宋家の馬車だ、と、そう認識した途端、
もちろん、馬車がそうだからといって、そこに乗っているのが宋家の令嬢――燎琉との婚約の話が持ち上がりかけていた、
できれば彼女と顔を合わせたくはない、と、おもう――……なぜなら、いまそばにいる
ここで鉢合わせて、瓔偲に要らぬ誤解を与えたくはなかった。
そんなことを思って、ふと、いったい誤解とはどういうことだ、と、自分の思考を自分で
清歌は、婚約間近までいった、燎琉の想い人――……それでまちがいないのではないのか。好ましい相手だ、と、彼女と結ばれるならしあわせだ、と、燎琉はつい先頃まで、そう思っていたのではないのか。
自分の中に急激に起こりはじめている感情の変化に、燎琉は眉根を寄せた。
困惑は、たしかにある。わけのわからないきもちに戸惑っている。
けれども一方で、いま清歌と遭遇したくないという思いが自分の真情であることも、紛れもない事実として認めなければならなかった。
もしもすべての真相が明らかになり、燎琉と瓔偲とがつがったことが誰かの陰謀だと証明されたなら――……燎琉は瓔偲との婚約を破棄して、その後、再び、宋清歌との関係を築いていけるだろうか。瓔偲とのことなど何もなかったことにして、これまでと同じように、彼女と親しく付き合っていくだろうか。この少女をこそ妻に、と、望むだろうか。
つらつらと考え、ああそうか、と、燎琉は得心する。
つがいを得るというのは、あるいは、こういうことなのかもしれない。自分の中には、望むと望まざるとに関わらず、たしかな変化が起きてしまっている――……そして、そのことを、自分は決して不快に思うわけではないのだ。
もしかすると、だからこそ、いま宋清歌と顔を合わせたくないのかもしれないかった。
燎琉は、自分から急に身を離そうとした瓔偲を、むしろ再びそっと引き寄せる。彼が燎琉から離れようとしたのは、おそらくは、馬車に宋家令嬢が乗っているかもしれないと考えたからだろう。燎琉が宋家の
でも、そんなことは、気にかけなくてもいい。お前は俺のつがいなのに、と、自分の気持ちを掴みあぐみながらもそう思って、瓔偲を離さずにいるうちに、やがて馬車は燎琉たちの前を通り過ぎようとしていた。
が、そのまま行き過ぎるかと思いきや、ちょうどこちらの正面で
「お久し振りにございます、殿下」
馬車の小窓が開き、中から顔を覗かせたのは、まだまだあどけなさの残る少女だ。宋清歌である。
「お姿が見えましたので、ご挨拶を、と」
清歌はおっとりと微笑みながら言った。
彼女はいま華やかな
くちびるには薄く紅を刷き、頬にもわずかに頬紅がはたかれている。あるいは、どこかへ出掛けていくところなのだろうか。
「これから後宮へ参りますの。
燎琉が訊く前に、清歌はそう教えた。
「そうですか。お気をつけて」
燎琉はごく素っ気なく、当たり障りのないことだけを言った。幾度か会って、親しく言葉を交わした間柄のはずだというのに、口調は妙に
だが、燎琉のそんな態度に、清歌は何も思ったりはしないようだ。おっとりと笑ったまま言葉を継いだ。
「殿下がご婚約なさったと、父から聞きました。おめでとうございます。――あ、いけない。これってまだ内々の話でしたわね。でも、もしかして……いまご一緒なさっているのが、その方ですか?」
こそ、と、そう問う清歌の表情は、いかにも華やいでいて明るかった。そこには、これから燎琉の
強がりではない、と、燎琉は本能的に察していた。
清歌はたぶん、心の底から、燎琉の婚約を喜んでいるのだ。
「うらやましゅうございますわ」
少女はさらに、うっとりと続ける。
「第弐性を持つ甲癸の間柄の中には、ときに、出逢った瞬間に惹かれ合う、天定めし魂のつがいとよばれる御二方がいらっしゃったりもするのでしょう? すてきですわよね。わたくしも、そこまで運命的でなくてもいいから、思いを寄せる殿方と結ばれたいわ。でも、実は……今度、それが叶うかもしれませんの」
恥じらう態で、はにかむように、彼女は微笑む。それは実に無邪気で、実に幸福そうな笑みだった。
燎琉とのことが白紙になり、早くも、清歌には次の縁談話が持ち上がっているのだろうか。宋家ほどの家柄ならば、その令嬢も引く手は
自分との婚約も間近だと言われていた少女が、いまや他の男に縁付いていく。それでも不思議と、燎琉の胸は痛みはしなかった。ただ、そうか、と、それだけを思う。
「では、わたくし、参りますね。御機嫌よう、殿下」
おっとりと挨拶をした清歌が小窓を閉めるのとほぼ同時に、馭者が鞭を当てて、馬を再び馳せさせた。
馬車が去って行く。その後ろ姿がちいさくなるのを見送りながら、燎琉は、自分の中で、なにかひとつけじめがついたような気がしていた。
「良縁だと思っていたのは、そも、どうやら俺ひとりだったようだ」
宋清歌が喋りはじめてからこちら、
けれども、瓔偲は困ったような表情をする。
「わたしとの婚姻さえなくなれば……殿下にはまた、いくらでもふさわしいお相手が現れます。宋家の御令嬢ではなくとも」
慎重に言葉を選びつつ、相手は燎琉をそう慰めた。
けれども燎琉は、むしろ、慰めなど必要としてはいなかった。これもまた、別段、意地になっているわけでも強がっているわけでもない。
おそらく、自分は真実、さほど傷ついてはいないのだ。それはつまるところ――宋清歌にとっての燎琉がそうであったように――燎琉のほうでも、彼女が特別な何ものでもなかったということの証左だった。
結局は、ただただ申し分ない相手だ、と、その程度の想いしかなかったということだろう。
すくなくとも、相手に対する苛烈なまでの慾が、燎琉の中に存在していたわけではなかった。それがわかって、よかった。
気づきは
「ああ、雨が
燎琉は空を見上げて確かめ、瓔偲に笑みかけた。
「とっとと帰ろう。このままじゃふたりとも風邪をひく」
彼の手を引くと、南門のほうへと足を踏み出した。