店の外へ出ると、先程までの晴天はどこへやら、なにやら雲行きがあやしくなっていた。
早く戻らねばひと雨あるかもしれない。ふたりはどちらからともなく、城壁の南門へ向けて、やや足早に歩きはじめた。
「ひと月前……わたしは間違いなく、
店からある程度離れたところで、隣を歩む
「うん。そうだろうな」
瓔偲はたしかに、いまからひと月前に、
そのことは、いったい何を意味するのか。誰がどの段階で、瓔偲の
燎琉は思案して、難しく顔をしかめる。
瓔偲の暮らす官舎に忍び込んで、隙を見てやったのでもない限り、それは瓔偲が吏部に首輪を預け、手元に戻されるまでの間になされたのではなかったのか。林珠寶店に
そうなると、導き出される結論がある。
「吏部か」
無意識につぶやいた。
「薬も、たしか吏部の医局で処方してもらっていると言っていたな」
燎琉の確認に、瓔偲は、はい、と、頷いた。
「吏部……」
もう一度そう言ったとき、燎琉は、瓔偲がなにか考え込むように地面を見詰めているのに気が付いた。
「どうかしたか?」
燎琉が不審に思って訊ねたときだった。天から
雨だ。
燎琉ははっとして、反射的に羽織っていた
「こっちへ」
肩を抱くようにしながら促して、一緒に近くの軒先へ走り込む。
雨は見る間に
「殿下、いけません」
燎琉の褙子の下から顔を覗かせた瓔偲は、戸惑いを滲ませた小声で言った。
「御身が、濡れてしまいます」
わたしなどのために、と、瓔偲はつぶやく。
燎琉はそれに対し、むっとくちびるを引き結んだ。
「俺がお前を濡らしたくないんだ。何が悪い」
ぶっきらぼうに言う。
すると瓔偲は一瞬黙し、それから、すっと燎琉から顔を背けてしまった。
「こまります」
消え入りそうな声で、ちいさくこぼす。
「何が困るというんだ?」
燎琉が問うと、相手はなにやら言葉を探しあぐむふうだった。燎琉は、ふう、と、長い溜め息をついた。
「おとなしくしてろ。お前が暴れると、軒からはみ出した俺がもっと濡れるぞ。それでもいいのか?」
最後は半ば
どうも脅しは効いたらしく、そのまま黙り込み、言われた通りに燎琉の腕の中におとなしく収まっている。その身体はどこか――あるいは、なぜか――緊張したように強張っていた。
「……どうして」
やがて、ぽつん、と、聞こえてきた声は、地面を打つ雨音に掻き消されそうなほどに頼りない。
もしかすると瓔偲は、それが燎琉に届かずとも、それでもよいと思っていたのかもしれなかった。だが、燎琉にはちゃんと聴こえた。だから、どうした、と、相手の顔を覗き込む。
瓔偲はまるで、迷子になって途方に暮れた子供のような表情をしていた。
「殿下はどうして……そんなにも、おやさしいのですか」
眉を寄せて問うてきたのは、そんなことだ。
「どうしてそんなに、わたしを……まるでだいじなものかなにかのように、扱ってくださるのですか。だってわたしは、
途方にくれたような瓔偲の口調は、けれども、わずかに燎琉を責めるような響きすら帯びていた。
そのたのみない眼差しに出逢った瞬間、燎琉は思わず瓔偲を引き寄せていた。ぐ、と、力を籠め、相手の身を己のほうへと近づける。
「べつに、ふつうだ。とくべつ何か考えてやってるわけじゃない」
こんなのはふつうのことだ、と、耳許にそう告げる。
「だからお前も変に気にするな。何も気にせず、おとなしくかばわれていればいい。これくらいのことなんでもないんだから」
そう続けると、それでも瓔偲は、頑固にちいさく
「だって、いままで誰も……癸性だとわかって以来、誰も……わたしのことを、そんなふうに扱ったりしなかった。こんなに無条件にだいじにしてもらったことなど……なくて」
言った瓔偲の柳眉が切なげに寄せられる。相手は、まるでひどくまぶしいものでも見るかのように、目を
「それなのに、殿下は……どうして」
「だから……べつに特別な理由なんかない。それに、叔父上だってお前をだいじにしてたろう?」
燎琉が言うと、瓔偲はわずかにうつむいた。
「
ほう、と、せつなく息をつくように言う。
「そんなわけはない」
叔父の名誉のためにも燎琉はそう思うが、瓔偲はどうやらそうは考えないようだった。
けれども、燎琉は容易には瓔偲の考え方を責められなかかった。なぜなら、瓔偲がそう思うのもまた、彼がこれまで不当に低く扱われてきた
何に対するものか判然としない
けれども、腹で
「わたしは、殿下にとって邪魔でしかない者です。何の役にも立ちはしない。望まずつがってしまった相手、癸性の妃など、皇帝の命さえなければ、いますぐにも放り出したいでしょうに……どうしてですか? 殿下には、想う相手さえいらっしゃるのに」
瓔偲の口許にはほの笑みこそ浮かんでいるが、彼がいま見せる表情はまるで泣き出す寸前のそれのように見えた。
ざんざん、ざん、と、雨粒が地を、
「普通だ。これが、普通……いままでお前が大事に扱われてこなかったというなら、そっちのほうが、間違いだ。癸性だろうがなんだろうが、役に立つとか立たないとか、そんなこととも関係なく、お前だって
燎琉は瓔偲を抱く腕に力を籠めた。
「だって、そんなの、当然だろう? 蔑ろにされていい人間なんて、この世にいるはずがない。すくなくとも、俺はお前のことを……邪魔だなんて、思っていない。思っていないからな」
燎琉はなぜか必死になって、念を押すように、瓔偲の耳許に言い募っている。瓔偲はしばらくなにも言わず、その身体も強張ったままだった。
だがふいに、くた、と、その身から力が抜ける。それと同時に、ことりとこちらの肩に重みがかかった。
刹那、甘い百合の香が匂い立つ。
「殿下」
「……ん?」
「すこしだけ……こうしていても、いいですか。いまだけ……この雨の間だけですから」
すみません、と、この期に及んで申し訳なさそうにそう口にする瓔偲は、これまで一度も、こんなふうに、誰かに寄りかかったことなどなかったのかもしれない。それを思うと胸が詰まった。
「うん」
燎琉はちいさく答え、相手の背にそっと腕をまわして、瓔偲を改めて抱き締める。ずっとこうしていてやれるなら、もういっそ、雨などずっと
どれだけそうしていたか知れない。
晴れすらまた永遠には続かぬのと同じ理屈で、篠突くごとく、
空が明るくなってきたのを、燎琉は瓔偲を腕に抱えたまま顔を上げて確かめた。燎琉が
「雨……
ほう、と、その言葉とともにそっと嘆息がこぼされるのは、彼もまたこの時間を、貴く、得難いものだと感じていたからだとしたらいい。燎琉はそんなことを考えつつ、そうだな、と、短く応じた。
その時だった。
「あ……」
ふと、瓔偲が
いったい急にどうしたんだ、と、ふいに離れていってしまったぬくもりが惜しくもあり、いきなりの反応に目を瞠るうちに、燎琉もまた気が付いた。
国府と