「いよいよっすね。最終試合、ウェルター級」
今回ばかりは、馬呉さんも興奮を隠しきれないみたいだ。
「ようやく見られるぜ、あんたのボクシングがよ」
「本当に長かったわ。お兄ちゃん」
万感の笑顔を、石神さんと玲於奈は浮かべた。
「そうか、一年ぶりか。長らく待たせちまったな」
そういうと、拳聖さんは高々と右拳を上げる。会場は、あの日のインターハイみたいに、歓声と悲鳴、そしてため息に包まれた。
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
その手拍子と歓声は、もう噴火直前の火山の地鳴りのようだ。
「おう、定禅寺西のボクサー諸君」
「佐山先生! 石切山先生も!」
「佐藤君惜しかったやんか。一ヶ月でここまで仕上げてくるとは、えらいたいしたもんやで」
「あ、ありがとうございます」
「けどな、運が悪かったわ。もう、数分前の君の激闘なんか、誰の頭にも残りよらんで」
「ははは、仕方ないですよ」
当の本人が自分の試合の余韻なんかそっちのけで次の試合を、叫び声をあげたいほどに待ちわびているんだもの。
だって――
「“シュガー”が再び、リングに降り立つんですから」
「ひっひひひひ」
この厭味ったらしい笑い声は……。
「まあ、このウェルター級こそが、この試合の本番みたいなものですからねえ……」
うげっ……漆畑……。
「この一戦で、うちと定禅寺西さんとどっちが上か、全国に示せるってものですよ」
失礼な漆畑の言葉もどこ吹く風、拳聖さんはクールに、けど甘く笑った。
「この一戦ですべてが決まる、か。最高のステージにしてやるさ」
そういうと、拳聖さんは控え室のほうへと姿を消した。
「さて……っと」
その姿を確認すると、美雄はポケットに手を突っ込み、パイプ椅子の背もたれに腰掛けた。
「皆もう、知ってるんすよね」
「え? 美雄、一体――」
「これでもこの一ヶ月間、ずっと二人で練習してきたんだ。どんなバカだって気が付くさ」
――
「そういうこと、ね。なんか仲間はずれにされてたみたいで、ちょっと傷つくな」
「まあそういうな。俺もこいつらには一切話ししてねえんだからよ」
「僕たちこそ、すいません」
僕は、深く頭を下げる。
「石神さんが、拳聖さんが復帰することに反対していた意味、全然理解できなくて」
玲於奈は唇をかみ締め体を硬直させている。
そうだ、一番つらいのは玲於奈なんだ。
「けど、もうしょうがねえよ。俺達が何言ったって聞きゃあしねえんだから。それに――」
石神さんは、僕と玲於奈の肩にポン、と手を置いた。
「考えてみりゃあよ、もし俺があの人の立場だったら……同じことをしてたと思うぜ」
石神さんは、にやりと笑った。
「そうは思わねえか? なあ馬呉よ」
いつも控えめなはずの馬呉さんが、熱っぽく、力強くうなずいた。
「結局、自分たちはボクサーなんです。ボクサーとしての自分自身が、一番大好きなんです」
「拳聖さんは……いや、違う。俺も含めて、みんな待ってのかも知れないっすね。みんなどっかで、もう一回自分に火を入れてくれる誰かを。そしてそれは――」
「決まりだな」
石神さんはにやりと笑い口を開いた。
「最後の試合、セコンドは……玲、玲於奈、拳聖さんについてやってくれ。拳聖さんも、それを望んでいるさ」
そう言うと美雄は、僕の肩にジャージーをかけてくれた。
「へっ、そういうこった。それに相手はなんつってもあの――」
石神さんが赤コーナーを睨めば、その異様に長い肢体がいまや遅しと待ち構えていた。
「――そ、そうっすね。相手はあの……は、半田当真さんっすから」
「身長百八十八センチ、二メートルを優に越えるリーチ、ウェルター級では破格のサイズ」
改めてみると、その手足がありえない程に長く、そしてシャープに感じられる。
石神さんは、その丸太のような腕を組んで忌々しそうに言った。
「そこから繰り出される反則級のジャブとストレート。はっきり言って“怪物”さ」
玲於奈……すごくつらそうな表情だ……。けど……だからこそ――
「さ、行こう玲於奈!」
「え? ちょ、ちょっと――」
僕は、玲於奈の手を掴んだ。
「僕たちがここで心配してたって仕方ないよ。だから僕たちは、拳聖さんが百パーセントの力を発揮できるようにサポートしようよ」
「玲……」
「それに、僕達が応援する相手は誰?」
「“シュガー”佐藤拳聖……あたしの、お兄ちゃん……」
「そう。だから、僕たちが何の心配もする必要ないよ」
――
カァ――ン
会場を震わせるゴングの音。
“最終戦ウェルター級、両選手の紹介をいたします”
その瞬間、会場中に響く、もはや不気味と言ってもいいほどの地鳴り。
そこにあるのは表現という形態を奪われた、純粋な感情のほとばしり。
八月の炎天下のような、むせ返るような熱気。そしてこれからリング上で展開されるであろう光景への期待。
そのすべてが、熱病の嵐のように狂おしく渦を巻いた。
“赤コーナー、半田選手。興津高校”
――オッキッツッ――パンパンパパパン――オッキッツッ――パンパンパパパン――
相変わらずの勇壮な、一糸乱れぬ声援。
けど、この熱狂の中ではもはや物足りなくすら感じられる。
半田、悪いけどあなたじゃないんだ。
ここにいる人たちが、救世主を待ちわびるように渇仰しているのはこの人なんだ。
“青コーナー――”
コールを行う興津の女子生徒の声色には、どこかうっとりと艶めいた香りすら感じさせた。
“――佐藤拳聖選手。定禅寺西高校”
ヒステリックな叫びととろけきったようなため息が、渾然一体の形容しがたいエネルギーとなり爆発した。
リングという“約束の地”、今“シュガー”は舞い戻った。
――パンパンパパパン――シュガー!――パンパンパパパン――シュガー!――
鳴り止まない“シュガー”のコールに、拳聖さんはあの日のように自身満々に、しかし一切の驕りを感じさせることなく微笑む。
僕たちはもはや、拳聖さんに率いられる仔羊の群れに過ぎない。
今日今この場所で失神してしまった人がいたとしても、一切疑うことはないだろう。
だって僕も玲於奈も甘い陶酔に、立っているのすらやっとだったんだから。
「何度立っても格別だな。試合前のリングってのは」
青コーナーのポストにもたれかかる拳聖さんは、ぬるい水の中をたゆたう魚のようだ。
「うん、すごく素敵……。このお兄ちゃんの姿、すっと待ってたんだから……」
玲於奈の中の心の迷いは、リングの上の拳聖さんのスウィートな姿に、どこかに吹き飛んでしまったみたいだ。
拳聖さんは、僕たちの頬に優しく自分の頬を当てた。
ほんの少しだけにじんだ汗が、僕の右頬にしっとりとした感触を残した。
「セコンドアウト!」
そして、僕たちの耳元には、甘く、少しだけくすぐったいささやきを残した。
「瞬きなんかするな。息だってするな。俺だけを見ていろ」