、それの口らしき場所から漏れている。
呼吸、とはおそらくまた違う。
ただ空気が吹き抜けていっているだけ。
たったそれだけなのだ。
「あの野郎……」
「ボォォォ、ボォ」
剛腕が振るわれた。
と、進が知覚できたのはそこまでだった。
回避をしたはずの身体中に衝撃が駆け巡り、そうして進が気がつけば足場のない空中へと放り出されていた。
受け身行動をとっさに取ったが、いかせん進とて人間だ。
ノーダメージだなんてそんな要求は無理なものであった。
されども進はそこでみすみす倒れるような無様は晒さない。
「ボォ」
「
ガリガリ、バキバキバキバキ____!!
その腕が一振りされるだけで、周囲のもの全てが吹き飛ばされていく。
他とものでさえも例外ではなく、そこに血の赤が残らないのは人の少ない時間帯の住宅地区ということと、住民の早期避難が行われているから、だろう。
「《変形》」
無駄だ、とわかっていながらも進は荒れ果てた地面を壁に変えた。
が、最も容易く今度はそれがにぎり潰される。
チッと、進は舌打ちを返した。
(ダメだ。こいつには俺一人で戦っても絶対に勝てない!)
諦め、というよりはそんな事実を叩きつけられて、進はそれでも怖気付いたわけではなかった。
(少なくとも少しの間時間稼ぎさえできれば、必ず誰かがやってきてくれる。みこととか、おそらく光とかも。……だから俺は)
その時がくるまで、死ぬことなんかできない。
ではどうしようか、と進は考える。
まぁ、結局彼の頭の中に浮かぶ答えもたった一つしかないのだが。
「とりあえず、逃げる!!」
いやばかか、という反応も少なからず返ってきそうな行動だったが、それはそれで良かったのではないだろうか。
ここで無駄に立ち向かったとしても、その先に見えるのが紛れもない敗北と、死なのだとしたら。
この世界において、自分が生き残る以上に大切なことは存在しないのだから。
「ボォォォォ」
「もぉ、嘘だろぉ!? こいつの狙いは結局俺なのかよぉ!!」
If it____。
もしも、進がもう少しだけ《錬金術》という能力を自然に使いこなすことができるようになっていれば、敗走なんて真似はしなかっただろう。
あくまでも最善手を、最善手を。
この時ばかりは、進にその要求が迫られていた。
「ダァもう! 洒落せぇ、この糞ハンターが!!」
「ボォ」
一撃喰らってしまったら、このゲームは即終了する。
(____なんて、どんなハードコアモードだよ。こんちくしょう!!)
剛腕がまた、当然かのように振るわれて非日常的な日常を謳歌していた、進の見慣れ始めた場所は姿を変える。
それでいて、このデカブツの目的は破壊と殺戮でしかないというのだからたまったもんじゃない。
「俺を殺すこと、それが目的じゃなかったのかよ《ハンター》っ!!」
その周りに、β28以外の赤色がないというのが進の倫理観をきちんと保たせている要因か。
憤怒に身を任せてしまえばいっそ楽になるかもしれないのに。
それでも、だ。
(どっちだ)
右と左を見渡して、進は誘われるように右へと折れた。
そのまま転がったのは、剛腕が家ごと掻っ攫って行ったからだ。
黒に覆われた腕は、それだけの破壊をしてもなお傷一つつかなかった。
(どっちに)
飛び跳ねてきた小石が、進のほおを掠めていく。
滴る血液を手で拭って、進は考える。
(どっちだ、どっちに!)
みことはいる。
あるいは光はいる。
“ランクなし“の自分ではなく、“S級“という最強の一角の称号を有するその人間たちは。
彼らは来る。
必ず、だ。
そう、進は確信していた。
だから逃げ続けるのだ。
助けが来た時に一緒に戦えるように。
「ボォォ」
不気味に、まるで鳴くかのようにその音は反響する。
進はわかっている、この目の前の生命とも言えない状態の
(いや、生命活動を終えているって時点で死んでる気がしないでもないけどもさ……)
そこら辺は認識と定義の問題か。
心臓が止まって蘇生不可能という状態になってしまえばそれは死であるという考え方と、そうなったとしてもそこに本人の意思さえ残っていれば死ではないと、そういう考え方の。
「あれ?」
と進は思った。
意外と簡単に逃げ切れている?
思考をめぐらしている間に、後ろの威圧感が消えて気がして進は振り返ってみた。
そして振り返った先に見えたものは、静かに自分の方を見つめてくる黒いゴーレムのようなもの。
「行動距離の限界か?」
____そんな制限があってくれれば、どれだけ良かったことか。
ゾワッ、と進は悪寒を感じて体を震わせた。
空気が、重い。
ギシギシギシギシ、とありふれた空間が悲鳴を上げるように音を立てる。
(違う、これは___っ!?)
空間が、吸い込まれていく。
ただの空気の通り穴できななかったやつの体へ、ゆっくりゆっくりと。
別離された何かを呼び込むように、進の目線の先で敵は確かに空気を吸い込んでいた。
呼吸、とはまた違う。
そんな生理的現象ではなく、意図的な何かが仕組まれている。
それは到底進には予想できないものだった。
「ゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!」
不思議なことだが、何かを吸い込んでいるように見えるのに空気の流れが生まれていない。
汗が滲み出した肌は空気の流れをいつもより敏感に感じ取ることができるというのにもかかわらず、だ。
それが以上なことくらい、隣に《風神》が居ずとも進はわかっていた。
何か物が動いているのに、それに一切の空気の動きがないなんて、ありえない。
「《|万能元素《オーブ》》、だからなんてそんな言い訳に逃げてしまっちゃいけねぇ」
あくまでもそれは元素、あくまでもそれは規格外のこの世のもの。
移動するのには確実に“
例外はない、はずだ。
(光だって、みことだって)
風を操るウエポン、災害を再現するウエポン。
そのどれにも、物理法則というのはきちんと働いていた。
多少、常識的に考えればあり得ないような面も持ち合わせていたがそれでも、その法則にほんの爪先も掠らない、なんて。
そんなものあり得るはずがない、と進の本能が叫んだ。
その瞬間、あたりに黒が降り注いだ。
霧のように降ってきたそれは、
「黒い、瘴気? まさか!?」
やつの体の表面を覆っていたもの?
ハッと進は現実逃避気味に吸い込んでいた息を、吐き捨てた。
つまりそれが、あれの《ウエポン》なのか。
権能はわからない。
だがしかし絶対的な何かを宿している。
故に進の足は恐怖ですくむ。
逃げろ、と本能が叫んでいることを脳が理解したのはいったいどれくらい後の話だっただろうか。
その時にはもう、
「グァハッ!!」
全身に激痛が駆け巡って、進はたまらず声を発する。
視線を上げてみれば、相変わらず敵は少し先の視線上に存在していた。
一歩も動いてはいなかった。
「何がどうなってっ!?」
「ボォォォォ!」
また激痛。
同時に、ジリリと刺すような別の痛みが襲いかかる。
もはや何をされているのか、なんて話ではなかった。
何もされていないのに何かをされたかのように体が誤認識している、そういったらわかりやすいだろうか。
(原因は、この瘴気……か?)
なんの効果がある?
そもそも、この黒い瘴気はいったいなんなのだ?
(“精神攻撃“系統か、“毒“の側面があるのかあるいは……)
直接的に体が何か異常をきたすような、もっと違う何かなのか。
否、と否定できないところが怖い。
「ボォ」
また、音が聞こえた。
「またっ、この攻撃はっっ!!」
防げない。
そもそも、その攻撃自体が存在しているのかもわからないのだから防ぐこと自体概念的に行うことができない。
幽霊を殴ることができない、みたいなそんな感じだと進はそう思う。
カクンと、立っていた進の膝が折れた。
「クッ」
これをチャンスと見たか。
一際大きな音がボォォォォォォォォォォォォォxoxoxoxoxoxoxo____と鳴り響いて。
ぎゅっと目を瞑った進へ次の瞬間に。
痛みは、襲って来なかった。
代わりに、フワリと心地の良い匂いが。
ゆっくりと進は目を開ける。
そうして同じようにゆっくりと視界に入ってくるのは、ロングに伸ばされたサラサラとした茶髪。
流星学園の制服。
「……光」
進がそう呟いたのは彼女に届いたのか届かなかったのか。
彼女は進の方をチラリと一瞥して、本人も気が付かぬうちに口から漏れていた血液を見て。
「
「そういうの本当に勘違いしちゃうからやめy____かはっ。流石に茶化すのに使う体力は残ってねぇや」